暴力を行使するには、それだけの危機事態が必要だ。
だから政治力のない
皇帝気分の老人は、自分にとって都合のいい「仮想敵」を作りたがる。
「敵」の脅威に対抗するためであれば、どんなワガママをしても許される、というのがトランプ流の発想なのだ。
イランの核施設に対する攻撃、ベネズエラの首都を急襲して大統領を連行する国際法違反にとどまらず、「敵」に奪われると騒いでグリーンランドを我が物にしようとするなど、
トランプの欲望原理によるワガママに世界が振り回されている。
多くのアメリカ国民は、おそらくこれらの「侵略行為」を望んでいないだろう。
トランプ政治の支持は低く、11月の中間選挙が普通に行われる
ならばトランプの敗北は決定的だ。
しかし、アメリカ人がどんなにトランプを否定しようと、
アメリカが「覇権」を維持するためにどれだけ「汚い」やり方をしてきたか、その「汚い」自画像をトランプという鏡によって見せられているだけなのだ。
ならば、アメリカの覇権をあてにする「手下国家」も、アメリカに倣って
非政治的な「政治の私物化」へと突き進むべきだろう。

イスラエルはすでに周辺国に対して軍事的優位を確立しているので、むしろアメリカ以上に好き勝手やっている。
では、「東洋のイスラエル」をめざす日本(イスラエルの模倣という世界の恥!)はどうか。
日本の周辺にはアメリカに次ぐ軍事大国の中国が存在しているので、日本の軍事的優位の確立は夢のまた夢だ。
その現実を考えれば、日本でトランプやネタニヤフのような政治を模倣するのは「自滅行為」なのだが、
幼子がママの真似をする純真さというか無分別さで、そんな「自滅行為」に突き進んでいるのが高市早苗を担いでいる自称「保守」のマザコン勢力だ。
彼らの中身はアメリカ追従しかないので、実際は安倍晋三ではなくトランプの非政治的なやり方を模倣したがっている。
その高市が19日に衆議院解散に踏み切ったが、自分が総理として好き勝手に政治をしてもいいかを「国民に決めていただく」のが解散の理由だった。
表面上は高市人気で選挙を戦うための争点に見えるが、民主主義を尊重する気がないのは明らかで、危うい独自政策を表に出さずに国民の承認だけを求めたのだ。
高市はたった3議席増加という信じられないほど低い勝敗ラインを設定したが、それで選挙に勝ったら国民の承認を受けたことにして、国民の半数以上が反対する政策を強引に進めるつもりらしい。
(その内容は改憲だとかスパイ防止法だとかSNS上で噂されているが、僕は「非核三原則」の見直しだと想像している)

高市の言う「自分たちで未来をつくる」とは「官邸だけで過去の路線を改める」という意味だと、僕にはすぐにピンときた。
首相当人が政治の「私物化」を国民に承認してもらうための選挙だ、と堂々と口にするくらい、国民がナメられているのも笑ってしまうが、
その官邸独裁GOGOのメッセージすら正確に解釈できないマスコミや国民の日本語能力にも、僕は呆れ果てている。
もはやこんな妄言を言わせてしまう人たちが、高市以上にアホだという感想しかない。
政治の「私物化」そのものを争点にする選挙など、民主主義を無視するための民主主義選挙でしかなく、僕はこんな「茶番」に参加することすら我慢ができない。
誰が投票になど行くものかという思いを強くした。
(じゃあ高市が勝ってもいいのか、という反論は正しいが、僕はあんなのが首相になっている時点で「日本はすでに死んでいる」と思う。
明確な「敗戦」を迎えるまで日本人は反省しないので、愚かなトップによって「敗戦」の時期を早めた方がマシだと考えている)
ついでに言っておくが、トランプは白人至上主義者でしかない。
彼が政治の舞台に登場した時に、黒人のオバマを過剰に敵視していたことは誰でも知っている事実だろう。
トランプのレイシズムを口にしない人が多いが、白人支配を当然視する「負け犬根性」はいいかげんにしてほしいと僕は思っている。
(だから僕は
AUKUSをあえて「アングロ・サクソン」と呼んで、特定人種による世界支配という現実を意識上に載せるようにしている)

トランプのような白人至上主義者にとって、世界の危機は地球温暖化ではない。
未来の世界人口推移をシミュレーションすると、将来アジアとアフリカの人口が増加するのは間違いない。
だから、未来にはアメリカで白人はマイノリティ化してしまう。
トランプはこのような未来から自分たちの支配権を守りたいだけなのだ。
移民を排斥しなくても、出生率から白人のマイノリティ化は進むのだが、移民が入ってきたらそのペースはさらに早まる。
トランプの移民排斥の動機はここにあるのは間違いないと思うが、これが明らかになるとトランプが日本を見下していることがハッキリする。
だから日本人はトランプの白人至上主義を認めるのが怖いのだろう。
(そういえば、トランプ再選以降「対等な日米同盟」という妄言を耳にしなくなったのは、僕の気のせいだろうか)
「Make America Great Again」などは、実際は「力づくで白人支配をもう一度盤石にする」ことを遠回しに言っただけのスローガンでしかない。
最近話題のグリーンランドはイヌイットの子孫が多く暮らしているが、先住民などインディアンのように力づくで征服すればいい、という発想は昔ながらの「白人思考」そのものだ。
その意味で、白人でもない人たちがトランプを支持する卑屈さには嫌悪感しか感じないが、
強い相手にはひたすら媚びて、弱い者をいじめて自己愛を高めるような卑屈な連中が、支配層である白人に媚びて、名誉白人気分で自分と同じアジア人を蔑視するのは必然かもしれない。
「保守」とか「愛国」とか言っていても、自分の人種が何であるかもわかっていない人たちなど愚かすぎて笑うしかなかろう。
どうしようもなく自己省察が欠けているのが日本人の特徴と言えるが、その「自覚のなさ」によって知的な人間より上に立てるのが「保守」化のダイナミズムであるらしい。
バカであればあるほど権力の近くにいられる、という反知性主義による
下剋上が、トランプ主義の醍醐味なのだ。

さて、このようなトランプ政治の正体がわかれば、その弱点も簡単に認識できる。
トランプのアキレス腱を語っておこう。
それは白人が「マイノリティ(少数派)」でしかないということにある。
だからトランプ的「私物化」の弱点とは、人々が真実に気づくことにある。
支配層の恩恵を得られる人たちは、あくまで少数でしかなく、大多数はそれによって損をさせられているという真実。
その真実に「マジョリティ(多数派)」である支配されている人々が気づいてしまうことが、最大のアキレス腱なのだ。
しかし、これがなかなかに困難を極めているから、現状のような世界になっている。
なぜ「マジョリティ」が「マイノリティ」の支配に従っているのか。
一つには、強い者と戦うリスクを負うより、支配されて「それなりに幸せ」な方がいいと信じているからだ。
もう一つ、「マジョリティ」であることが力となるには連帯しなければいけないのだが、
アングロ・アメリカン的な「消費的主体」は市場に依存しすぎているために、政治的連帯のための共同的な場もコミュニケーション能力も持っていない。
さらに擬似アングロ・アメリカンは「支配層の自意識」をも模倣しているため、他人に対してマウントを取ることに執着するばかりで、自分が連帯を必要としている「弱者」だと認めることができない。
他にも理由がある。
そもそも、なぜ数で劣る「マイノリティ」が多数を支配できるのだろうか。
それは逆転のための「武器」を排他的に保持しているからだ。
多勢に無勢という状況にある白人支配には、人数のハンデを逆転する「武器」が欠かせない。
アメリカが銃社会なのは、白人支配と密に関係していると思うが、逆転の「武器」とは何も銃だけのことではない。
大量破壊兵器はもちろん、寡占された大規模資本、少数で広域発信を可能にするマスメディアなども人数差を逆転する「武器」と言える。
最新兵器や金融資本、高度情報技術という少数に優位を与えるテクノロジー、
これらによってアングロ・サクソン的な「個人の万能感」がもたらされているということを忘れてはいけない。
80年代以後に日本で力を持ったポストモダン思想は、フランスなどの大陸哲学を用いてはいるが、実際はアングロ・アメリカン的な個人を「消費的主体」として実現するものだった。
日本におけるポストモダン化とは、市場やメディアの力によって、国家や既存共同体の圧力から「個人」を解放するものだと整理できる。
これが「周囲の影響を無視して自分を貫くことがカッコいい」という価値観を若者に行き渡らせた。
その本質は「周囲の目を気にせず自分の欲しいものを買うことは良いことだ(ヨーロッパなど無視してグリーンランドを購入することがグレート!)」という消費的な態度にある。
ポストモダンを背景にして、かつての若者は共同体の桎梏から解放され、「消費的主体」として社会性から楽に逃避ができるようになった。
(皮肉にも共同体の圧力に変わって、他人が支持したものを自分も買うという消費的な「
同調圧力」が強化される結果になったわけだが)
しかし、この「強い個人」は消費的に成立したものであり、金がなければ維持できないものだ。
手持ちの金がなくなれば、むしろセーフティネットとして働いていた共同体や社会の援助が受けられずに孤立感・孤独感を深めるだけとなる。
その孤立感から逃れるために、SNSやYouTube経由の「空疎な共同体=愛国幻想」にしがみつくネトウヨ的な「保守」勢力が台頭するようになった。
株価上昇を「高市トレード」などと呼んでしまうのは、デイトレーダーなどの投資家が金銭以外のセーフティネットを持たないために、孤立不安を癒す幻想に飲み込まれやすいからだろう。
共時的消費と先端テクノロジーに依存する「消費的主体」は、貧乏になればいつでも「保守」の幻想に捕まる可能性がある。
(昨今の「消費的主体」は、オタクのまま白人貴族に
転生して、悪役=敗戦国から逆転する「高度経済成長グレートアゲイン」の物語を、消費で取り返すタイムループに励んでいる)

トランプが大統領として異例だったのは、既存マスメディアを敵視し、自分勝手な発信をTwitterで行ったことだ。
これが共同性や社会性よりも「強い個人」を重視する態度の現れだということに気づかないといけない。
SNSこそ「
少数派」が数的なハンデを逆転するためのテクノロジーだと言える。
Twitterだって「いいね」などの数がものを言う「数の世界」ではないか、と思う人もいるだろうが、問題なのはそもそもの発信に関わる部分なのだ。
既存のマスメディア、たとえば新聞やテレビなどで意見を発信する場合、その内容が「広く受け入れられるか」が事前や事後に判断される。
ちょっとした検閲みたいなものだが、これは発信する上での「社会的配慮」のようなものと考えるべきだ。
だから、あまりに身勝手な言い分や品のない悪口、差別発言などは問題になり、社会に広まるまでに至らない。
しかし、「私物化」されたメディアであるSNSであれば、
その投稿が社会的に適切なのかを判断をするのは発信者本人なので、その本人が「社会的配慮」に欠けていたり、自分の認識不足を省みない人だったりすれば、
たとえ既存メディアでは発信できないような内容であっても、いくらでもワガママに発信できる。
僕自身もこうしてネットで個人発信をしているが、ブログの原稿はもちろん、Twitterの投稿も妻の厳密なチェックを経てアップしてきた。
過去に佐野波布一名義で書いたAmazonレビューは妻のチェックだけでなく、読んだ人の評価で掲載順が上下したし、場合によってはAmazonが事前に検閲した。
つまり、僕は個人で活動をしてはいるが、他人の目が入っていないものをインターネットに上げてはいないのだ。
芸術作品や文学作品などの個人創作は一人でやるほかないだろうが、
公論であろうと意識するなら、第三者によるチェックを受けてから文章を発表するのが理想だと僕は思っている。
個人的見解をノーチェックで外に出すことには大きな弊害がある。
これについては卑近な例で申し訳ないが、個人的な昔話を少しさせてもらうことにする。
さっき僕は過去にAmazonレビューを書いていたと述べたが、8年ほど前にそのAmazonレビューについて、
千葉雅也という「現代思想」の寵児に名指しで「ヘイト」だとか侮辱されたことがある。

素人の批判的な書評をお気に召さなかった彼が、Twitterで感情的な「
個人攻撃」を始めたことで応戦することになったのだが、
レビューの内容ではなく、書き手に対して「攻撃」「ヘイト」だと言いかがかりをつける研究者らしからぬワガママには本当に閉口した。
こちらは本文引用を示して批判をしていたのだが、彼が僕の文章を示して反論することは一切なかった。
実はある時期から、千葉に対するレビューは掲載前にAmazonの検閲を受けていた。
つまり運営がOKを出した検閲済みのレビューに対して、千葉は「私物化」されたメディアを使って筋違いな言いがかりをつけてきたのだ。
のちには、弁護士と相談していると脅したり、僕のレビュアーとしての評価を落とすようにファンにけしかけることもあった。
こんな不愉快な昔話を書いたのは、この千葉のパワハラ的振る舞いがトランプそっくりであることを、今ならば多くの人が理解できると思ったからだ。
フォロワーを多く抱えていれば、TwitterなどのSNS発信は個人の「武器」になりうる。
しかし、千葉に近い当時の「現代思想」の研究者や出版マスコミの編集者たちは、彼のワガママを知りながら黙認し、「利権」を共有するお仲間を一切批判せず好き放題にさせてきた。
それが黙認だったと言えるのは、
メールに千葉の暴言ツイートを貼り付けて、この人物が教育者として適任だと思うかと立命館大学に問い合わせたところ、
それ以降、千葉の僕に対するTwitter上の暴言がすっかりなくなったことでハッキリしている。
(念のために言っておくが、この昔話はトランプ現象とSNSとポストモダン思想との関係を示す例として紹介しているだけで他意はない)
つまり、SNSによる個人発信には、それまでのメディアにつきものだった「社会性」によるブレーキが効きにくいのだ。
このようなメディア発信の「私物化」が、政治の「私物化」を招き寄せた一因だと僕は思っているのだが、それほど的外れな考えではないのではないか。

権力者に人気があれば、社会性なき自己中心的な他者攻撃でもノーチェックで言いたい放題で構わない、
そんな売上至上主義から転じた「人気権威主義」を、これまで日本社会はまともに批判してこなかった。
最近、自治体の長にパワハラなどの非常識な振る舞いが目立つのも、「人気権威主義」に原因があるのではないだろうか。
だから、トランプや高市のような
人気者を、日本の大学人やマスコミ人が批判できないことに全く驚きはない。
彼らの多くは、「売れている」という市場の承認や「支持されている」という大衆の承認を追従するだけのヘタレであり、
最後には自己保身を優先して金銭に
跪く、知性とプライドなき人間でしかないからだ。
そうではない立派な人は、腐った集団にいられなくなってその業界から追い出されたり、逃げ出したりしているか、うまく身を隠しているかだろう。
結局、現代の思想や言論(さらに言えばアートや文学)は、市場における商売道具として「人気を稼ぐもの」という価値しかなくなってしまった。
ポストモダンが推奨してきた「周囲に左右されない個人」とは、公的な事柄を「私物化」する独善的なワガママを肯定するだけに終わったのだ。
日本人はいつまでもバブル以後のポストモダン化(なんちゃってアングロ・サクソン化)について反省しようとしないが、
消費的なポストモダン化とSNSの無法を反省しないかぎり、トランプと高市のワガママに対して本質的な批判ができないことを強く認識するべきだろう。