南井三鷹の竹林独言

汚濁の世など真っ平御免の竹林LIFE

林古度「金陵冬夜」

もし自分の国が滅びた後も生きながらえてしまったら、どう生きていったらいいのだろうか。
大抵は目の前にある二つの未来の前で、思い悩むことになる。
もう国が滅びてしまったのだから、気持ちを切り替えて新しい支配者のもとで働くか、
新しい国に参加することを拒否して、忠節を曲げずに世捨て人になるかだ。

万世一系と称して抜本的な王朝交代を否定し続けている日本に比べて、中国は明確な王朝交代を何度も経験してきた。
しかし、王朝が交代しても統治機構を支える人材は必要であり、敗者たる官僚たちが引き続き新しい王朝で働くことは珍しくなかっただろう。
敵に屈することにどの程度の葛藤があったのかは計り知れないが、強い葛藤と悩ましさを引き起こす状況が容易に想像できるケースもある。
異民族が支配する王朝が誕生した時だ。

なぜ政治は「私物化」されたのか

アングロ・サクソンの世界支配が揺らぐ現在、アメリカと日本で政治の「私物化」が急速に広がっている。
大統領に再選されたトランプが、覇権国アメリカを復活させるために選んだ政治手法は「力の政治」だった。
その内容はもはや「政治」とは程遠い、軍事的優位性をちらつかせた「脅しディール」や兵隊を使った反対派の弾圧でしかなくなっている。
畢竟ひっきょう、トランプには決定的に政治能力が欠如していたと評価するほかないが、政治力のない政治家が国のトップに立つという現象は、普通に考えればかなり奇妙なことだ。
その原因を推察するに、「有権者たる国民に強い政治嫌悪があるから」という結論にどうしても至り着く。
政治が嫌われたために政治家が嫌われ、政治家が嫌われたために、政治オンチのタレント的ポピュリストが台頭し、政治力のないトップが権力を振りかざして横暴を行う──、
アメリカがそんなヤクザまがいの政治(=非政治)をしているために、世界的に民主主義の価値が驚くほど低下している。

最先端と流行

資本主義にコントロールされた消費文化では、「最先端と流行」によって「今」が形作られる。
誰もが最新の流行を気にして、「今」を探っている。
だから年末になると、マスメディアを中心に今年がどんな年であったかを総括したがる。
その典型が「今年の漢字」という企画で、年末になると今年を象徴する漢字一字を募集して、一番多かったのを清水寺の坊主による書で仰々しく発表している。
(俗世間の「今」の形象化が仏教と何の関係があるのか?)
政治利用が目立つ「新語・流行語大賞」の趣旨も、同様の「最先端と流行」にあるように見えるが、
これらは「今」という「共有された同じ時間(共時)」を生きていることを確認したい欲望によって持続している。
つまり、人々の共同性を同時性によって確認するための行事だと言っていい。

タイムループ化するポストモダン

「まだ東浩紀を読んでいるのか」
この前、思わずそう口にしそうになったという話。

僕の職場に30過ぎの〈フランス現代思想〉好きのイケメンくん(大学院にいたという噂を聞いた)がいる。
彼が僕の向かいで熱心に本を読んでいたので、また現代思想系の新刊本かと目をやると、
開いた本のカバー上部で、東浩紀の新刊『平和と愚かさ』(2025年)だと想像がついてしまった。
ああ、現代思想オタクはまだ同じところにいるのか、と納得と絶句が同時に襲ってきた。

臆病者の全体主義

新年早々におめでたくない記事で幕開けをすることになるのは気がひけるが、それこそが2026年にふさわしいということになりそうな予感がする。
今年の世相が明るくなるということは考えにくい。
愚民政策の比喩である「パンとサーカス」で言えば、「パン」の配給では国家財政が苦しくなるばかりなので、 2月の冬季オリンピック、3月のWBC、6月のサッカーのワールドカップという世界的「サーカス」で民衆の不満をやり過ごすことになる。
腐った「オールドメディア」はスポーツ中継と自然災害でしか存在価値が示せないので、これまで以上にオリンピックやWBC、ワールドカップで大騒ぎするだろうが、
残念ながらスポーツ国籍コロンビア人の僕には、薄っぺらいスポーツナショナリズムなど「ちっとも効かない麻酔薬」にしかならない。

「国防」争点の選挙をすればいいじゃないか

前々から日本が本当に民主主義国家なのか疑問に思ってきたが、最近は政権そのものが民主主義を尊重していないと感じる。
というのも、高市政権が安倍の「官邸独裁」やトランプの「国政の私物化」を真似して、「民意なき政治」を行おうとしているからだ。
それなのにNHKをはじめ大手マスコミは政権批判には及び腰でしかなく、
高市内閣が選挙による国民の信任を受けていない「党内クーデター内閣」であることを隠すために、
高すぎる内閣支持率で「民意」の穴埋めをして、民主主義の形骸化に協力している。

統計を使いこなせない国

前々から思っているのだが、マスコミが実施する「内閣支持率」調査の数値を、いかにも「民意」であるかのように受け取ることには問題がある。
世論調査は民意を推測することに役立つだろうが、それはあくまで調査結果が実態を正確に示している場合に限る。
アンケートは質問の仕方や用意された選択肢によって結果が大きく左右されるし、また状況によっては本心で回答してもらえないこともある。
だから支持率調査の結果を過信するべきではないし、ときに「偽の民意」を作り出す道具にもなりうることを理解しておかないといけない。

「保守愛国」と「若返り」願望

日本人はまたかつてのような失敗に向かっている。
満州事変から日中戦争を経て太平洋戦争へと至る十五年戦争の時代、大日本帝国は「天皇を中心とする『國體』」という支配体制の維持を最優先し、国民の生活や生命をひどく軽視した。
その結果がどうなったかは多くの人が知るところだが、無数の死者と焼け野原が残るだけとなった。
この失敗の責任を支配層にだけ帰すことはできない。
支配層の自己保身政策に、国民が積極﹅﹅的に﹅﹅従って全体主義化したことに問題があった。
当時は国民主権の国ではなかったが、国民に失敗の責任がなかったということはありえない。

間違いを認められない「ネット民内閣」

高市内閣が誕生して以来、なるべくニュースを見ないように努力してきたが、
それでもこのニュースには気がついてしまった。
11月7日の衆院予算委員会での台湾有事をめぐる質問に対して、
高市首相が「戦艦を使ってですね、武力の行使も伴うものであれば、これはどう考えても存立危機事態になり得るケースであると私は考えます」と発言したことだ。
台湾有事集団的自衛権行使の対象に当たるかどうかについては、政府はこれまで「曖昧」にしてきたという経緯がある。
それを踏み越えた発言だったのだが、国家戦略のもとで十分に考えられた発言ではなく、どうやら高市当人の身勝手な「思い入れ」によってなされたものでしかなかったようだ。
中国共産党は台湾への軍事侵攻の可能性を排除していないので、
台湾侵攻に対する軍事的関与の可能性を明言した首相の国会答弁に、中国共産党が猛反発するのは当然で、経済的なプレッシャーをかけて高市発言の撤回を要求している。

「見る」ことと「する」こと

メディア端末によってインターネットに常時接続できる環境が一般化したことで、
今やマーケティングの重点が、人々に物を買わせる段階よりも、さらに前の段階に移動している。

インターネットでは膨大な量の商品にアクセスが可能だ。
つまり、消費者の前には無数の選択肢が広がっている。
そうなると、その商品を買ってもらうより前に、その商品を目に留めてもらうことの困難さの方が重大になる。
まずは商品を「見てもらう」ことが勝負だということになる。

プロフィール

名前:
南井三鷹
活動:
批評家
関心領域:
文学・思想・メディア論
自己紹介:
     批評を書きます。
     SNS代わりの気軽なブログを目指して、失敗したブログです。

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