南井三鷹の竹林独言

汚濁の世など真っ平御免の竹林LIFE

責任回避としてのデータ主義

最近の大学では、「データサイエンス」という妖怪が跋扈ばっこしている。
漢字にすれば「情報科学」でしかないわけだが、日本では横文字にすればありがたそうに見られる。
要はビッグデータやアルゴリズムを問題解決に役立てる学問らしい。
プログラミングを学ぶ点や、数字以外のデータも扱う点で統計学とは少し違うようなのだが、
呼び方を新しくしても、「情報処理技術」以上のものとは思えない。

僕は最近、何でも「情報データ」化する社会に疑問を感じている。
一番の問題は、「情報データ」依存が現実の「経験」を軽視し、「責任」の意識を退化させる恐れがあることだ。


たとえば宴会を計画するときに、ウェブ上の「情報データ」を参考に店を選ぶとする。
メニューやコースの写真や値段、店内の内装や座席の写真、さらには客の口コミを参照して、
良さそうな店かどうかを判断する。
僕もよくやっているが、こういうものが情報処理だ。
しかし、どれだけ情報を参照したところで、実際にその店を訪れて料理や酒を味わった方が、そこが良い店であるという確信を得られる。
結局、実際にそこを訪れたという経験に勝ることはできない。
そもそも他の客の口コミとは、経験のデータ化だ。

だから、「情報データ」では良く見えた店が、実際に行ってみるとそうでもなかった、ということは起こる。
マッチングアプリで付き合う相手を探す場合もそうで、実際に会ってみないと本当のところはわからない。
(まあ、数回会ったところでわからない、という場合もあるが)
そうして「情報データ」をあてにして失敗をした場合、その責任は店を選んだ人にあるのか、実情を反映させていない「情報データ」の方にあるのかが問題になる。
少なくとも、店を選んだ人が「情報データ」のせいにすることは可能だ。

さらに言えば、自分が店を利用したり、付き合う相手を探したりするのではなく、
料金を取って単にクライアントに提案をするだけだったらどうだろう?
現実とのギャップは「ご了承の上で利用いただく」という安全策を取るだろう。
そうした確約さえあれば、適切に「情報データ」を処理するまでが責任で、そのあとは占いと同じように客の自己責任にできそうだ。

このように、経験を欠いた「情報データ」の世界では、責任というものが曖昧にならざるをえない。
政治家が責任逃れのために「記憶にございません」と言って経験を抹消するような狡猾さが、
情報データ」には影のようについて回る。
しかし一見経験を軽視しているように見える「情報データ」も、人間の経験に基づくものが有用だったりするのだ。

僕は長らく競馬をやっているが、ギャンブルという「未来予想」をやってみれば、データがどの程度信頼できるものなのかがよくわかる。
最近はAI予想というものもあるようだが、地方競馬のAI予想を見るかぎり、的中率は無惨だ。
僕の30年来の経験を頼りにした方が、断然結果を出せる。
だから、情報処理では人間の経験のデータ化に精を出すことになるだろう。
AIが膨大な競馬データを直接に処理して予想をするより、
的中率の高い予想家たちだけをピックアップし、得意条件などを調整して彼らの予想をデータ処理した方が結果が出そうだ。
実際、対話型AIのChatGPTは、人間という教師を必要としている。



結局は現実を生きる人間の経験が、最も信頼できる「情報データ」のソースということになるわけだが、
情報データ」だけを見ていると、そのことを忘れてしまう。
結果、頭でっかちの大学人が、人生経験が豊富な年配者を軽視して「集団自決」させればいい、とか言い出してしまう。

実際、「情報データ」主義は、アンチ経験に手を貸している面があるように思う。
以前、柄谷行人は村上春樹の小説を評して、「超越論メタ的自己」による「経験的自己」の蔑視だと指摘したが、
情報データ」を操作するメタ視点によって、経験的な現実を蔑視する快感に身を任せる人は、これからも出てくるだろう。
そうした経験軽視の裏には、責任の回避が見え隠れしている。

そして「情報データ」は常に更新されなければならない。
それならば常に新しい人間の経験を求めていかなければならない。
ドラキュラが若い生き血を求めるように。
(この比喩を設定に使ったアニメが『革命機ヴァルヴレイヴ』だった)
つまり「情報データ」の最大の欠陥は、それが過去の経験の集積でしかないということにある。

未来はいつでもこれまでにない事態を生み出す可能性があるので、過去をどれだけ蓄積しても、それだけでは対処には限界がある。
たとえば株価のように、人間の「期待」の心理で動くものをAIで予想するのは困難を極めるだろう。
平時の時はある程度予想できるだろうが、急騰や急落がいつ起こるかをあらかじめ予測するのは厳しいのではないか。
(それは、競馬で大穴馬券を予想する方が難しいのと同様だ)

つまり、本気の未知に直面する場面では、「データ」は役に立たない。
だからデータ主義の最終的欲望は、未来の抹消になるはずだ。
首尾よく未来を抹消し、現在が過去のループでしかなくなれば、「情報データ」の天国への階段が実現する(『ジョジョの奇妙な冒険 ストーンオーシャン』のエンリコ・プッチのスタンド「メイド・イン・ヘブン」の現実化)わけだが、
それを打ち崩すような巨大なヘビー未知ウェザー」が、未来の位置に君臨したらどうだろう?
そういう場面で、経験を軽視して責任を曖昧化してきた人たちが、自分の責任で逃げずに何かやれるのだろうか。
「データサイエンス」を頼りにする人ばかりだと、原発事故のような「想定外」の事態が起きた時に、全員で現場から逃げ出してしまうのではないだろうか。

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