汚濁の世など真っ平御免の竹林LIFE
SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)利用が増大した現代社会ほど、名誉と表現の自由との対立が先鋭化したことはない。名誉毀損・誹謗中傷、虚偽表現、あるいはプライバシー侵害による被害の増大に伴い、これら侵害的な表現行為の規制強化が唱えられる一方、言論弾圧ないし恫喝を目的としたスラップ訴訟に対抗して表現の自由の保護強化の主張が対立する。ここで端的に示されているように、スラップ訴訟は表現の自由をおびやかすものとして捉えられている。(吉野夏己「名誉毀損と表現の自由」)
また、公務員・公的人物は、自ら進んで批判的言論に身をさらし、公衆の前にその評価を委ねるという危険を引き受けている。また、公務員・公的人物は、マス・メディアに反論のためにアクセスしたり、自ら反論のチャンネルを有しており、名誉毀損には効果的に反論できるだろう(対抗言論)。相手が公的人物であろうがなかろうが、僕自身は民主主義社会においてはこの「対抗言論の原則」が重要だと考えていたが、
対抗言論の原則(スピーチにはモアー・スピーチで)の下では、名誉を毀損されたと主張する者は、対抗言論によって名誉の回復を図ればよいのであって、それが可能なら、国家(裁判所)が救済のために介入する必要はない。(同上)
しかし、表現の自由の価値としての思想の自由市場論において、思想の評価は、政府が関与することのない言論間の競争に委ねられるべきであり、言論が害悪を生み出すとしても、その是正は、言論の抑制ではなく、モア・スピーチによるべきであると考えられている。(同上)「モア・スピーチ」とは「対抗言論の原理」のことだ。
あなた様をブログで誹謗中傷しているというのは、たぶん私のことだろうと思います。
遠慮なく、民事刑事で訴えてください。後でどうなるかは知りません。私自身はあなた様に対して加害の意思は皆無ですが、他の方達がどうされるかは、私は知りません。
言論には言論を、意見には意見をなどという原則が普遍的一般論でないといけないなどと言っていること自体が世の中を甘く見ていますよ。
寝言を言っていないで、顧問弁護士を抱えられるようにならないといけないし、検察庁に不起訴処分にしてもらえるようにならないといけないし、裁判所に令状を出させたり出さないようにさせたりできないといけないのです。
あなたは今まで何年間社会人をやっていたのですか?いつまでも学生気分が抜けないのは、大人になれていないだけです。
今回は「もちづきけんいち」さんですか、さようなら。
僕があなたに久々に言及したからといって、
すぐにバカな書き込みをして相手をしてもらいたがる、そのあなたの態度が甘えなのですよ。
と言っても、あなたには他に相手をしてくれる人もいないのでしょうね。
自分自身の人間的汚点を他人に投影したところで、あなたの現実生活の何かが変わるわけではありません。
ネットで優れた人物に説教をしたからって、あなたの貧しい現実生活や人生は何も変わらないのです。
己を見つめてみることができない人が、他人に意見した気になっているのも滑稽ですよ。
「あまえるな」って、あなた自身のことでしかないじゃないですか。
今回のコメントも落ち着いて読み直してみたら、ただ必死になって相手をこき下ろすことしか内容がないことがわかるのではないでしょうか。
自分自身で僕を誹謗中傷していることを自覚しているのですから(笑)
あなたの相手をするのは時間の無駄ですので、もう返答はしません。
ご自由に自分のブログで誹謗中傷でもしてください。
ちなみに、僕はあなたのブログを読んだことはありません、残念でした。
読者の方などに知らせていただくことがあっただけで、僕は全くあなたの言うことには関心がありませんので。
そうそう、今でもアップと同時に僕のブログを読んでいただいているようで、その熱意と執着には感謝に耐えません。
ただ、あなたのコメントはやはり誹謗中傷なのでいらないです。
たとえインターネットでも、相手に尊重されたいのならば、相手に敬意を持った態度が必要です。
こちらのブログでもコメント拒否設定をさせていただきますね。
別の手段でコメントしてきても、あなただと感じた瞬間に読まずに消します。
一応、僕はあなたにもできれば幸せな人生を生きてほしいと願っていますよ。
では、お元気で。
さようなら。
北川健太郎弁護士の性犯罪の事件も担当している田中知子大阪地検次席検事は、すでに函館地検次席検事と釧路地検検事正の経験者で、下手すればこれから、長期間札幌高検次席検事にさせられるかもしれない。
田中知子次席検事が、宮崎地検検事正になって、起訴されている銃撃犯人が宮崎地裁と福岡高裁宮崎支部で重罪判決になれば、田中知子検事は、検察庁を退職した後で、その犯人が所属する山口組系稲葉地一家から、過酷なお礼参りをされるかもしれない。
北川健太郎弁護士を性加害で訴えた女性検事だって、一つ間違えれば、これから北海道の地検支部勤務にされたり、凶悪犯罪者の事件を担当させられて、その後で、背後の組織から、それこそ性的な報復をされる可能性がある。
世の中は、カタギばかりで成り立っている訳ではない。司法にかかわる役所でさえこんな感じなのだ。
もっと、目を覚ませ。
原則はあくまで原則です。
身の危険がある場合は対応は当然異なります、さようなら。
実は自分の研究の関係で永野芽郁さんの出演したドラマが大いに参考になったので彼女に対する目下の種々の攻撃にかなりの違和感を覚えています。法に関する著しい非対称的関係が根本にあることがよく分かりました。
どうも、南井三鷹です。
菅原さん、いつもコメントをありがとうございます。
SNSは原理的に「集客」がモノをいうメディアです。
人々の関心が集約される話題が定期的に必要なので、実際の事件以上に騒がれてしまったり、
攻撃されすぎてしまったりするケースが出てきます。
僕が感じるのは、現在の日本の社会状況の悪化の原因が「既得権維持」の閉塞感にあることに、人々が気づいてきたということです。
しかし「革命」どころか「構造改革」もできず、「政権交代」すら実現しません。
このような閉塞感から逃れるために、人々は「事務所の力で売れているタレント」や「権力の近くで利益を得ている人」などを引きずり下ろすことで、「憂さ晴らし」をしているように見えます。
男性に対するフェミ系の攻撃も、外国人に対するヘイトも、この図式の中に収まっていて、単なる「憂さ晴らし」以上の動きになっている気がしません。
「憂さ晴らし」のために、誰かを攻撃しなければいけない。
行き詰まった資本主義体制を変革することができない限り、このような不毛を続けて、果ては戦争を必要とするに至るのでしょう。
拝読いたしました。
吉野氏のフェイクニュースを保護するという大胆な発想に関して、東大全共闘と三島由紀夫との討論で
「気狂いは病院で保護されるよう、社会が面倒を見てやらなければならないが、我々は気狂いでは無い。それぞれの主張を対決させる為にここにいる。」という趣旨から始めた事が印象に残っています。
このことから、主張を堂々と闘わせるのではなく、対決を避け、フェイクニュースなどの自己都合で構築された世界観に持ち込もうという姿勢は、ある意味病的な、社会に頼らざるを得ない危険な状態なのではないかと思いつきました。
(当然、権力者側としては、その方が望ましいのですが..。)
そうした心弱さやそれによる虚構を放置すれば、健全な社会との摩擦に耐えられず、浅慮かもしれませんが、南井様の事件と同様に、スラップ訴訟などで無理矢理、社会的承認を得ようとして、社会を歪めてしまうと考えました。
排斥になるかもしれませんが、心弱さにいいねと共感するのではなく、その状態を分析し、心弱さを認めるための空間が、必要だと感じ、今回の題とさせて頂きました。
けれども、社会のトップが改ざんを推し進める時代なら、頼りになる社会を目指すのではなく、頼る為の社会へと変わっていくのでしょうか。私の発想は能天気過ぎるかもしれませんね。
そして、私もこの心弱さから決して自由ではありません。
私個人の卑近な例で申し訳ないのですが、
友人が「ハリウッド俳優が若さのために子供達の生き血を啜っている!」という陰謀論に傾倒していた時があり、それに対して私は、友人と面と向かって話す事なく「暗室の吸血鬼!幻想的だなぁ!」とかいう妄想に耽って、相槌を打って話を聞いていました。
(後で分かったことですが、こうした稚児殺しの伝聞はユダヤ人がキリスト教を迫害するために始まり、巡り巡ってユダヤ人を迫害するために使われる様になりました。)
友人としては自分の心弱さを、陰謀という不特定の他者への攻撃に向けることで、心弱さを共感し、承認して欲しかったのでしょうが、私はそうした状況を認めずに回避し、自己都合の虚構に話を持ち込んでいました。
こうした事から、心弱さを承認してもらうために虚構を求める態度も、心弱さを認めないために虚構を信じる態度も、どちらも対話には至らない閉鎖した自己愛的な態度と言えるでしょうか。
(これが日本の文学で求められて人気なんだといったら失礼でしょうか。)
また、前者は敵としての社会を、後者は日常としての社会を前提に置いている以上、社会に頼らざるを得ない状態となっています。
こうした日常と敵を求める態度が社会を前提とする状況を、自分を確かめる為に自分を傷つける自傷行為と重ねて思案していたのですが、前の人が発信してくれたおかげで話しやすくなりました。
発達過程の一つとして、試し行為というものがあり、これは幼児が愛情を確かめるためにわざと親の意に反する行動をとる事のようです。(反抗期もその延長でしょう。)
前回の記事に投稿しようと思っていた内容ですが、結局、排除を振りかざしても、本当に大切なのは、敵を叩く自分とそれを承認してくれる社会であって、相手の人格や主張などに重点はないと考えています。
敵を倒し、めでたしめでたしと日常に戻るまでを社会によってループさせる事、これが、試し行為での親の承認を得るための甘えと同じであり、心弱さに執着する悪循環なのだと感じました。
同じ事を繰り返してしまう以上、やはり病的な偏執、依存性として認めざるを得ないでしょう。それを認めることから始め、どう変わっていけるか。私自身、一患者として闘病の過程を示していけたらと思います。
長文、失礼いたしました。
どうも、南井三鷹です。
往来市井人さん、コメントをありがとうございます。
往来市井人さんの考察は、僕のテーマを明確化してくれるところがあって興味深かったです。
「結局、排除を振りかざしても、本当に大切なのは、敵を叩く自分とそれを承認してくれる社会であって、相手の人格や主張などに重点はないと考えています。」
この一文には納得です。
社会からの承認を得ることが排除の動機になっているということは、その通りでしょう。
スラップ訴訟で僕を排除した俳人も、業界人や周囲の仲間からの承認を得ることばかり考えている人でした。
1年後に訴訟を起こしたのは、僕がある俳句新人賞の選考について、俳句業界の「フィクサー」を名指しで批判していた時期だったからです。
俳句業界のフィクサーを敵に回した人間を排除する訴訟なら、俳人たちが自分に共感してくれるだろうという計算が透けて見えました。
しかし、敵を排除することで社会からの承認を得る、という自己確立は、戦時的な社会に動員された人間を連想します。
自分自身を高めて社会からの承認を得るのが、健全な成長ルートだとすれば、
敵の排除によって社会承認を得るのは、自分の可能性に絶望した「脱成長ルート」だと考えることができます。
(「脱成長」と言いつつ社会で出世していくあり方は、戦時社会への適応現象なのかもしれません)
往来市井人さんが書いていることも、この流れで読んでしまいました。
「敵を倒し、めでたしめでたしと日常に戻るまでを社会によってループさせる事、これが、試し行為での親の承認を得るための甘えと同じであり、心弱さに執着する悪循環なのだと感じました。」
天皇(親)のために敵を倒し、その承認を得ることで「かつての日常(Great Again)」を取り戻す、
これが「心弱さ」が支配的になった戦時社会の姿なのかもしれません。
その結果、靖国神社のような「共同体的メディア」に「死して名を刻まれる」ことを合言葉にしていきます。
敵を排除するつもりが、自身の肉体を排除する結果になる──まさに、自傷行為。
「共同体的メディア」で名を残すことは墓標となる人生を選ぶことではないのか、
この疑問がずっと僕の頭から離れないのです。
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