南井三鷹の竹林独言

汚濁の世など真っ平御免の竹林LIFE

「スラップ訴訟」について考える

どれだけ久々だろう、何年ぶりかに「現代思想」という雑誌を購入した。
僕がこの雑誌をつい買ってしまったのは、2025年5月号「特集「表現の自由」を考える」に「スラップ訴訟」を取り上げた論考があったからだ。

個人的なことになるが、僕は去る2023年に俳人の西川火尖から名誉毀損訴訟を起こされた。
そもそもSNS訴訟などくだらないので、いまさら詳しい事実を書こうとは思わないが、
目を疑ったのは、発信者情報の開示請求の書類に、西川が自分の悪事を隠蔽するデタラメの経緯を書いてきたことだった。
要は「でっちあげ」だったのだが、嘘を書いたのはどういう理由なのかと示談交渉時に質問したところ、相手弁護士は返事もよこさずに裁判の訴状を送ってきた。
(この弁護士──おそらく情報開示専門の「パカ弁」──は訴状に僕の名前を書き間違えて、裁判官に叱責された驚愕のナマクラだった)

「でっちあげ」の訴訟が許せなかった僕は、事態を明らかにする答弁文書を自筆して、単身で裁判を戦うことにした。
法廷では真実を語る僕の前で、嘘つきは黙り込むだけだった。
その結果、「名誉毀損」は認められず、賠償も大幅に減額、情報開示費用も西川の9割負担となり彼は大損することになった。
この判決がもたらされたのは、西川とその仲間たちの「ネットいじめ」(これについては当時のブログ記事がある)が裁判所に認められたからなのだが、
名誉毀損の実質が存在しなかったこの訴訟は、自分に対する抗議の声を抑え込むための「スラップ訴訟」だったと言える。

批判者の口を塞ぐことを目的とした「スラップ訴訟」(「恫喝訴訟」「嫌がらせ訴訟」)は、最近では珍しくない。
批判的な発言に対して制裁を加える目的で訴訟を起こし、相手の費用や資産を吸い上げて精神的・肉体的苦痛を負わせる手口だ。
そのため、仮に訴えられた側が裁判で勝利したとしても、その間の出費や苦痛で十分に相手にダメージを負わせられる。
つまり、スラップ訴訟には標的を疲弊させて、今後の発言意欲を奪う効果があるのだ。
(実際、僕も西川の裁判以後は俳句を読む気がすっかり失せた)

このスラップ訴訟が実際に社会問題になっていることが、前出の「現代思想」所収の吉野夏己「名誉毀損と表現の自由」で確認できた。
その冒頭はこうなっている。
SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)利用が増大した現代社会ほど、名誉と表現の自由との対立が先鋭化したことはない。名誉毀損・誹謗中傷、虚偽表現、あるいはプライバシー侵害による被害の増大に伴い、これら侵害的な表現行為の規制強化が唱えられる一方、言論弾圧ないし恫喝を目的としたスラップ訴訟に対抗して表現の自由の保護強化の主張が対立する。
(吉野夏己「名誉毀損と表現の自由」)
ここで端的に示されているように、スラップ訴訟は表現の自由をおびやかすものとして捉えられている。
実際、僕が情報開示請求について意見を聞いた弁護士は、問題とされた僕のSNS発言を見た直後に、
「この西川さんって俳人なんですよね。表現の自由の捉え方が狭すぎませんか?」と呆れ顔でコメントしていた。
そうなのだ、いやしくも表現者と目される人物がスラップ訴訟を起こすことは、自らが依拠しているはずの「表現」における自由を縮小させることに貢献しているのだ。
しかし、当の表現者たちは、安易な訴訟が表現の自由を危うくすることに考えが及ばず、単なるネット上の揉め事だとぬるく考えている。
ガザ攻撃の批判をして「意識高い系」をアピールしている人たちまで、表現の自由に関しては「意識低い系」でしかないことが、僕にはどうにも不思議でならない。
(余談だが、上記の引用文でSNSの正式名の記述や「ないし」の用い方で、吉野が法曹の専門家だろうと予測できてしまったのは、僕が裁判用の文章を書き慣れてしまったからだろう)



少し法的な話をすることを許してもらいたい。
名誉毀損訴訟においては、対象となる「ある事実」の提示が、公共の利害に関わり公益を目的とした「真実」である(もしくは真実と信じるだけの理由がある)場合は、違法性が認められない。
つまり、名誉毀損と疑われる内容が実際に「真実」であるかどうかが、裁判においては非常に重要になる。
裁判所が証拠に基づいて「真実」と判断することを「(真実)相当性の法理」と呼ぶらしいのだが、
吉野が「最高裁は、相当性の法理の適用につき、極めて厳格に解しており」と述べているように、
裁判で「真実」を証明する場合、ハードルがかなり高く設定されている。
そのためか、吉野の調査では、政治家が名誉毀損の訴えを起こした場合、直近の2010年台では勝訴が80%になるらしく、多くは訴えた政治家が勝利している。
アメリカでは政治家が勝つのはかなり困難らしく、日本の司法がいかに権力側に寄っていて、批判言説が萎縮させられているかがわかるデータだと言える。

おまけに日本では、真実性の証明は訴えられた側(被告)がしなければならない。
僕自身の体験で言えば、これは非常に「ずるい制度」だと感じた。
なぜなら、訴えた側は嘘を書き加えて訴訟しても罪に問われないのに、訴えられた側は真実を書いていても、それが法廷で立証できなければ罪に問われるのだ。
これが訴える側にとって有利なのは明らかで、相手の批判が真実であろうが、金さえあれば安易に訴訟に踏み出せるようになっている。

スラップ訴訟が増える原因の一つが、訴える﹅﹅﹅側に﹅﹅優しい﹅﹅﹅法制度﹅﹅﹅にあるのは間違いない。
吉野の論考で初めて知ったのだが、アメリカでは(公的人物の場合)訴えた側(原告)が訴えられた側(被告)の表現の虚偽性を立証することになっているようだ。
訴えた側が利益を求めているのだから、原告に立証責任があるのは法の原則から言っても当然のはずなのに、日本ではそうなっていない。
やはり、日本は社会的権力を持つ者が批判的言論を潰しやすい法理を採用しているのだ。
こういうことを確認するだけで、法理に照らせば何でも社会的に妥当だというわけではないことがわかる。
封建的価値観の残滓が濃い法的判断など、民主主義の価値観の中ではいつだって「日本の常識は世界の非常識」になりうることを、日本人はもっと認識するべきだろう。

さらに、この論考で吉野は非常に重要なことを述べている。
また、公務員・公的人物は、自ら進んで批判的言論に身をさらし、公衆の前にその評価を委ねるという危険を引き受けている。また、公務員・公的人物は、マス・メディアに反論のためにアクセスしたり、自ら反論のチャンネルを有しており、名誉毀損には効果的に反論できるだろう(対抗言論)。
対抗言論の原則(スピーチにはモアー・スピーチで)の下では、名誉を毀損されたと主張する者は、対抗言論によって名誉の回復を図ればよいのであって、それが可能なら、国家(裁判所)が救済のために介入する必要はない。(同上)
相手が公的人物であろうがなかろうが、僕自身は民主主義社会においてはこの「対抗言論の原則」が重要だと考えていたが、
多くの日本人がそれを理解し共有しているとは、僕には到底思えないのだ。
批判に対して論理的に反論するよりも、権力や数の力で批判者に個人攻撃をするケースが頻繁に見られるからだ。
つまり、「批判される行為をした人より、批判をする人の方が悪い」と思っているので、「批判潰し」への共感ばかりが目立つ。
まさに日本的な「事なかれ主義」だが、まともな社会よりも「問題に目をふさぐ社会」の方を好む人がいかに多いことか。
こうした無力感に支配されてしまうのは、社会的な道理や応答責任から逃げ出して、「傷つきたくない」という自己保身の気持ちばかりを優先してしまうからではないか。
アカデミシャンやマスコミ著名人も例外ではなく、「傷つきたくない」という自己保身の「心弱さ」に動かされる人が多く見られる。
これが日本で「対抗言論の原則」(もっと言えばディベートそのもの)が一般化しない理由なのではないか。

一応「対抗言論の原則」には、平等な立場で参入できる「場」が前提とされているが、
平等どころか自分の方が発言力において優位にある著名人が、自分への批判に対抗言論を用いることもなく、安易に権力や数を頼って言論を排除する場面に出くわすことは少なくない。
僕が訴えられたケースも同様で、こちらからはSNS上で話し合いを提案したが、相手の俳人は「対抗言論」どころかブロックすると宣言して応答を拒んだ。
自ら応答を拒絶しておきながら、1年経ってから訴訟を起こすのも大概だが、
言論の自由を軽視する俳人を、俳句雑誌の執筆者として起用する出版社もどうかしている。

社会のあるべき姿よりも、人間の「心弱さ」の方に共感する傾向は、ある種のポピュリズムと言ってもいい。
つまらないことで名誉毀損訴訟をする津田大介のような人物が、この国では「リベラル」だと見なされているのだから、日本の「非常識」には根深いものがある。
僕自身、ある人物からブログで誹謗中傷をされているが、身の危険があるわけでもないのに法廷に頼ろうなどとは思わない。
しかし残念ながら、こういう真のリベラル精神は今のこの国では求心力にならない。

なぜ日本人は「言論には言論を」という原則を尊重しないのか。
──それは「心弱さ」に対する共感の方がより重視されているからだ。
批判的言論に言論で立ち向かう「強さ」より、批判をされて傷つく「弱さ」の方にしか共感がはたらかないのだ。
だから、心弱い﹅﹅﹅権力者﹅﹅﹅が力で言論を抑圧することを、心中では「仕方ない」と思っている。
(とりわけ日本文学は「心弱さ」を擁護すればいいと思っているので、文学人ほどそうなりがちだ)
社会問題を起こしたタレントが説明の機会を設けなくても、その「心弱さ」を擁護する人がネットで湧いてくる。
それは自分自身の「心弱さ」の間接的な擁護なのだが、それを認めると自分が傷つくので、「自分は権力を持つ人たちの批判などしないから関係ない」という誤魔化しで正当化する。
こうしてこの国では、権力批判をしないことが「賢い身の処し方」であるかのように考えられていくのだ。
まさに「臆病者の正義」しかない国だと感じる。



真実を書きすぎて嫌気がさしたので、スラップ訴訟に話を戻そう。
スラップ訴訟に対する吉野の見解はこうだ。
しかし、表現の自由の価値としての思想の自由市場論において、思想の評価は、政府が関与することのない言論間の競争に委ねられるべきであり、言論が害悪を生み出すとしても、その是正は、言論の抑制ではなく、モア・スピーチによるべきであると考えられている。(同上)
「モア・スピーチ」とは「対抗言論の原理」のことだ。
吉野はフェイクニュースなどの虚偽言論が害悪を生み出しても、それを保護しつつ言論がより活発化することで民主政に役立つシステムを考えるべきだとしている。
フェイクニュースを保護対象にするという吉野の考えはなかなか肝がすわっているが、
そうしないと民主主義が簡単に壊れるという危機意識があるのだろう。
だから、吉野は民主主義の維持において(フェイクニュースを含めた)表現の規制を政府が行うことには反対している。
原則論としては清々しいほどに良識的だと言えるだろう。

しかし、その良識がこの国で支持を集められるだろうか。
「現代思想」同号の山田健太「いま〈面白い〉を問い直す」も表現の自由についての論考だったが、
ネットメディアのコンテンツを考察する上で、「対話の軽視」が一番に挙げられていることは無視できない。
山田が挙げている例は選挙におけるネット活動だが、そこで紹介された「政治系インフルエンサー」に共通する特徴に「対話の拒絶と発言の非真実性」がある。
政治をエンタメと考える彼らには、意見が対立する相手との合意を目指す姿勢はなく、対話を拒絶するための「論破」や「嘲笑」があるばかりだ。
山田はこの対話の拒絶こそが「強者の姿勢」として人気を博していると推測する。

しかし、対話を拒絶することが「強者の姿勢」に見えること自体が、「心弱さ」の文化なのだ。
心弱くなった日本人は、時に批判を受け入れることが自身の成長の糧になるとは考えない。
ただ自分が傷つく機会だとしか思っていない。
だからこそ、批判を単に拒絶することが「強者の姿勢」だと思えるのだ。

批判的言論に対して正々堂々と言論で応じることもできず、裁判などに頼ってしまう「心弱さ」も、
対話の拒絶を正当化する人たちにとっては「強者の姿勢」になるのだろう。
ここには排除によって「心弱さ」を「強者の姿勢」に転換する弁証法が存在する。
つまり、自分が傷つけられたくなければ、相手を傷つければいい、という方法論だ。
このような価値観の人たちが集団化し、自己正当化を目論んでいくと社会がどうなるのかは想像に難くない。

心弱さナルシシズム」に群がる人たちに気を許すな。
竹林に吹く風が、僕にそう囁いている。

コメント

お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字

あまえるな

あなた様をブログで誹謗中傷しているというのは、たぶん私のことだろうと思います。

遠慮なく、民事刑事で訴えてください。後でどうなるかは知りません。私自身はあなた様に対して加害の意思は皆無ですが、他の方達がどうされるかは、私は知りません。

言論には言論を、意見には意見をなどという原則が普遍的一般論でないといけないなどと言っていること自体が世の中を甘く見ていますよ。

寝言を言っていないで、顧問弁護士を抱えられるようにならないといけないし、検察庁に不起訴処分にしてもらえるようにならないといけないし、裁判所に令状を出させたり出さないようにさせたりできないといけないのです。

あなたは今まで何年間社会人をやっていたのですか?いつまでも学生気分が抜けないのは、大人になれていないだけです。

甘えているのはあなたです

今回は「もちづきけんいち」さんですか、さようなら。

僕があなたに久々に言及したからといって、
すぐにバカな書き込みをして相手をしてもらいたがる、そのあなたの態度が甘えなのですよ。
と言っても、あなたには他に相手をしてくれる人もいないのでしょうね。

自分自身の人間的汚点を他人に投影したところで、あなたの現実生活の何かが変わるわけではありません。
ネットで優れた人物に説教をしたからって、あなたの貧しい現実生活や人生は何も変わらないのです。

己を見つめてみることができない人が、他人に意見した気になっているのも滑稽ですよ。
「あまえるな」って、あなた自身のことでしかないじゃないですか。
今回のコメントも落ち着いて読み直してみたら、ただ必死になって相手をこき下ろすことしか内容がないことがわかるのではないでしょうか。
自分自身で僕を誹謗中傷していることを自覚しているのですから(笑)

あなたの相手をするのは時間の無駄ですので、もう返答はしません。
ご自由に自分のブログで誹謗中傷でもしてください。
ちなみに、僕はあなたのブログを読んだことはありません、残念でした。
読者の方などに知らせていただくことがあっただけで、僕は全くあなたの言うことには関心がありませんので。

そうそう、今でもアップと同時に僕のブログを読んでいただいているようで、その熱意と執着には感謝に耐えません。
ただ、あなたのコメントはやはり誹謗中傷なのでいらないです。
たとえインターネットでも、相手に尊重されたいのならば、相手に敬意を持った態度が必要です。
こちらのブログでもコメント拒否設定をさせていただきますね。
別の手段でコメントしてきても、あなただと感じた瞬間に読まずに消します。

一応、僕はあなたにもできれば幸せな人生を生きてほしいと願っていますよ。
では、お元気で。
さようなら。

  • 南井三鷹
  • 2025/06/01(Sun.)

もうひとつ

北川健太郎弁護士の性犯罪の事件も担当している田中知子大阪地検次席検事は、すでに函館地検次席検事と釧路地検検事正の経験者で、下手すればこれから、長期間札幌高検次席検事にさせられるかもしれない。

田中知子次席検事が、宮崎地検検事正になって、起訴されている銃撃犯人が宮崎地裁と福岡高裁宮崎支部で重罪判決になれば、田中知子検事は、検察庁を退職した後で、その犯人が所属する山口組系稲葉地一家から、過酷なお礼参りをされるかもしれない。

北川健太郎弁護士を性加害で訴えた女性検事だって、一つ間違えれば、これから北海道の地検支部勤務にされたり、凶悪犯罪者の事件を担当させられて、その後で、背後の組織から、それこそ性的な報復をされる可能性がある。

世の中は、カタギばかりで成り立っている訳ではない。司法にかかわる役所でさえこんな感じなのだ。

もっと、目を覚ませ。

……

原則はあくまで原則です。
身の危険がある場合は対応は当然異なります、さようなら。

  • 南井三鷹
  • 2025/05/24(Sat.)

昨今の週刊誌報道を連想しました

実は自分の研究の関係で永野芽郁さんの出演したドラマが大いに参考になったので彼女に対する目下の種々の攻撃にかなりの違和感を覚えています。法に関する著しい非対称的関係が根本にあることがよく分かりました。

菅原潤さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
菅原さん、いつもコメントをありがとうございます。

SNSは原理的に「集客」がモノをいうメディアです。
人々の関心が集約される話題が定期的に必要なので、実際の事件以上に騒がれてしまったり、
攻撃されすぎてしまったりするケースが出てきます。

僕が感じるのは、現在の日本の社会状況の悪化の原因が「既得権維持」の閉塞感にあることに、人々が気づいてきたということです。
しかし「革命」どころか「構造改革」もできず、「政権交代」すら実現しません。
このような閉塞感から逃れるために、人々は「事務所の力で売れているタレント」や「権力の近くで利益を得ている人」などを引きずり下ろすことで、「憂さ晴らし」をしているように見えます。
男性に対するフェミ系の攻撃も、外国人に対するヘイトも、この図式の中に収まっていて、単なる「憂さ晴らし」以上の動きになっている気がしません。

「憂さ晴らし」のために、誰かを攻撃しなければいけない。
行き詰まった資本主義体制を変革することができない限り、このような不毛を続けて、果ては戦争を必要とするに至るのでしょう。

  • 南井三鷹
  • 2025/05/25(Sun.)

フェイクニュース心療内科

拝読いたしました。
吉野氏のフェイクニュースを保護するという大胆な発想に関して、東大全共闘と三島由紀夫との討論で

「気狂いは病院で保護されるよう、社会が面倒を見てやらなければならないが、我々は気狂いでは無い。それぞれの主張を対決させる為にここにいる。」という趣旨から始めた事が印象に残っています。

このことから、主張を堂々と闘わせるのではなく、対決を避け、フェイクニュースなどの自己都合で構築された世界観に持ち込もうという姿勢は、ある意味病的な、社会に頼らざるを得ない危険な状態なのではないかと思いつきました。
(当然、権力者側としては、その方が望ましいのですが..。)

そうした心弱さやそれによる虚構を放置すれば、健全な社会との摩擦に耐えられず、浅慮かもしれませんが、南井様の事件と同様に、スラップ訴訟などで無理矢理、社会的承認を得ようとして、社会を歪めてしまうと考えました。

排斥になるかもしれませんが、心弱さにいいねと共感するのではなく、その状態を分析し、心弱さを認めるための空間が、必要だと感じ、今回の題とさせて頂きました。

けれども、社会のトップが改ざんを推し進める時代なら、頼りになる社会を目指すのではなく、頼る為の社会へと変わっていくのでしょうか。私の発想は能天気過ぎるかもしれませんね。

そして、私もこの心弱さから決して自由ではありません。

私個人の卑近な例で申し訳ないのですが、
友人が「ハリウッド俳優が若さのために子供達の生き血を啜っている!」という陰謀論に傾倒していた時があり、それに対して私は、友人と面と向かって話す事なく「暗室の吸血鬼!幻想的だなぁ!」とかいう妄想に耽って、相槌を打って話を聞いていました。
(後で分かったことですが、こうした稚児殺しの伝聞はユダヤ人がキリスト教を迫害するために始まり、巡り巡ってユダヤ人を迫害するために使われる様になりました。)

友人としては自分の心弱さを、陰謀という不特定の他者への攻撃に向けることで、心弱さを共感し、承認して欲しかったのでしょうが、私はそうした状況を認めずに回避し、自己都合の虚構に話を持ち込んでいました。

こうした事から、心弱さを承認してもらうために虚構を求める態度も、心弱さを認めないために虚構を信じる態度も、どちらも対話には至らない閉鎖した自己愛的な態度と言えるでしょうか。
(これが日本の文学で求められて人気なんだといったら失礼でしょうか。)

また、前者は敵としての社会を、後者は日常としての社会を前提に置いている以上、社会に頼らざるを得ない状態となっています。

こうした日常と敵を求める態度が社会を前提とする状況を、自分を確かめる為に自分を傷つける自傷行為と重ねて思案していたのですが、前の人が発信してくれたおかげで話しやすくなりました。

発達過程の一つとして、試し行為というものがあり、これは幼児が愛情を確かめるためにわざと親の意に反する行動をとる事のようです。(反抗期もその延長でしょう。)

前回の記事に投稿しようと思っていた内容ですが、結局、排除を振りかざしても、本当に大切なのは、敵を叩く自分とそれを承認してくれる社会であって、相手の人格や主張などに重点はないと考えています。

敵を倒し、めでたしめでたしと日常に戻るまでを社会によってループさせる事、これが、試し行為での親の承認を得るための甘えと同じであり、心弱さに執着する悪循環なのだと感じました。

同じ事を繰り返してしまう以上、やはり病的な偏執、依存性として認めざるを得ないでしょう。それを認めることから始め、どう変わっていけるか。私自身、一患者として闘病の過程を示していけたらと思います。

長文、失礼いたしました。

往来市井人さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
往来市井人さん、コメントをありがとうございます。

往来市井人さんの考察は、僕のテーマを明確化してくれるところがあって興味深かったです。

「結局、排除を振りかざしても、本当に大切なのは、敵を叩く自分とそれを承認してくれる社会であって、相手の人格や主張などに重点はないと考えています。」

この一文には納得です。
社会からの承認を得ることが排除の動機になっているということは、その通りでしょう。
スラップ訴訟で僕を排除した俳人も、業界人や周囲の仲間からの承認を得ることばかり考えている人でした。
1年後に訴訟を起こしたのは、僕がある俳句新人賞の選考について、俳句業界の「フィクサー」を名指しで批判していた時期だったからです。
俳句業界のフィクサーを敵に回した人間を排除する訴訟なら、俳人たちが自分に共感してくれるだろうという計算が透けて見えました。

しかし、敵を排除することで社会からの承認を得る、という自己確立は、戦時的な社会に動員された人間を連想します。
自分自身を高めて社会からの承認を得るのが、健全な成長ルートだとすれば、
敵の排除によって社会承認を得るのは、自分の可能性に絶望した「脱成長ルート」だと考えることができます。
(「脱成長」と言いつつ社会で出世していくあり方は、戦時社会への適応現象なのかもしれません)

往来市井人さんが書いていることも、この流れで読んでしまいました。

「敵を倒し、めでたしめでたしと日常に戻るまでを社会によってループさせる事、これが、試し行為での親の承認を得るための甘えと同じであり、心弱さに執着する悪循環なのだと感じました。」

天皇(親)のために敵を倒し、その承認を得ることで「かつての日常(Great Again)」を取り戻す、
これが「心弱さ」が支配的になった戦時社会の姿なのかもしれません。
その結果、靖国神社のような「共同体的メディア」に「死して名を刻まれる」ことを合言葉にしていきます。
敵を排除するつもりが、自身の肉体を排除する結果になる──まさに、自傷行為。
「共同体的メディア」で名を残すことは墓標となる人生を選ぶことではないのか、
この疑問がずっと僕の頭から離れないのです。

  • 南井三鷹
  • 2025/05/25(Sun.)

プロフィール

名前:
南井三鷹
活動:
批評家
関心領域:
文学・思想・メディア論
自己紹介:
     批評を書きます。
     SNS代わりのブログです。

ブログ内検索

最新コメント

[05/24 往来市井人]
[05/24 菅原潤]
[05/24 もちづきけんいち]
[05/24 もちづきけんいち]
[05/06 菅原潤]

カレンダー

05 2025/06 07
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30