南井三鷹の竹林独言

汚濁の世など真っ平御免の竹林LIFE

昨今の「政治化」現象について

近年、日本の経済衰退が誰の目にも明らかになっている。
80年代以降に確立した消費資本主義では、個人単位の欲望充足を燃料にして経済活動を加速させた。
90年代後半以降のインターネットの爆発的普及によって、送受信メディアが端末化して完全に個人所有される事態になり、企業の消費促進のアプローチも個人端末スマートフォンをめがけてなされるようになった。
もはや「個人」とは内的葛藤や差異で形成されるものではない。
資本主義の動力となる消費者の単位でしかなくなったのだ。
YouTubeやSNSなど個人端末によるインターネット発信も一般化したため、
消費の単位と社会的発信の単位が一体化し、人々は消費をするように発信し、発信をするように消費するようになった。

趣味的な個人消費を日常の社会生活より重視する人々を「オタク」と呼ぶが、
彼らは社会的葛藤が起こらない範囲で、私的な欲望を充足することに熱心だ。
それを私生活主義と呼ぶならば、私生活のインフレーションが政治や社会問題の価値を下げていった。
オタクの非政治性は、資本主義や共産主義のような「イデオロギー」や宗教の対立を、「消費的相対主義(=好みの違い)」へと還元するフランス発のポストモダン思想の価値観に支えられていた。
文学の世界も消費的ポストモダン思想に席捲され、浅田彰や東浩紀など、深い文学的な見識を持っているわけでもない思想系の物書きが文芸誌の編集者などに重用されていった。
当然ながら、商業文学は「消費的個人」だけを相手するようになり、社会生活の現実と戦うものではなくなった。

とりわけ、日本ではオタクの台頭時期が、バブル崩壊以後の長期経済停滞期と重なっていた。
この二つの現象は、「内向き」体質の肯定において手を取り合っていた。
オタクは自分の狭い趣味世界の「内側」だけを見ている人たちだ。
(そのため金銭的困難のない社会関係の中で、自分の内面世界ばかりを巨大化させた)
衰退に向かう経済状況においても「内向き」現象が目立つ。
企業はイノベーションより内部留保の拡大に執心し、海外に移転した生産拠点の国内回帰も進んでいる。

このような「内向き」の姿勢は、政治においても同じだった。
相対化に耐えられない人たちが、個人消費のメンタリティにおいて右傾化していったのだ。
彼らは保守愛国を旗印にしているが、その裏側に隠し持っている「私的な欲望」は自己保身だ。
だから保守すべき資産や地位を有する者にパワーが集まり、金も地位もない人々はその忠実なしもべとなる。
いわゆる「ネトウヨ」と呼ばれる人たちが典型で、
これはオタク体質の非政治的だった人たちによる、政治的な方向への「転向」だった。

ここで考えるべき問題は、
個人消費を謳歌してきた非政治的な人々が、なぜ真逆の政治化へと舵を切ったか、ということだ。
それは、消費資本主義の限界が見えてしまったからだ。
消費資本主義が限界を迎えた理由は二つ。
一つは経済停滞や衰退によって、個人消費に思うように金がかけられなくなったこと。
もう一つは、「趣味的で刹那的な同一化」では寂しさや不安を十分に乗り越えられないこと。

前者は生産者側の事情にも関係していて、消費財の生産に思うように金がかけられなくなると、生み出される商品やコンテンツが劣化する。
仮に購買者側に金銭的余裕があったとしても、見飽きたようなものを消費する気は起こらない。
こうなると、個人消費の世界は途端に色褪せて見える。

後者は個人の趣味が多様化し細分化した関係で、趣味的な共通点で「同一化」できる相手が減ってしまい、
オタクのようなコミュ障気質の人にとって、そういう相手を探すのに労力が要るという問題がある。
また、仮に共通する趣味の相手を見つけたとしても、それが期間限定のコンテンツだったりすると、刹那的な関係に終わってしまう。

この二つの問題を解決する立場として、保守愛国を掲げて右寄りの言説を振り回すことが選ばれた。
彼らは愛国とか保守とか口にはするが、その愛の強さや現実的実践は問われない。
要するに、「ただ同じようなことを口にしていれば、他の人と簡単に同一化できる」のだ。
国家を価値とするのに金はかからないし、それで「同一化」できる相手は事欠かない。
国家という存在は刹那で消費されることもない。

僕はずっと「ネトウヨ」などの保守勢力が個人消費に勤しむポストモダン的なオタク現象の「延長」であることを訴えてきたが、不思議なくらいに僕と同じ考えを口にする論者を見かけない。
おそらく左派論客はポストモダン思想に依存しすぎて、それ自体を相対化できなくなっているのだろう。
「ネトウヨ」系の人たちの紋切り型として、「嫌ならこの国から出ていけ」とか「嫌ならそんな言説を見なければいい」とかいうセリフがあるが、
これこそが彼らが基盤としている価値観が個人消費の世界であることを証明している。
現実には、いくら日本人が嫌いだからって、簡単に生活拠点を海外に移せるわけではないし、
自分が問題ある言説を見なければ、そうした言説の悪影響に巻き込まれずに生きられるわけでもない。
それなのに、「ネトウヨ」系の人たちは、消費的相対主義(=好き嫌い)で所属する国家や社会が選べるかのような言説を振り回している。
この公共性への無理解と私生活主義は、明らかにポストモダン的主体の特徴だ。

嘆かわしいことだが、最近では「内向き」右派の勢力拡大に対する危機意識から、
左派的な言説に依拠する人たちも、右派的「転向」を真似するようになっている。
最近の政治化した「内向き」左派や男性敵視の「内向き」フェミニズム、言論弾圧を厭わないリベラルもどきの登場がそれだ。
もはや一部の良識派を除いて、左右のどちらに属していようとやっていることは変わらない、という「似たもの同士のいがみ合い」に堕している。
非政治的な人たちによる「政治化」は、どっちに転んでも「内向き」のオタク気質を克服できず、良い方向に向かう気がしない。



もう今更何を言っても仕方がない、と思うが、こうなった原因だけは記しておきたい。
それは、日本のポストモダン左派が個人消費の経済的拡大を背景に、公共性(歴史性を含む)や責任意識を育てることなく「私的な欲望(多くは現実逃避的な傾向を有する)」ばかりを肯定したことにある。
日本人は周囲の目を気にして自由に自己主張ができない、という傾向を持っていたが、
90年代以降のポストモダン期には「周囲の目など気にするな」「周りが何と言おうと自分は自分だ」「自分の心に忠実であれ」などという美辞麗句が飽きるくらいに垂れ流された。
僕はすでにその時期から、将来の無責任社会を予期していたので、ずっとポストモダン批判をしていたが、
著名人にも出版マスコミにもアカデミズムにも先を見据えた問題意識を持つ人はほとんどなく、流行思想に喧嘩を売った僕は攻撃を受けるばかりだった。

僕の懸念が的中したことは、今では誰の目にも明らかなのではないか。
とりわけ、政治的・社会的地位を持つ人が「私的な欲望」を無責任に優先させる職業倫理の崩壊が目につく。
政治家は言うまでもないが、銀行員など呆れたもので、貸金庫のスペアキーを勝手に使って盗みをはたらいたり、監督する立場を利用してインサイダー取引をしたり、前代未聞の不祥事を連発している。

もし日本が立ち直るとしたら、80年代以降の消費資本主義社会を批判的に考察する視点が必要だろう。
それは同時に個人消費に依拠したポップなアメリカ的価値観への依存を見直すことでもある。
20代以下の若い人たちは自分たちの親世代を、「失敗した世代」として厳しく見なくてはいけない。
正しい歴史を学び、公共性とは何かを考え、権威や権力のもとにある個人の私的(性的)な身勝手を軽蔑しなくてはいけない。
友と敵の政治ではなく、誰もが幸せを感受できる社会とはどうあるべきなのか、みんなで知恵を出し合う政治を選び取ってほしいと願うばかりだ。

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