汚濁の世など真っ平御免の竹林LIFE
共産主義が不可避的にファシズムを導くということを痛感しています。Facebookで三宅芳夫さんがポストモダンを批判する論陣を張っています。ご参考にして下さい。
どうも、南井三鷹です。
菅原さん、コメントありがとうございます。
僕としては共産主義を悪く言う気はなかったのです。
たしかに褒める気もありませんが⋯⋯(笑)
反知性主義と双生児のように似ていると言えば、悪く言ったことになりますかね。
基盤が同じメカニズムでも、向かう方向が違えば良くも悪くもなりえます。
核分裂や核融合の技術が、核爆弾にも原子力発電にもなるようなものです。
そういう意味では原子爆弾と原子力発電は双生児と言えるでしょう。
三宅芳夫氏のFacebookは、Facebookをやっていない僕には見られそうにありません。
丸山眞男で論文を書かれている方のようですね。
ご紹介ありがとうございます。
コメント失礼します。
今回の考察は非常に刺激的で参考になりましたが、なぜ排斥主義と共産主義が「平等」という目的を分かち合いながら、ジェンダー運動と排斥主義が金融資本主義を補完してしまうことについて頭の中だけでは曖昧な所があり、それについてここで整理させてください。
金融資本主義は、先人の遺産から信用を拡大していくため、持てるものが信用され、持たざるものは信用から遠ざかる事になります。
サブカル的な話で恐縮ですが、エンタメ作品で世界を知りながら主人公が成長していく話よりも、予め持った能力や状況をどう活用し世界に適応していくのかという話の方が、よく聞くような気がします。(知的になったと感じましたが、後者はミステリー小説の形式に近く、作者の方が有利であるためそう感じてるだけかもしれません。)
この傾向は能力主義的な側面と、持てるものだけを作品に出す事で無駄をなくし理解がしやすくなる構成の平易さにあるのではと考えています。
(私が村上春樹の小説を好きになれないのは、主人公が一定の水準を保った持てるものでありながらそのことが疑問にもならずに淡々と進んでいく無駄の無さすぎる構成のせいかもしれません。)
持たざるものは社会から疎外され、その差を実感することで平等を目指す事になりますが、サブカル的な救済では距離において平等である事を目指すのでは無いかと思案しました。
学園での日常、ゲーム内の攻略、貴族社会への転生・接近、ロボや能力によるモノ化、これらは予め設定された作品の枠組み・先人の世界観に依存します。持たざるものが持てる人々と同じ場に在ること。そのために決められたルールにより場が設定されなければならない。
(BLは詳しく無いのですが、攻めと受けに拘るのは自分の推しに接近するために、その男性達に自分の願望を託してるということで大丈夫でしょうか?浅慮ですがここにもジェンダーの反映という枠組みを感じました。)
このことから、サブカルによる救済とは「場」における平等であり、定められた法則、記号の上で均一で居られることではないでしょうか?
疎外されているという実感を排するために、持てるものに擦り寄っていく。近年、「頂き女子」という恋愛詐欺が横行しておりましたが、彼女達は詐欺により得た金銭の殆どをホストとの活動に費やしていたそうです。無責任と断ずるよりも、自分の体に欲情してくる現実をあえて利用して、推しとの空間の中でその金銭と共に浄化していたのではないかと考えました。
クラファンのように自分の信用を宣伝して投資してもらう事。投資し信用のある人物の場に加わる事。そうして先人となり信用を拡大させていく事。その中で場に加わらないものに対して疑念をいだくこと。
(知性の無い人は、失礼ですが、出自や性別などが変えられないものであることを前提にできないため、人々を無差別に敵視してしまいます。)
場を持たない参加できない人々を持たざるものとして可視化し排斥することで自身が持たざるものであるという現実を否定すること。その信用性は先人のものによって保証されている。これによって金融資本主義の構造を利用しながら信用の中で平等になれます。
ぶっちゃけますが、排斥主義の正体は、エロ親父という性的に持たざるものから、海外からの方や反対者などの場的に持たざるものに変わった自分と相手を騙す詐欺の受け子に成り下がることだともう言っちゃいます。
(BLの理解は確定していませんが、自分の肉体を透明にして異性間の愛情を間接的に得ること。信じるもののために他者を抑圧し、それを介して社会と繋がること。これらもまた南井様の考える天皇制と関係しているのでしょう。)
逆説的ですが無駄なものを排することで世界の枠組みの保守に貢献できるので無駄な存在ではなくなれます。そうして世界に貢献するために無駄であった自分もまた排除する事になります。そうしなければ無駄で無い自分を確かめられないからです。これが今、私が考える前回の自傷行為の意味であり南井様はその意図を察し、わかりやすく整理して下さいました。
ここまでのまとめとして、排斥主義やジェンダー運動が現実を変える意味を成さないのは、社会を変えることよりも寧ろ社会に参加できるように主張することに重点があり、そのために自分達には信用があると宣伝して後援者の先人となり、信用を持つ先人の一人として社会に舞い戻る。その構造は投資を募り金銭を回収する金融資本主義の構造であり、その構造によってサブカル的な願望を果たしてしまう為に金融資本主義、その枠組み(共同体メディア)に依存し補完してしまう。
非常にくどくなりましたが、では同じ平等を目指す排斥主義と共産主義の階級闘争は何が違うのでしょうか?その差は平等であるための過程にあると考えております。
前者は場における平等であり、そのために敵を設定する必要があります。一方で後者は行動においての平等であり、行動によって敵を打ち倒し、平等を獲得します。
自分達が平等であるために敵と戦うのと、自分達が平等になるために敵と戦うという様に、この二つは過程が逆転していると考えました。
平等になるために行動すること。一見それだけですが簡単なことではありません。なぜなら連帯のため社会と向き合う中で自分と相手だけでも平等でないと気付かされるからです。
能力の限界や、コミュニケーション不足などの自分と相手の不平等、それを認識し葛藤しながら、社会との葛藤に向き合い戦わなければなりません。社会との葛藤に立ち向かう事ができても、自他の不平等に耐えられなければ、同質化へと向かい、排斥主義と同じジレンマに陥ってしまいます。
(文革や総括などの痛ましい歴史はそうした要因が引き起こしたものだと思います。)
平等である事を目指すのならこちらもまた逆説的ですが、平等でない事を日々認識し続け平等に抵抗することが求められます。平等でない事を認識し続けることは、平等でない事を認めることではありません。それは現状肯定のニヒリズムであり、現実を変えません。
不平等を強いる社会に、それぞれに違う他者に、そして自分自身に対して、平等であることとは何かと問いかけ続けること。その行動においてこそ平等のための先人となり、場によって守られた偽りの平等と次から次に受け渡される世襲的な先人共に否を突き付けることができると私は信じます。
これは南井様が他の方への回答を受けて思案したことではありますが、平等という勝利に甘えず現実と向き合い続けること。(目的の為に現実を疎かにすることはアキレスと亀での理解の際に陥ったことであります。)勝利の為に敗北できるかという南井様の問いかけは、そうして先人としての姿勢を貫けるかということなのでしょうか?そう思うと私は強く生きたいという想いが湧きわがってきました。
最後は、ヒートアップしてしまいましたが、これまでの排斥主義に関する論稿についてこの様に考えました。階級闘争もメディアも平等を問うための手段である。飲み込まれない様に気をつけながら、いつも考えていきます。
これからもどうかよろしくお願いいたします。
どうも、南井三鷹です。
往来市井人さん、コメントをありがとうございます。
ジェンダー運動と排外的ナショナリズムが金融資本主義の支配の補完勢力になるのは、
あくまでも「反知性主義を広げる」という点においてです。
知性や能力の優劣を問わない社会とは、往来市井人さんが言うサブカルにおける「予め持った能力や状況」で所得の差が決まる社会であり、
そこには成長も努力もどんでん返しも存在しません。
金融資本主義は経済学によるリスク管理を充実させて、投資を失敗が起こらない「確実に勝てるゲーム」にしようとしています。
その意味で、反知性主義や反能力主義が下層において蔓延するのは、勝者を安定させ固定させることとなるので歓迎されます。
サブカルで成長を描くことが失われたのは、アングロ・サクソン型金融資本主義が日本支配を強めた80年代後半に当たります。
(そのメルクマール的作品が浦沢直樹の『YAWARA!』でしょう)
最近では敗者復活には別の世界に生まれ変わること(異世界転生)が必要だという価値観が蔓延していますが、
「不平等は死ななきゃ直らない」というニヒリズムが一般化していて、希望もない世の中です。
往来市井人さんはサブカルによる救済を、先人の世界観に依存した「場における救済」だとしました。
共有システムの中で記号を用いて均質平等に存在するあり方というイメージでしょうか。
政治的文脈で「平等」を語る場合は、「結果としての平等」と「機会の平等」の差異が重要視されますが、ここで語られる平等は「結果としての平等」に近いと言えます。
なぜなら、サブカルにおける記号的平等も、90年第以降に個人消費の場へと変容し、
スマホゲームによる課金システムが象徴する通り、今では資金をいくら投入したかで勝負が決まる金融資本主義と同様の価値観へと移行しています。
本来は、「機会の平等」(スタート地点がハンデなく同じであること)が重要です。
しかし、この国ではいつまで経っても、同一労働同一賃金すら実現する気配がありません。
往来市井人さんが言う通り、不平等を認識しないと平等への志向が生まれないのはもちろんです。
現在の問題は、不平等であることが当たり前になってしまい、平等であるべきだという発想そのものが弱っていることにあります。
だから、人種や国籍が劣っている者が手厚くされていることを不平等だと感じてしまう。
あんな奴らを平等に扱う必要はない、という感情。
平等扱いこそが不平等だという感情。
これこそが共産主義やリベラルが敵視され、排外主義が支持される大衆心理なのではないでしょうか。
そもそも平等や自由こそが敵視されているとしたら、人々に平等を価値として認めさせるところから始めなくてはいけないことになりそうです。
「チート」という言葉が軽々しく使われるようになった時代では、それすら難しい気がします。
世の中が平等でなくていいから、私を不平等に優遇してほしい、
そんな虫のいい欲望ばかりが溢れているように思えます。
敗者の手段である文学が、「先人としての姿勢」を示すものなのかはわかりません。
自分の書いたものが後世に評価され、それを継ぐ人がいたとしても、僕にはどうでもいいことです。
重要なのは、自分がこの時代に屈しなかったこと、その証明としての文学です。
その意味で僕は「自分の人生のために」文学をやっています。
抵抗こそが文学なので、もはや作品も必須ではありません。
この時代に誰がそういう文学を理解できるのか、ということも、今の僕には重要ではなくなっています。
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