南井三鷹の竹林独言

汚濁の世など真っ平御免の竹林LIFE

排外的ナショナリズムと共産主義の不都合な関係

前回の記事で、アングロ・サクソン型金融資本主義が「先人の資産」を価値とするものであり、
同じく「先人」を価値とする排外的ナショナリズムと結びつき、自らに敵対する階級闘争を抑止している、と書いた。
本来なら階級闘争に向かってもいいはずの低所得層の不満が、排外的ナショナリズムに吸収されている、という話だ。
こうして生活に不安を抱える人たちの敵は、富裕層ではなく外国人へとズラされていく。

社会生活の不満を「誰か」のせいにして、理想社会のためにそれを排除する、
──この心理だけを取り上げれば、排外的ナショナリズムは共産主義の代替物になる。
だから、かつては共産主義の理想に共感した「左翼」の若者が、歳を取って「保守」の排外的ナショナリズムに共感することがあっても驚くことはない。
たしかに設定された敵﹅﹅﹅﹅﹅﹅が外国人なのか、資本家や大企業なのかという大きな違いはある。
しかし、大衆の経済的な不満や不安を燃料﹅﹅としている点で、共産主義と排外的ナショナリズムは似通っている。

両者にはもっと本質的な共通性がある。
どちらも悪平等﹅﹅﹅こそが「救済」だと考えている点だ。
共産主義は私的所有(資産)の格差を平等にすることを「救済」としている。
では、排外的ナショナリズムの「救済」は、何を﹅﹅平等﹅﹅にする﹅﹅﹅ことなのだろうか。
それを理解するには、排外的ナショナリズムに必ず付随する側面──「反知性主義(ひいては反能力主義)」に着目する必要がある。
一般に反知性主義は、知的権威やエリートへの反感、または知的議論への嫌悪として現れる。
かつてのアメリカでは、それが反権力的な大衆の知として現れる場合もあったが、
現在のSNSで排外主義と結びついている反知性主義は、論理にもデータにも基づかない感情論や偏見を正当化しているものばかりだ。

排外的ナショナリズムは、必然的に反知性主義に陥る運命にある。
その理由は、そもそも敵と認識されたものを排除するのに「知性」は必要ないからだ。
むしろ、本当に彼らが敵であるのか、敵であっても対話をすればいいのではないか、という疑問を生じさせる知性は邪魔になる。
知性を捨てることで排外的ナショナリズムが加速すると言ってもいい。
だから、知的な排外主義者というものは本質的に存在しえない。

排外的ナショナリズムの価値基準は単純極まりない。
人種や国籍で人を区別する。
どんなに知性があろうと外国人は外国人だし、どんなにバカであろうと日本人は日本人だ。
その基準の前では知性(もしくは能力)など価値にならない。
ちなみに、左派的なジェンダー言説であっても、性別だけを基準に単純化すると知性(能力)は必要なくなる。
ジェンダー運動が階級闘争の代替物として反知性主義を広げるだけならば、ジェンダー左派も排外的保守と同じくアングロ・サクソン経済支配の補完勢力でしかない。

先天的要因に基づく排外的ナショナリズムは、反知性主義(反能力主義)と必ず結びつくことになる。
SNSを見ればすぐに確認できることだが、排外的ナショナリズムに依拠する自称「保守」の人は、
論理の通った批判をされると、相手を「左翼」「パヨク」「リベラル」にしたがる。
相手を「左派」と決めつければ、多数の「保守」勢力が無条件に自分の味方をしてくれる、
そういう知性なき「数」への依存心に支えられている。
彼らの発信は非知性的な「好き嫌い」の垂れ流しになりがちなので、左派的な人たちから「保守」はバカと相場が決まっていると思われている。
しかし、知性の価値を尊重していない人たちをバカ扱いしたところで、大したダメージを与えられるとは思えない。

もちろん、知性を尊重しない人に頭の良さは期待できないだろうが、
僕としては知性に価値を置かず、趣味的な「好き嫌い」でしか物事を判断しない人たちを「反知性主義者」と呼んでおく。
実は近年になって、この国では反知性主義の裾野がだいぶ広がった。
だから、いわゆる排外主義者に限らず、社会全体に反知性主義的な傾向が蔓延している。

それには個人消費の拡大をめざした資本主義が、マスコミや出版文化で反知性主義を推し進めたことが影響している。
当たり前の話だが、理解に高い知的レベルを要求すればするほど、理解できる人は少なくなる。
反対に、知的レベルを下げれば下げるほど、理解できる人が多くなるわけだ。
だから、商品を多く売りたければ、内容の知的水準を下げて、その受容層を広げようという圧力が加わる。
この数十年の出版市場における「新書」の出版点数増加とその知的レベルの低下を、反知性主義と言わずに何と言えばいいのか。
大手出版社の書籍すらそのような状態なのだから、
まして個人発信でしかないYouTubeやSNSで、社会的承認ばかり欲しがる反知性主義者が我が物顔でいられるのは当然だろう。
消費資本主義の完成こそが「購買力」に勝る無教養な人に力を与え、知性による言論支配を脅かすことを可能にしたのだ。
おかげでナショナリズムの後ろ盾さえあれば、言説にも満たないレッテル貼り(左翼、パヨク、マスゴミ、反日)や紋切り型(オマエモナー、自己紹介ですか?、おまえこそがバカ)で教養人に勝った気分になれるようになった。



さて、非知性的な人が知的教養人より力を持つ力学逆転の弁証法的構図を、どこかで見た覚えがないだろうか。
そう、共産主義革命だ。
自己の労働力しか持たないプロレタリアが、数の優位性において連帯し、資本家階級の支配を覆すという力学逆転──革命。
共産主義が私有財産を公共化し、資産において誰もが「平等」であることをめざしたように、
反知性主義は知性を機能不全にし、知的エリートもバカも知的水準を同じくする「平等」をめざしている。
これが反知性主義が求める革命的な「救済」にほかならない。

社会的評価で劣っている人々が、数を頼りに連帯して少数エリートの支配をひっくり返そうとする構図において、共産主義と反知性主義は類似している。
双生児のようなものと考えてもいい。
つまり、知的にも経済的にも劣った人々は、このどちらの道を選んでも「救済」──実際は社会への復讐──を遂げられるのだ。
ただ、この双生児には厳然とした違いが存在する。
排外的ナショナリズム=反知性主義における復讐には、現実的効果がなく、憂さ晴らしにしかならない。
要するに、心理的な効果しかないのだ。

一方、共産主義の実現に関しては、現実的な社会変革がもたらされる。
右派は現実的で左派は空想的な理想を語る、と右派は言いたがるが、実際は全く逆だ。
共産主義運動の方が、現実的な解決策であることは間違いない。
しかし、その事実こそが左派的な運動の困難を示しているとも言える。
現実的な社会変革をめざすということは、それだけ社会との葛藤が強くのしかかるということだからだ。
簡単に言えば、共産主義運動に参加する方が、現実で闘争をするための精神力が必要とされる。
これは敷居が高い。
それに比べたら、排外的ナショナリズムに参加するのには精神的負荷がかからない。
ハッキリ言えばお手軽なのだ。
SNSのアイコンに日の丸をつけたり、その手のインフルエンサーにひっついて、コピーマシンのように同じことを発信すればいいのだから。
SNSは排外的ナショナリズムの連帯には役立っているが、階級闘争の連帯ツールとしては役立っているようには見えない。
その理由は、この差異にあるように思う。
SNSという「お手軽ツール」を戦場にするかぎり、排外的ナショナリズム=反知性主義の勝利は動かないのではないか。

しかし、排外的ナショナリズム=反知性主義というイデオロギーで、現実政治を動かすことには大きな困難がある。
そもそもが「お手軽」な「憂さ晴らし」のエネルギーでしかないものが集団化しても、困難な現実の変革などできるわけがないからだ。
必然的に「気持ちよさ」を味わうための反知性的な政策を連発することとなり、彼らが依存する国家権力の衰退を加速させてしまうのだ。

もともと反知性主義の文化があるアメリカを見れば、その運命は明らかではないだろうか。
移民排斥に勤しむトランプ大統領などは反知性主義の典型で、
明らかに知的エリートに対するルサンチマンがあり、大学やマスコミなど知的エリート発信者への弾圧が目立っている。
彼はロシアに親しみを感じているようだが、反知性主義と共産主義が双生児のようなものだと考えれば、これも不思議ではないのかもしれない。

共産主義は権力に戦いを挑むが、排外的ナショナリズムをは権力を後ろ盾とする。
だから権力や権威への依存心が強い国ほど、排外的ナショナリズム=反知性主義に陥る。
その意味で、日本の将来がどうなるかは予測しやすいわけだが、
反知性主義や反能力主義に支えられた排外的ナショナリズムでは、経済成長どころか現状維持さえ実現できるとは思えない。
実際、トランプの保護主義的な経済政策によって、基軸通貨としてのドルの価値が危ぶまれている。
(金の価格が急上昇している原因は、このドル基軸の揺らぎにあると思われる)
この路線では国家経済の衰退が早まるだけなので、いずれアメリカは進路を元に戻す努力をしていくことになるだろうが、
その時に対米従属の日本がサッと同じように態度を変えられるかといえば、僕は難しいのではないかと思っている。

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いつも興味深く読ませていただいてます

共産主義が不可避的にファシズムを導くということを痛感しています。Facebookで三宅芳夫さんがポストモダンを批判する論陣を張っています。ご参考にして下さい。

菅原潤さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
菅原さん、コメントありがとうございます。

僕としては共産主義を悪く言う気はなかったのです。
たしかに褒める気もありませんが⋯⋯(笑)
反知性主義と双生児のように似ていると言えば、悪く言ったことになりますかね。
基盤が同じメカニズムでも、向かう方向が違えば良くも悪くもなりえます。
核分裂や核融合の技術が、核爆弾にも原子力発電にもなるようなものです。
そういう意味では原子爆弾と原子力発電は双生児と言えるでしょう。

三宅芳夫氏のFacebookは、Facebookをやっていない僕には見られそうにありません。
丸山眞男で論文を書かれている方のようですね。
ご紹介ありがとうございます。

  • 南井三鷹
  • 2025/09/28(Sun.)

バカタレリアのサブカル談

コメント失礼します。

今回の考察は非常に刺激的で参考になりましたが、なぜ排斥主義と共産主義が「平等」という目的を分かち合いながら、ジェンダー運動と排斥主義が金融資本主義を補完してしまうことについて頭の中だけでは曖昧な所があり、それについてここで整理させてください。

金融資本主義は、先人の遺産から信用を拡大していくため、持てるものが信用され、持たざるものは信用から遠ざかる事になります。

サブカル的な話で恐縮ですが、エンタメ作品で世界を知りながら主人公が成長していく話よりも、予め持った能力や状況をどう活用し世界に適応していくのかという話の方が、よく聞くような気がします。(知的になったと感じましたが、後者はミステリー小説の形式に近く、作者の方が有利であるためそう感じてるだけかもしれません。)

この傾向は能力主義的な側面と、持てるものだけを作品に出す事で無駄をなくし理解がしやすくなる構成の平易さにあるのではと考えています。
(私が村上春樹の小説を好きになれないのは、主人公が一定の水準を保った持てるものでありながらそのことが疑問にもならずに淡々と進んでいく無駄の無さすぎる構成のせいかもしれません。)

持たざるものは社会から疎外され、その差を実感することで平等を目指す事になりますが、サブカル的な救済では距離において平等である事を目指すのでは無いかと思案しました。

学園での日常、ゲーム内の攻略、貴族社会への転生・接近、ロボや能力によるモノ化、これらは予め設定された作品の枠組み・先人の世界観に依存します。持たざるものが持てる人々と同じ場に在ること。そのために決められたルールにより場が設定されなければならない。
(BLは詳しく無いのですが、攻めと受けに拘るのは自分の推しに接近するために、その男性達に自分の願望を託してるということで大丈夫でしょうか?浅慮ですがここにもジェンダーの反映という枠組みを感じました。)

このことから、サブカルによる救済とは「場」における平等であり、定められた法則、記号の上で均一で居られることではないでしょうか?

疎外されているという実感を排するために、持てるものに擦り寄っていく。近年、「頂き女子」という恋愛詐欺が横行しておりましたが、彼女達は詐欺により得た金銭の殆どをホストとの活動に費やしていたそうです。無責任と断ずるよりも、自分の体に欲情してくる現実をあえて利用して、推しとの空間の中でその金銭と共に浄化していたのではないかと考えました。

クラファンのように自分の信用を宣伝して投資してもらう事。投資し信用のある人物の場に加わる事。そうして先人となり信用を拡大させていく事。その中で場に加わらないものに対して疑念をいだくこと。
(知性の無い人は、失礼ですが、出自や性別などが変えられないものであることを前提にできないため、人々を無差別に敵視してしまいます。)

場を持たない参加できない人々を持たざるものとして可視化し排斥することで自身が持たざるものであるという現実を否定すること。その信用性は先人のものによって保証されている。これによって金融資本主義の構造を利用しながら信用の中で平等になれます。

ぶっちゃけますが、排斥主義の正体は、エロ親父という性的に持たざるものから、海外からの方や反対者などの場的に持たざるものに変わった自分と相手を騙す詐欺の受け子に成り下がることだともう言っちゃいます。
(BLの理解は確定していませんが、自分の肉体を透明にして異性間の愛情を間接的に得ること。信じるもののために他者を抑圧し、それを介して社会と繋がること。これらもまた南井様の考える天皇制と関係しているのでしょう。)

逆説的ですが無駄なものを排することで世界の枠組みの保守に貢献できるので無駄な存在ではなくなれます。そうして世界に貢献するために無駄であった自分もまた排除する事になります。そうしなければ無駄で無い自分を確かめられないからです。これが今、私が考える前回の自傷行為の意味であり南井様はその意図を察し、わかりやすく整理して下さいました。

ここまでのまとめとして、排斥主義やジェンダー運動が現実を変える意味を成さないのは、社会を変えることよりも寧ろ社会に参加できるように主張することに重点があり、そのために自分達には信用があると宣伝して後援者の先人となり、信用を持つ先人の一人として社会に舞い戻る。その構造は投資を募り金銭を回収する金融資本主義の構造であり、その構造によってサブカル的な願望を果たしてしまう為に金融資本主義、その枠組み(共同体メディア)に依存し補完してしまう。

非常にくどくなりましたが、では同じ平等を目指す排斥主義と共産主義の階級闘争は何が違うのでしょうか?その差は平等であるための過程にあると考えております。

前者は場における平等であり、そのために敵を設定する必要があります。一方で後者は行動においての平等であり、行動によって敵を打ち倒し、平等を獲得します。

自分達が平等であるために敵と戦うのと、自分達が平等になるために敵と戦うという様に、この二つは過程が逆転していると考えました。

平等になるために行動すること。一見それだけですが簡単なことではありません。なぜなら連帯のため社会と向き合う中で自分と相手だけでも平等でないと気付かされるからです。

能力の限界や、コミュニケーション不足などの自分と相手の不平等、それを認識し葛藤しながら、社会との葛藤に向き合い戦わなければなりません。社会との葛藤に立ち向かう事ができても、自他の不平等に耐えられなければ、同質化へと向かい、排斥主義と同じジレンマに陥ってしまいます。
(文革や総括などの痛ましい歴史はそうした要因が引き起こしたものだと思います。)

平等である事を目指すのならこちらもまた逆説的ですが、平等でない事を日々認識し続け平等に抵抗することが求められます。平等でない事を認識し続けることは、平等でない事を認めることではありません。それは現状肯定のニヒリズムであり、現実を変えません。

不平等を強いる社会に、それぞれに違う他者に、そして自分自身に対して、平等であることとは何かと問いかけ続けること。その行動においてこそ平等のための先人となり、場によって守られた偽りの平等と次から次に受け渡される世襲的な先人共に否を突き付けることができると私は信じます。

これは南井様が他の方への回答を受けて思案したことではありますが、平等という勝利に甘えず現実と向き合い続けること。(目的の為に現実を疎かにすることはアキレスと亀での理解の際に陥ったことであります。)勝利の為に敗北できるかという南井様の問いかけは、そうして先人としての姿勢を貫けるかということなのでしょうか?そう思うと私は強く生きたいという想いが湧きわがってきました。

最後は、ヒートアップしてしまいましたが、これまでの排斥主義に関する論稿についてこの様に考えました。階級闘争もメディアも平等を問うための手段である。飲み込まれない様に気をつけながら、いつも考えていきます。

これからもどうかよろしくお願いいたします。

往来市井人さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
往来市井人さん、コメントをありがとうございます。

ジェンダー運動と排外的ナショナリズムが金融資本主義の支配の補完勢力になるのは、
あくまでも「反知性主義を広げる」という点においてです。
知性や能力の優劣を問わない社会とは、往来市井人さんが言うサブカルにおける「予め持った能力や状況」で所得の差が決まる社会であり、
そこには成長も努力もどんでん返しも存在しません。

金融資本主義は経済学によるリスク管理を充実させて、投資を失敗が起こらない「確実に勝てるゲーム」にしようとしています。
その意味で、反知性主義や反能力主義が下層において蔓延するのは、勝者を安定させ固定させることとなるので歓迎されます。
サブカルで成長を描くことが失われたのは、アングロ・サクソン型金融資本主義が日本支配を強めた80年代後半に当たります。
(そのメルクマール的作品が浦沢直樹の『YAWARA!』でしょう)
最近では敗者復活には別の世界に生まれ変わること(異世界転生)が必要だという価値観が蔓延していますが、
「不平等は死ななきゃ直らない」というニヒリズムが一般化していて、希望もない世の中です。

往来市井人さんはサブカルによる救済を、先人の世界観に依存した「場における救済」だとしました。
共有システムの中で記号を用いて均質平等に存在するあり方というイメージでしょうか。
政治的文脈で「平等」を語る場合は、「結果としての平等」と「機会の平等」の差異が重要視されますが、ここで語られる平等は「結果としての平等」に近いと言えます。
なぜなら、サブカルにおける記号的平等も、90年第以降に個人消費の場へと変容し、
スマホゲームによる課金システムが象徴する通り、今では資金をいくら投入したかで勝負が決まる金融資本主義と同様の価値観へと移行しています。
本来は、「機会の平等」(スタート地点がハンデなく同じであること)が重要です。
しかし、この国ではいつまで経っても、同一労働同一賃金すら実現する気配がありません。

往来市井人さんが言う通り、不平等を認識しないと平等への志向が生まれないのはもちろんです。
現在の問題は、不平等であることが当たり前になってしまい、平等であるべきだという発想そのものが弱っていることにあります。
だから、人種や国籍が劣っている者が手厚くされていることを不平等だと感じてしまう。
あんな奴らを平等に扱う必要はない、という感情。
平等扱いこそが不平等だという感情。
これこそが共産主義やリベラルが敵視され、排外主義が支持される大衆心理なのではないでしょうか。

そもそも平等や自由こそが敵視されているとしたら、人々に平等を価値として認めさせるところから始めなくてはいけないことになりそうです。
「チート」という言葉が軽々しく使われるようになった時代では、それすら難しい気がします。
世の中が平等でなくていいから、私を不平等に優遇してほしい、
そんな虫のいい欲望ばかりが溢れているように思えます。

敗者の手段である文学が、「先人としての姿勢」を示すものなのかはわかりません。
自分の書いたものが後世に評価され、それを継ぐ人がいたとしても、僕にはどうでもいいことです。
重要なのは、自分がこの時代に屈しなかったこと、その証明としての文学です。
その意味で僕は「自分の人生のために」文学をやっています。
抵抗こそが文学なので、もはや作品も必須ではありません。
この時代に誰がそういう文学を理解できるのか、ということも、今の僕には重要ではなくなっています。

  • 南井三鷹
  • 2025/09/29(Mon.)

プロフィール

名前:
南井三鷹
活動:
批評家
関心領域:
文学・思想・メディア論
自己紹介:
     批評を書きます。
     SNS代わりの気軽なブログを目指して、失敗したブログです。

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