南井三鷹の竹林独言

汚濁の世など真っ平御免の竹林LIFE

政治なき「政治の季節」

日本は今や深刻な景気低迷期にある。
数年前のニュースでは、不況の原因は「コロナ禍」だと言っていたものだが、
さすがにその「ごまかし」も通用しなくなり、円安による物価高が直撃した今、経済停滞が国の構造的問題だということが誰の目にも明らかになっている。
そのため、「政治をどうにかしないといけない」という危機感が高まり、「政治の季節」が再到来するような機運がある。
しかし、人々の関心は本当に政治﹅﹅にあるのだろうか。

国民の政治意識を少し振り返ってみよう。
80年代バブルの好景気の余韻冷めやらぬポストモダン期(失われた30年)では、貨幣価値が高くなるデフレ経済であったため、消費に金を注ぎ込む存在がありがたがられた。
趣味的な個人消費を幸福とする、消費市場に従順な「オタク」がもてはやされたのは、そのためだ。
豊かな社会だったので、政治問題や社会体制に対する関心は「大きな物語」と揶揄され、
狭い趣味世界で消費行為に明け暮れることにしか関心がないオタクであることが「有閑階級」の証明となっていた。
こうして政治的関心は蔑視され、「消費する家畜」と化したオタクの「個人的(性的)欲望」ばかりが語られるようになっていった。

経済に翳りが見えた2010年代になり、オタク化した人々は現実逃避へと勤しむようになった。
周囲に縛られずに自己決定することを称揚する風潮が、共同性の価値を衰退させ、個人の自己中心性とナルシシズムを強化した。
それが「ネトウヨ」に代表される「権力による社会統制」を求める人を増やし、権力批判に対するアレルギー反応を引き起こした。
2020年代、コロナによる消費衰退に加えて、「時間稼ぎ」だった安倍長期政権の金融緩和政策も限界を迎え、日本経済の衰退と社会システムの老朽化は決定的な状況に陥っている。
当然ながら将来に対する不安は増すばかりで、SNS上では「ネトウヨ」の専売特許だった政治的な言説が反対勢力からも起こるようになって、その総量が明らかに増えていった。

何度でも言うが、「保守」を自称する政治的右派はポストモダン的な文化左翼(オタク)から生じたものだ。
つまりは、もともと非政治的な個人消費を謳歌していた人々が、ある時に突然「政治化」していったのだ。
それが保守というナショナル・アイデンティティ勢力だけではなく、左派勢力においても起こっている。
その代表がジェンダーやLGBTQへの関心であり、
性的アイデンティティにおけるマイナー志向は、ちょうど保守によるナショナル・アイデンティティの大文字志向と対称をなしている。
性的アイデンティティの問題は「被害の物語」として社会的イシューとなったが、
その動きには「萌え」に代表されるオタクの性的欲望の「社会化(市場による交換価値化)」との関連性が見られる。
(これはジェームズ・リンゼイ、ヘレン・プラックローズの言う「応用ポストモダニズム」の出版市場的現象だが、日本の現象は彼らが問題視する「不満研究」という面よりも「被害の物語」の共有と考えた方がいいと僕は思っている)

要するに、保守系右派勢力とフェミ系左派勢力は見かけほど対立してはいない。
「保守」なら過去の戦争責任を責められることへの被害意識、フェミ系なら性別で損害を受けていることへの被害意識と、どちらも「被害の物語」を語るのが大好きだ。
非選択的なナショナル・アイデンティティに依拠する「自分」か選択的なアイデンティティに依拠する「自分」かという差異はあるが、
メタ的な視点で見れば、どちらも「自分のアイデンティティへの関心」に心を奪われている似たもの同士なのだ。
(この偽の対立軸が「選択的夫婦別姓」への賛否を、必要以上に重大な政治的問題に仕立て上げている)

最近の「政治化」現象の中心が、個人消費に依存した人々による「アイデンティティ運動」であることには、大いに注意を払うべきだ。
もちろん、社会的な視点で政治に取り組んでいる真面目な人もいるが、それはあくまで少数にとどまる。
多くは個人消費のオタク的「幸福」を享受していた人たちが、最近になって政治化したケースだと見て間違いない。
だから、彼らの根底にある幸福は、依然として「(消費的)個人」を基盤としたものでしかないし、インターネットを主戦場としたものにとどまる。
プルラリティ」というカタカナ語を有り難がっている人たちなども、相変わらず個人消費の接続端末であるデジタル・インフラで、個人の欲望調整をすることを「政治」だと思い込んでいる。
『PLURALITY』の著者たちがデジタル大臣やマイクロソフト研究員であることでもわかるとおり、
「プルラリティ(多元性)」など資本主義を延命させるデジタル化に対する不満をガス抜き﹅﹅﹅﹅させる幻想でしかない。
内容は「道具は使いよう」という当たり前の話であって、
共通の話題にみんなで飛びつく一元的な人たちの間で、すぐに消費されて死語の仲間入りをすることだろう。

珍奇なカタカナ語にビビらない人のために言っておくが、消費的個人という単位を基盤にしているかぎり政治はうまく運ばない。
そこには人々の「共同性」という社会的視点が欠けているからだ。

「共同性」のないところに公共意識は育たず、したがって真に公的な政治はない。
たとえば直近の参議院選挙に向けて消費税減税を選挙公約として掲げる政党があるが、僕には財源論よりも消費税減税による経済回復というものがピンとこない。
このような政策に波及力があると思われているのは、やはり有権者のマインドが「個人消費」を価値としているからではないか、と疑わずにいられないのだ。
来るべき未来において、多くの人々が幸福に生きられる社会はどういうものか、という前向きな問題意識よりも、
どれだけ「買い物がしやすくなるか」にしか関心がない人々が多いことの証明ではないのか。



消費税が1989年に導入されたものだということを思い出してほしい。
これを減額もしくは廃止する欲望とは、1989年以前に時計の針を戻す欲望に等しい。
ここに冷戦末期のバブル時代へと還ろうとする心理が、隠れていないと言えるだろうか。
そうであれば、反共の冷戦メンタルとアメリカ依存から抜けられない保守勢力と、何が違うのだろう。

僕には保守勢力も左派勢力も、結局は「消費バブル時代への郷愁」を生きているだけに見えている。
ここには政治的対立など本質的には存在しない。
どちらにしても過酷な未来を見ることから逃げているからだ。
僕が国政選挙に行かないと決めたのは、民主的な政権選択ではこの「Great Again的なノスタルジーの欲望」を変えられない思ったからだ。
日本もアメリカも時を戻すことに一生懸命になっている。
要は国家レベルでアンチエイジングに勤しんでいるわけだが、僕はそういう非政治的で現実逃避的な欲望ポピュリズムを政治に持ち込むことに賛成できない。

問題は資本主義社会がもう限界だということなのだ。
この事実を避けて、元気だった頃の資本主義のノスタルジーを追い求めるのはバカバカしい。
(彼らが戻りたがっている時代には、まだ共産主義勢力が存在していた。
それが何を意味するのか、少しは考えてみたらどうなのか)
僕はこれまで国政選挙をボイコットする理由をうまく言語化できなかったが、ようやく可能になったので言わせてもらう。
「現行の資本主義体制の維持を前提とした政治」などに関わる気にはならないのだ。
一方で斎藤幸平のような共産主義ノスタルジーも御免ではあるのだが、これまで通りの貨幣増殖を最大価値とする資本主義体制は多くの人を不幸にすると思っている。

したがって、今の「政治」には全然興味が持てない。
多くの人が、個人的な利益(どういう政策が自分個人の得になるか)を基準として、「自分のための政策」を選びたいだけだからだ。
そこには「どれがお得か」という消費﹅﹅的な﹅﹅視点しかない。
それが本当に政治的だと言えるのだろうか。
損得勘定が「政治」であるなら、不動産屋にでも大統領をやらせておけばいい。

テレビニュースなどで、アメリカのトランプ現象を「分断」と表現することに僕が苛立ちを感じるのは、
マスコミがアメリカの二大政党制を、対立構図だと信じて疑っていないからだ。
二大政党の権力争いを政治的対立と捉えているから、「分断」などという表現で満足してしまうのだ。
ボードリヤールは二大政党制における政治的選択は「見せかけ」だと断じていたが、僕も全く同感だ。
民主党政権だろうが共和党政権だろうが、アメリカは利権のための戦争をやり続ける。
日本には基地を置き続けるし、金がある奴しか相手にしない。
しっかり一本の筋が通っている。
別にトランプ政権になったからと言って、帝国主義的な基本線は変わっていない。
ただ、トランプ政権下のアメリカ人たちは、建前を捨てて本音を「暴走」させているだけなのだ。
建前と本音の対立など、「分断」と表現すべきものではない。

欲望のまま「本音」を垂れ流せばいい、という世の中になってしまうと、民主主義における政治は堕落するだけになるだろう。
だからと言って、カール・シュミットのように議会制民主主義を否定してしまうのも間違っている。
本来なら、「共同性」を基盤とした政治の重要性が見直されていくべきなのだが、
しかし、社会が消費的個人を「幸福モデル」として信仰し続けるかぎりは、それも難しいことだろう。
ただ、このまま経済衰退が続けば、消費で満足を得られる人は減るばかりなので、自然とポストモダン的な「幸福モデル」は立ち行かなくなるだろうし、実際に若い世代は違うモデルを生き始めている気がする。
彼らが社会を担う時代になれば、もしかしたら未来の社会のあり方について真剣に考える日が来るかもしれない、と一縷の望みをつないでいる。

僕としてはその時が来るまで、なるべく「アイデンティティ政治」と「消費拡大」の世界とは関わらないようにして、
「手の届く相手」を大事にする竹林ライフを楽しもうと思っている。

コメント

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面白く読ませて頂きました

こんにちは

以前Twitterでコメントとフォローを頂いた
詩人をやっておりますやややです。

「消費税の減税が争点になっているが
皆が幸せになる社会を作ろうというより
自分が買い物しやすくなってほしいという
個人的欲望だけの見解を披露している
奴らばかりじゃないか」

という論旨にはまったく賛同します。
もちろん減税はありがたいですが
声高に叫んでいる人達の
八割九割はそういう魂胆でしょうね。

皆個人的な欲望だけで動いていて
大義のカケラもなくてシラケる(意訳)
という感覚にも共感します。
リアルでもネットでも
半径5メートルしか見えてないような
人は大勢見かけますからね…

もちろん大義を持って活動している方は
少数とは言えいるのでしょうが、
そういう方々がうまく結集できず
バラバラにされている感があります。

個人的な利益を追い求めている連中に
ついてですが、
私ももちろん個人的に利益は欲しいです。
しかし、「じゃあ本当に俺の利益になることって何だ?」
と考えると、
「世界が平和でいいところになって、
心ある人達みんなから
愛されるような人間になれば
それが究極的な幸せだよなあ」
という結論になると思うのですが、
何で自分さえ儲かりゃ
他人が不幸になろうと知ったこっちゃない、
みたいな行動原理で動く奴が
こんなに多いのかと、
子供みたいですが疑問です。
お前ら何が自分の本当の幸せになるかさえ
本気で考えないんかい、と。

まあそんなわけで私は
平和的調和的世界を目指して
日々考えながら生活しております。
南井さんの批評はそんな私に
考える材料を与えてくれるので
大変ありがたいですね。

期待されている若者なのかどうかは
分かりませんが、(もう四十だし)
志のある人間はちゃんといますよ、
ということをお伝えしたくて
コメントさせて頂きました。

世界平和を目指していると言いましたが
「どいつもこいつも自分の事しか
考えてやがらねえ! 
俺が天下取って治めてやろうか!」
などと思ったりもしますね。
まあ、それはまず無理ですけど。

そんな私の
天下統一的世界平和的生存戦略(なんだそりゃ)の参考のために
これからも的確な批評をお書きいただければ
大変幸甚です。

長々と失礼しました。
これからも執筆活動頑張ってください





やややさんへの返答

どうも、南井三鷹です。
やややさん、温かいコメントをありがとうございます。

こちらも以前からやややさんの詩を楽しく読ませていただいているので、
「平和的調和的世界を目指す」という大義が、本気で掲げられたものなのはわかっているつもりです。
そういう大義を抱く方たちが一定数いることを、僕も信じていないわけではないのですが、
やややさんが書いてくれたように、そのような志を持つ人たちをバラバラにしているものが問題なのです。
僕はその一因がアメリカ的消費文化やマスメディアにあると思っています。

「世界平和は地域紛争よりも儲からないので、そんなものを実現する必要がない」
そう考える覇権国家の支配に多くの人が疑問を持てないのは、消費文化を通して人々に「アメリカへの憧れ」が植えつけられているからです。
(その協力者が村上春樹であることは言うまでもありません)
僕はこれを「アングロ・サクソンの世界支配」と呼んでいますが、文化戦略で世の中が変わるという幻想を信じ込ませることが、彼らの代表的な手口となっています。
トランプはそれを無視して「力こそ正義」で突き進んでいますが、
日本のマスコミは「アメリカへの(マザコン的)憧れ」を捨てられないために、
アメリカにはトランプ流を嫌う人たちが多く存在していて、アメリカは「分断」されている、と思い込むのに必死です。

まあ、確かにアメリカにも反トランプを表明する人は多くいるわけですが、
トランプ以前からアメリカという国には、トランプ的な「裏の顔」が存在していました。
広島、長崎への原爆投下が戦争終結のために必要だった、と思っている人はトランプ以外にもたくさんいるはずですし、
それに対して「お前らは人体実験をやったんだ」と言える日本人はほとんどいません。
日本はアメリカに対していつまでも「敗戦国」であり続けているのに、
一方で中国や韓国にだけ「いつまで謝罪しなければならないのか」と怒りをぶつけ、自分たちがアメリカに「去勢」されたことを否認するのに必死です。

自衛隊を憲法に明記したからって何なのでしょう?
実質的な軍事指揮権を在日米軍に握られている「去勢された国」であるという事実が、それで何か変わるのでしょうか。
現実的満足を捨てて心理的満足だけで生きていく「幻想の国」、それが現代日本の正体です。

僕はこういう国の人たちが、ほとほと嫌になったのです。
日本が「幻想に引きこもる国」であり続けるかぎり、リアリストの僕が竹林から出ることはありませんが、
この「竹林」こそが逆説的に自由な世界へとつながる杣道であることを、僕は確信しています。
これからもやややさんの「天下統一的生存戦略」の参考になるものを書いていきますので、懲りずにまた読んでいただければ嬉しいですね。

  • 南井三鷹
  • 2025/06/29(Sun.)

プロフィール

名前:
南井三鷹
活動:
批評家
関心領域:
文学・思想・メディア論
自己紹介:
     批評を書きます。
     SNS代わりのブログです。

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