汚濁の世など真っ平御免の竹林LIFE
こんにちは。やややです。
更新お疲れ様です。
分析を拝読して
まったく筋の通った推察だと
膝を叩くばかりでした。
そーかあ。偉い人たちは
「下々のモンが逆らうんじゃねえ!
投資家だけが儲かってるのに
庶民は食うにも困ってる? 知るか!
俺たちの支配体制を守るために
アメリカ様白人様のケツは
いくらでも舐めるぜゲヒヒ」
と思ってるんですねぇ。(戯画的表現)
水戸黄門や暴れん坊将軍を
楽しんでいた世代としては
「偉い人は立派なんだろう」
と子供の頃は信じていましたが
大人になるにつれ
まったくそうではなかったのだと
思い知らされましたね…
一人前の年齢になった男として
何かしら悪党どもに
目にもの見せてやりたいと
考える日々です。
南井さんの硬派な文章と姿勢は
「そーや、この世の欺瞞から目をそらさず
闘わなアカンのや」
と決意を新たにしてくれますね。
ありがたいことだと思っております。
では、更新お疲れ様でした。
次回の更新も楽しみにしています。
どうも、南井三鷹です。
やややさん、コメントをありがとうございます。
僕が子供の頃の時代劇(『水戸黄門』『暴れん坊将軍』)は、「権力者による弱者救済」という根本図式がありました。
青年期になると、この「権力者による」という図式が嫌になり、浪人が活躍する『三匹が斬る!』に活路を見出しましたが、
この浪人たちも正体が幕臣だったりして、「結局それか」となりました。
結局は既存秩序に頼る「江戸メンタル」がこの国の「正義」なんだと失望したものです。
僕が生まれた年にドラマが始まった『木枯し紋次郎』を、のちに見る機会があったのですが、
この紋次郎は農家の生まれで完全な渡世人。
ハードボイルド風の時代劇で、やはり70年代は世から疎外された主人公というのが受け入れられていたんだと感動したものです。
もう80年代以降の日本をタイムリープするのはウンザリなんです。
最近のドラマは戦後を扱っても、平気で現代の価値観を投影して描きます。
70年代はどこにいったのでしょうか。
村上春樹以前の戦後作家はどこにいったのでしょうか。
左派が階級闘争から
目を逸らしてるというのも
仰る通りだと思います。
ただ私も心情的には左派よりであり
階級闘争は必要なのだと思うのですが
それ「だけ」では
何かが足りないのではないか、
あるいは階級闘争に勝利した後の
世界態勢をどう構築して
維持していくのか、
という問題に答えを出すのは
極めて難問題だろう、
と言ったことを思案しております。
私(たち)の闘いは
世界的であるけど
極めて個人的なものでもあるんだろうなあ、
という気がしますね。
人生自体がそういうものかも知れませんが。
もっとも闘いを諦める気は
全く無いのですが、
極めて長期戦になるであろうし
かつ相手がどんな悪辣な手でも
使ってくるだろうと思うと
やれやれとため息をつきたくなりますね…
でもまあ、愚痴を漏らしても仕方ないので
ぼちぼち頑張ろうと思います。
(壮大な問題を前に妙に気楽で前向き)
(力抜いて構えてないと
やってらんないよー)
では、良い分析を
ありがとうございました。
正直に言えば、僕は共産主義を支持しているわけではないので、
左派には階級闘争を求めますが、それが権力を握ることはないと思っています。
権力奪取ではなく、ただ抵抗のための闘争をこそ求めています。
個人的な意見かもしれませんが、
僕はそもそも「文学」という手段は勝者が用いるものだと思っていません、
勝者が文学を用いたら、それはただの「宣伝」でしかありません。
(それこそが80年代以降の文学と見なされていたものの正体です)
「階級闘争」も「文学」も敗者による抵抗であるべきですし、
敗れ続けていることが勝利になるという、稀有で逆説的なものなのです。
そこに現世利益などはなく、あるのは自分がいなくなった後の勝利だけです。
(繰り返しますが、個人的な意見です)
次の世代の力になるかどうかは、死ぬまで戦い抜いたかどうかしかありません。
僕がいわゆる「左翼」を軽蔑しているのは、死ぬまで戦わずにヒヨったメディア言論人になどに成り下がったからです。
(今で言えば斎藤幸平がその代表です)
つまりは階級闘争も手段でしかないのです。
とにかく「今」という時代と戦うこと、それが文学の使命だと僕は考えます。
だから本屋に並んでいる最近の商業誌から出てきた作家の多くはニセモノです。
戦いは長期戦どころか死ぬまで続きますので、気楽にやるというやややさんの姿勢は良いと思いますよ。
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