南井三鷹の竹林独言

汚濁の世など真っ平御免の竹林LIFE

SNS政治プロレスと『薫る花は凛と咲く』

個人的な趣味の話題になるが、今期の夏アニメでは『薫る花は凛と咲く』(現在8話が終了)を見ている。
原作漫画が売れているのは、書店の新刊平積みの雰囲気で知っていたが、
どんな話かは全く知らなかったので、アニメなら無料だから覗いてみようと思ったのだ。
作品が好きというより、流行りに対するリサーチ目的が大きい。

この作品は「マガジンポケット」連載中の三香見サカの漫画が原作なのだが、
底辺男子校「千鳥高校」のコワモテ男子が主人公ということで、いかにも「マガジン」風だなと思っていたら、
キャラの内面の描き方が女性目線で、ストーリー展開も少女漫画を彷彿とさせるので、
おそらく作者は女性だろうと想像している。

主人公の紬凛太郎は、威圧的なガタイを持つ金髪コワモテで、第一印象で必ず人に怖がられる。
しかし母(シングルっぽい)がケーキ屋を経営していて、スタッフとして店を手伝っていたりする。
外見で誤解されているが、素顔は不器用なだけで気遣い細やかな男子という秀逸なギャップ萌え。

彼の実家のケーキ屋をよく利用する和栗薫子がヒロインで、要はこの二人の恋愛ドラマがストーリーの軸なのだが、
どちらかというと、ガーリーな外見の薫子の方に男前な雰囲気がある。
そのせいか、薫子から好意を寄せられる凛太郎の反応が、むしろヒロイン的で可愛いんですわ。
個人的にはコワモテ男子がヒロインの少女漫画を見ているようで、そのジェンダーの揺らぎが今っぽいと感じている。

しかし、実はこの作品を見始めた頃、作品の舞台設定に大きくつまずいた。
主人公の凛太郎が通う高校が、学力底辺の「千鳥高校」だという話はすでにしたが、
ヒロイン薫子が通うのはお嬢様進学校の「桔梗女子校」で、その格差﹅﹅が物語に大きく関わる。
「つまずいた」というのは、千鳥と桔梗女子の両高校の敷地が隣り合わせという設定だ。
凛太郎の教室の窓から隣の建物が見えるのだが、それが桔梗の校舎だったりする。
(千鳥と向かい合う桔梗の校舎の窓は、全面カーテンで覆い隠されているのだが、年中エアコン使用で換気不要なのか?)
自分の部屋の向かいに幼馴染のヒロインの部屋がある、という非現実的な設定はよく見かけたが、
男子校と女子校の教室が向かい合ってるとは斬新な……。

女性を上位とした学校格差という舞台設定は、「負け組男子」の一発逆転モノの系譜を密かに取り入れている。
桔梗のお嬢様たちは露骨に千鳥の男子を軽蔑していて、千鳥の男子たちもその扱いに慣れきって「負け組」であることを諦めている。
ケーキ屋で薫子と知り合った凛太郎が、彼女の母校が桔梗女子と知って動揺したのは、
自分の母校と彼女の母校の「空間的に近いのに心理的に遠い」関係を無視できなかったからだ。
「負け組男子」の自分が、「勝ち組女子」に好意を持たれるなんてありえるのだろうか、
所属集団の社会的格差によって、凛太郎は自分の気持ちに素直になることができず、普段つるんでいる親友たちにさえ薫子のことをなかなか言い出せずにいた。

集団的アイデンティティが男女の恋愛の障壁なんて、『ロミオとジュリエット』以来の古典的モチーフだが、
今時こういう設定に若い子がリアリティを感じられるものなのだろうか、というのが僕のつまずきだった。
そんな僕がこのアニメをとりあえず見続けているのは、集団的アイデンティティで「レッテル貼り」をして、その相手個人を見ていない、という現象は、
むしろ現代のSNSなどのネット・コミュニケーションで前景化されている問題ではないか、と思い至ったからだ。



「あの子は桔梗じゃないか」「どうせ千鳥でしょ」というような集団的アイデンティティへの安易な還元は、
「おまえはパヨクだろ」「非国民め」「外国人は出て行け」「これだから男は」など、ネット上でよく見る「個」を集団へと融解させる態度と重なってくる。
インターネットで個人個人が発信できる環境が技術的に整っても、権力を頼る人々の脳内は依然として「オールドメディア」的な集団的把握に囚われたままだ。
(アイデンティティの本質は「集団的」「社会的」なものだが、ここではあえて強調のための接頭辞として用いている)

とりわけ元TwitterのXを利用していて最近ウンザリしているのが、「参政党プロレス」だ。
「プロレス」というのは僕が個人的に使っている用語なので、一見してよくわからないかもしれないが、
この前の参議院選挙で躍進した参政党の支持者(大概は右寄り)と、その批判者(大概は左寄り)の間で行われている攻撃の応酬のことだ。
もともとは「保守」を自称する反中嫌韓の右派勢力が、自分たちの批判者に「リベラル」「パヨク」などとレッテルを貼って侮蔑し、知的論争から逃避するのが常だったが、
ここ数年で左派系の立場を取る人たちが「保守」に対する理解が進んだために、マジメに論争しても意味がないことを悟って、相手と同様に「ネトウヨはバカ」などの侮蔑的な言葉を浴びせるようになった。
たしかにネトウヨには知性が感じられない発言が多く、政治をサブカル的にしか理解していないように見えるのだが、
本当に左派が知性を重視しているのならば、右派と同じ手段で相手を攻撃している現実をどう受け止めればいいのだろうか。
もはや、どちらも自分や所属集団の支持者を繋ぎ止めるために、相手を攻撃しているようにしか見えない。
観客に見せるために実効性の乏しい攻撃を互いに出し合っている姿を、僕は「プロレス」と呼んでいる。
要するに、関心を集めるための興行であり、目的は政治ではなく金なのだ。

『薫る花は凛と咲く』で僕がいいなと思ったシーンは、薫子が「近くて遠い」桔梗女子の生徒だと知って悩んでいる凛太郎に彼の母親が、
薫子を桔梗の生徒という集団的アイデンティティで判断することは、凛太郎が周囲から偏見で見られてきたことを、彼女に対してやっているのと同じだ、と諭すところだ。
そこでハッとした凛太郎は薫子に、「学校ばっか気にして、和栗さんを見てなくてごめん」と謝罪する。
実際にはなかなか言えないセリフだと思うが、SNSのプロレスラーたちに凛太郎のような気づきは期待できないようだ。
集団的アイデンティティに囚われてしまって個人としてのその人を見失っている、というのは普遍的な問題ではあるが、とりわけメディア社会を考える上で重要なのではないか。

僕は批評活動を通じて、メディア批判の主眼を〈対面的でフェアな関係からの逃避〉に置いてきた。
メディア・コミュニケーションは現実空間に自分しか存在しない場で行われるために、対面的で対等な関係からの逃避を実現するものでもある。
SNSでやたらとマウントをとりたがる人が目につくのは、メディア技術の利用によって対等な関係から逃避したい心情の現れだと言っていい。
彼らの自己愛と承認願望は、他人と対等な関係では満たされないのだ。
メディア論では場所性の喪失は問題にされるのだが、このような対面性からの逃避については不思議なほどに問題として扱われていない。
それはおそらく、対面性からの隔離が個人消費とネット利用を加速させるという経済的理由からだろう。
対面的な集団がみんなで漫画を回し読みしたり、みんなで動画配信を見たりすると、人数分の料金を取ることができない。
それより個人個人の端末にコンテンツを売りつける方が、売上を稼げるという仕組みだ。
しかし、その欲望が「かけがえのない個人」の価値を確実に蝕んでいるのだ。
それが個々の生命の軽視を呼び込むのは言うまでもない。

実際に互いに会って話してみれば、集団的アイデンティティの呪縛なんてつまらないものだ。
それを示してくれるのが『薫る花は凛と咲く』という作品だ。
薫子は可憐な容姿もさることながら、フェアな精神を貫いている女の子で、凛太郎は恋愛感情より前に彼女を「尊敬」してしまうのだが、
健全な人間関係の構築において重要な役割を果たすのは、そのような相手へのリスペクトなのではないか。
その意味で、「プロレス」に明け暮れるSNSの政治空間というものは、相手へのリスペクトを忘れた不健全な人間関係の標本でしかなくなっている。
現実生活の自分を惨めに感じて、こんな場所に「異世界転生」して何者かであろうとする人たちが救われないのは、
その強すぎる自己肯定と承認欲求によって、対面的な個人に対するリスペクトが欠けているせいだということに早く気づいてほしいものだ。

コメント

お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字

プロフィール

名前:
南井三鷹
活動:
批評家
関心領域:
文学・思想・メディア論
自己紹介:
     批評を書きます。
     SNS代わりのブログです。

ブログ内検索

カレンダー

07 2025/08 09
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 29 30
31