南井三鷹の竹林独言

汚濁の世など真っ平御免の竹林LIFE

林逋「山園小梅」

佐藤保『詳講 漢詩入門』では、中国詩の重要なテーマとして「隠棲」が挙げられている。
中国には科挙という官吏登用試験があったが、
それを突破するには、漢詩を作る能力が必須だった。
つまり、文学は政治参加への直接的な手段になっていた。
(戦後日本でもある時期の東大の入試問題には、決まって漢詩が出題されていた)
簡単に言えば、社会的地位を得るために、詩の能力が評価基準になっていた。

詩の能力が出世を保証するようになると、おもしろい逆説が成立するようになる。
優秀な詩を書ける人であれば、たとえ出世しなくてもそれだけの能力がある人だと証明されるのだ。
それならば、官職を得て出世することがなかった人でも、素晴らしい詩さえ残せれば、自分の実務能力を示すことが可能になる。
だから、時の体制に背を向けて隠者となっても、卓越した詩を残すことでその能力を証明することができた。
中国の詩が「隠棲」する人たちの支えになれたのは、そのような力学のためだと僕は思っている。

石川丈山「時俗」

この前、石川丈山の「富士山」という漢詩について書いたが、
その後、近世文学研究者の中村幸彦の著述集を読んでいたら、思いがけず「石川丈山の詩論」という論文にぶつかった。
丈山はもともと三河武士で、徳川家康に仕えた人だ。
大坂夏の陣では戦場を駆け巡っていたが、50代になって京都に移住し、
洛北の一乗寺に「詩仙堂」を建てて、隠居生活を30年近く続けたので、中村は「隠詩人」と書いている。
とはいえ、権力者に近侍した人だけに、当時の漢籍を数多く読むことは可能だっただろう。

「詩仙堂」というのは通称で、本当は「凹凸おうとつ」と丈山は名づけたらしいが、
読みにくいからなのか、中村の論には詩仙堂としか書かれていない。
中心部の四方の壁に、丈山が林羅山と共に選んだ中国の詩人36人の肖像画(狩野探幽の画)が飾られていることが、その名の由来だ。
現在も詩仙堂は残っているので、いつか京都を訪ねる機会があれば見てみたい。

晁冲之「春日」

まだ春を感じ始めた時節だが、井波律子『中国名詩集』より春の終わりを詠んだ漢詩を紹介しよう。
ちょうちゅうという北宋の詩人の作品だ。
宋王朝には北宋(960年〜1127年)と南宋(1127年〜1279年)という区切りがある。
北宋は中国全土を支配地域に置いていたが、女真族が華北部に侵攻して金を建国したことで、
宋王朝は南部だけを支配するにとどまることになった。
それを南宋と呼んでいる。
朱子学などの道学は、北部の異民族に絶えず脅かされていた南宋で発展した。

晁冲之の生没年はよくわからないが、北宋末の詩人であり、一族は名門だ。
蘇軾そしょく門下で「蘇門四学士」に数えられた晁補之ちょうほしは従兄にあたる。
しかし、補之が政争に巻き込まれて左遷されたことが影響したのか、冲之は仕官することはなかった。
おそらく隠者であることを選んだのだろう。
以下の「春日」を読むと、王朝末期の衰退社会を深く憂いていたことが読み取れる。

石川丈山「富士山」

ここ数年、朱子学の本を読んでいるが、
日本の朱子学受容を考えると、江戸時代の思想を調べる必要が出てくる。
で、最近は朱子学の勉強と並行して、江戸の思想にも手をつけ始めたところだ。

すると、江戸の儒者というのは、だいぶ江戸漢詩の世界を支えていたことがわかった。
岩波文庫の『江戸漢詩選 上』を買ってみたら、
藤原せい、林羅山、伊藤仁斎じんさい、山崎闇斎あんさい荻生おぎゅうらいなど江戸儒学のビッグネームや陽明学の中江とうじゅなどが並んでいる。
これは江戸漢詩も読まなければ、と思い、無学を恥じながら読んでいる。

ちなみに江戸儒学は江戸俳句の世界とも関わりが深い。
貞門派の祖である松永貞徳の息子、松永せきは藤原惺窩の弟子で儒学のほか仏教や道教にも通じていた。
松尾芭蕉も宗房時代は貞門派に組み入れられる位置にあり、
芭蕉の漢詩好きを考えれば、江戸儒学との関係は無視できないものだろう。

プロフィール

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南井三鷹
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文学・思想・メディア論
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     批評を書きます。
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