南井三鷹の竹林独言

汚濁の世など真っ平御免の竹林LIFE

内輪性と党派性ばかりの日本の商業文学空間

現在の日本の文学空間は、文芸雑誌の出版社によって支配されている。
そのため、文芸の創作者は驚くほどのマスコミ崇拝者ばかりだ。
マスコミや出版社が稼いでくれる作家を批判することはタブーになっていて、他の作家も粛々とその支配に従って文筆活動をしている。
そうやって商業的に管理されていることに疑問も不満も起こらない空間なので、
防音に配慮された商業的な個室で、他人の迷惑にならずにカラオケを楽しむ人たちの集まりになっている。
カラオケだから、誰もが自分の順番で歌う曲のことばかり考えている。
他人が歌う曲は葛藤なく拍手ができるレベルであれば問題ない。
もし偉い人が同席したら、人一倍大きな拍手をする。

80年代以降の商業文学空間は、ポップ化とフランス系のポストモダン思想の影響一色に染まって、サブカル消費文化の「僻地」に位置するだけになった。
「僻地」で金儲けをするのはあまりに苦しい。
そのため、「ポップで大衆ウケするもの=売れる作品」と「学術的権威」が談合的に一体化して、あられもなく商業化(=サブカル化)を推し進めた。
簡単に言えば、アカデミズムと商業出版社が手を組んで、文学市場を支配したのだ。

僕はその両者に痛烈な批判を浴びせてきた。
当然ながら商業文学空間に依存する連中からは敵視され、数々の嫌がらせを受けてきた。
僕のような無名の個人が各方面から攻撃されたことが、この支配体制が現実に存在することの証明でしかないのだが、
商業文学空間の「利権」は年々力を失っているので、無名の個人が相手であっても、その薄汚れた「利権体質」を一般人に伝えられるのが恐ろしいのだろう。



それにしても、日本人は「権威」に弱い。
商業文学空間が「利権体質」であり、文学作品の充実より支配体制の延命を優先させていることを理解している人も少なくないと思うが、
「仕方ないじゃないか」と諦めることで、根性のない自分を免罪しているようだ。
この状況は、自民党政治に対する多くの国民の態度とそっくりなので、別にリサーチしなくてもよくわかる。
これは丸山眞男が指摘したことだが、日本では支配権力が「既成事実」化したものに、人々が抵抗することはほとんどない。
「既成事実」となったら「ズルズルベッタリ」と無抵抗に追従する。
成立したものが正しいかどうかには本質的に関心がなく、ただ周囲から社会のハズレ者と思われることを極度に恐れている人たちなのだ。

島崎藤村に『破戒』という作品があるが、主人公の瀬川丑松はそのような日本人の典型的な姿を体現していて、僕は読んで嫌悪感しか抱かなかった。
自分が穢多えたであることをカミングアウトして、差別と堂々と戦った末に殺されてしまう猪子蓮太郎に憧れながらも、
自分も穢多なのです、と猪子に告白すらできずにヒヨって終わった丑松。
僕はあの小説のラストシーンが胸糞悪すぎて大嫌いだ。
丑松の奴は教師なのだが、自分の教室で目下の教え子に向かって「自分は穢多だ」とカミングアウトして、テキサスへと移住することを決断する。
自分が権力者の位置にいられる「教室」で、カミングアウトだと?
なんだ、この貧弱な精神は!
この男は最初から最後まで権力との闘争から「逃げる」ことしかしていない。
近代文学の自然主義とは、このような「逃走」の姿勢に支えられていたのだ。
その姿勢が〈俗流フランス現代思想〉に引き継がれたのには必然性がある。
(アカデミズムの思想潮流の力を背景にして、自分はゲイだとカミングアウトするとかね)

しかし、これこそが多くの日本人の姿だと僕は知っている。
こういう自己保身を優先するヒヨった人々によって、権力の不正と戦う人たちが見殺しにされる国なのだ。
そういうことがよくわかっているのに、なぜ僕は戦いをやめないのか?
何度もそう自分に問いかけたことがあるが、
自己保身しかない人間は地球レベルではバカにされる、という思いだった。
僕は日本人である以上に、地球人でありたい。
一度しかない人生なのに、大事なものから目を逸らし、言うべきことも言えないでヒヨったまま人生を終えるなど真っ平だ。
地球レベルで生きていれば、西洋コンプレックスからも自由でいられる。

だいたい、商業文学空間と対決したからって、命まで取られるわけではない。
200近いレビューを一瞬で抹消されたり、くだらない連中に絡まれて嫌がらせをされたり、でっちあげで訴訟をされるくらいはあるわけだが、
その程度の攻撃にすら耐えられない人が多すぎはしないか。
正直に言って、僕は「戦えない」日本人に心底呆れ果てている。
この国に本当の意味での男性はいない。
実際は戦えない男ばかりなのだから、女性より偉そうにしているのはどう考えてもおかしい。
その意味で、僕はこの社会の女性差別が不当だという日本の女性たちの不満に共感する。
しかし、言っては悪いが日本の女性たちも権力とは全然戦えない点では、男性とレベルは変わらない。
要するに、この国から男性という性を無くしてしまえばスッキリするわけだ。

記事の見出しに「内輪性と党派性ばかり」と書いておきながら、全然触れていないことに気がついた。
気の合うママ友グループでかたまって、価値観が合わないママ友グループとは党派的に争うようなものしか、今の商業文学空間には存在しないと言いたかったのだ。
おかげで存在意義をなくした男性たちは、軍事にしがみついて自分が「戦える男」であるかのような偽装をするのに一生懸命だ。
(そういえば女性の尻馬に乗って正義ぶりたがるSNS俳人も、業界の嫌われ者と戦っているかのように偽装するのを、「男の役割(笑)」と勘違いしていた)
しかし、彼らは権力の庇護の下で「戦える男」の顔をするだけであって、権力とは決して戦うことができないのだ。

地球単位で考えたら、この国の「個の精神力」は弱すぎる。

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