汚濁の世など真っ平御免の竹林LIFE
記事内容の全てに賛同できるわけではないけれど、昨今の風潮として、人間の多面性とか言葉の多面性を努めて意識しないようにしているところがあるのではないかとは思う。
どうも、南井三鷹です。
コメントをありがとうございます。
人間や言葉の多面性を「努めて意識しないようにしている」というご意見ですが、解釈が難しい表現ですね。
多面性を意識しないように人々が意識的に努めている、と聞こえますが、
だとすれば、それは本当に「意識的に努力している」主体的行動なのでしょうか。
僕はそれは違うと思います。
「昨今の風潮」とお書きになっているように、
社会的(経済的)な「風潮」の中で、「多面性を意識しないようにさせられている」のです。
多面性を放棄し、あらゆるものを経済という一側面へと従属させる社会風潮に従わされているのです。
簡単に言えば、「経済」に対する文学の敗北です。
自分たちが「経済」に従属させられた敗北者であるという事実から逃げているかぎり、この状況は変えられないでしょう。
広告言語は「経済」の言葉であり、文学の言葉ではありません。
現代の敗北者は傷ついた自己の慰安のために、自己弁護の言葉ばかりを発達させている印象ですが、
真実から逃げない勇気があるなら、商業主義的な出版メディアとそれに依存する書き手が文学の言葉を殺していることがわかるはずです。
あと、わざわざ賛同できない部分があるとお書きになるのなら、
それがどの部分かを明らかにしないのは、双方向的なコミュニケーションを求めないアンフェアな態度にも思えます。
お恥ずかしい話ですが、「広告言語」という言葉を具体的にイメージできなかったため、その言葉の整理から入らさせていただきます。
広告とは、不特定多数の人々に対して取引を促すために行われるものですが、当然、取引を行う事ができる人々に対して向けられます。
(広告を受け取る事自体が、取引として成立しているともいえそうですが、、)
広告を受容することは、自分がその取引を行う事ができる能力を示し、広告を広める事は、その運動によって能力を肯定し、受容の拡大によって広告による承認を再生産したい欲望があると考えました。
(個人的には、欲しいものリスト?がこうした欲望を反映しているのではと思いますが当時は意味がわかりませんでした。)
以上の事から、広告とは、自己の欲望と能力の相互承認を運動によって持続するものであり、「広告言語」とは、承認をめぐる運動の為の道具だと整理しました。
問題点として、これは運動を続けることで維持できるものなので、責任の本質が運動にある事になります。
陳腐なものであっても、運動に適していれば有為であり、意義あるものも運動を妨害すれば無価値であるということになります。
(広告言語が前向きなのは、意味から逃避、あるいは攻撃させるために、その場にとどまることを許さない為であると考えています。)
一見、主体的に能力を示しているつもりでも、承認のために広告を挟んでいる以上、その行為は受動的なものにならざるをえません。
相手が受容を拒否した場合、自分の主体的なモデルが崩壊してしまうので、主体性を保護するために運動を回転させ、相手から被害を受けた受動的な存在であると、主体的に示して見せることで運動を変わらず続けていくのではないかと思います。
まだ詰めが甘いですが「被害者意識の共同体」とは運動を保存する為の代替として、逃避=攻撃を行うためのものではと整理しました。
結局、相手にとっては、広告以上の存在ではなく、人間を置きざりにしたように感じて、悲しくなりました。
南井様は言葉ではなく、発言する相手の立場で選択していると主張しましたが、相手がどれだけの運動(資本、流通)を有するかで、逃避か攻撃かを選択し、それを可能にするメディアによる隔たりによって守られている(認められている)という意識が関係していると受け取りました。
凡庸な理解ですが、文学による言葉とは、そうした運動の不毛を暴き、真実を証明する為のものだと思っています。
その為には、その場にとどまり、観察や思案を重ねていく必要があります。
前述の運動とは相反するものであり、無価値な存在として攻撃の対象となるだけでなく、逃げる事ができません。
だからこそ、相手の攻撃に傷つき、閉じ込められても責任をその身に引き受け、なおその場を譲らない覚悟が必然となります。
文学とは、社会から囚人同然の不適合者と烙印を押された墓碑に刻む言葉であり、ちょこちょこと書き足される電子掲示版の散文ではありません。
だからといって、それを先取りして、「予め」傷ついてみせることについては、南井様には釈迦に説法なお話となるでしょう。
記事の内容とはズレた内容となってしまいましたが、南井様が執筆中のアドルノに関する論稿にも一部通じるものがあると思います。
前編にコメントを投稿するのは少し気が引けたので、こちらにコメント致しました。
論稿を待ちながら、思案をより深めていきます。
ありがとうございました。
どうも、南井三鷹です。
往来市井人さん、刺激的なコメントをありがとうございます。
僕は「広告言語」というものを概念的に定義したことはありませんでした。
「不特定の人々に何かの認知を広める」ために選択された「関心を集める目的を持った言葉」という程度の認識です。
その意味では「相手が受容を拒否した場合、自分の主体的なモデルが崩壊してしまう」という往来市井人さんの定義にはハッとさせられました。
「広告言語」は「人々の関心を集める」のが目的なので、受容を拒否されたら存在価値がなくなります。
「受容を求める」ものであるのは確かでしょう。
ただ、「承認をめぐる運動」とまで言っていいのかは疑問です。
まず、僕の感覚では、広告は「取引を行うことができる人々」にばかり向けられているわけではありません。
取引能力のない貧乏人にも、企業イメージ、商品イメージの向上のためにはたらきかけます。
そのため、広告の受容は受容者の能力承認には役立ちません。
むしろ、広告のモデルは宗教の「布教」において考えられるべきです。
広告活動とは、何をおいても「布教活動」でしかないのです。
「布教」の最大のポイントは、対象とされている人々は「まだ信者ではない」ということです。
広告も同様で、対象とされている人々は「まだその商品を持っていない」人になります。
ある意味それは「外部」に向けられた言語であり、新規顧客の開拓というフロンティアスピリッツに貫かれています。
ある意味では商品購入に至る「命懸けの跳躍」の道を切り拓いていく、先陣の役割です。
だから、「広告言語」は本質的に「受容されない」ことを覚悟しているはずなのです。
「承認をめぐる運動」の道具ではあっても、受容を拒否されたことで相手を攻撃したり、被害意識を持ったりするものではないのです。
要するに、さほど受容を期待しない「広告言語」でしかないもので、「自己の社会的承認」を求めようとするから、筋の通らない被害者意識を持つことになるのです。
文学の言葉や詩の言葉であるなら、最低限自分の実存を賭けた言葉で勝負するべきなのですが、
それを拒否されるのが怖い、という開拓精神のカケラもないヘタレが、
受容をさほど期待しない「広告言語」を用いて、「受容されなくても仕方ないよね」と拒否された時の心理的な逃げ道を作っているのです。
これが広告言語に依存した詩歌の実態です。
受容を拒否される不安しかない人たちなので、広告のフロンティアスピリッツに欠けています。
広告としての勝負すらできないのです。
だから、本当に市場競争にさらされる広告の世界ではなく、
甘っちょろい「趣味的な文学」の世界で、広告の真似事をやっているのです。
僕が考えをまとめていなかったのがいけないのですが、往来市井人さんのおかげで問題がはっきりしました。
「広告言語」そのものが悪いのではなく、文学や詩歌のジャンルで「広告言語」に頼っている書き手のレベルの低さ、精神の弱さが問題なのです。
受容を拒否されることが怖い人たちなので、
結局は商品を流通させる力があるマスメディアにひっついて、商業雑誌に自分の作品をなんとか載せてもらおうということしかやることがありません。
そもそも大きな力に頼らないと「布教」もできない作品を、他の人が読む意味などありません。
その意味で、今の商業雑誌に載っている詩歌のほとんどは、読む価値がありません。
「被害者意識の共同体」は、このようなヘタレが自己を肯定するために開発されたものです。
表現者なら避けられない、受容されない恐怖を克服するために、
自分の書くもののレベルを上げるのではなく、同様の恐怖心を持った人で集まることを優先させただけのことです。
だから、そこには「自己慰安」しかなくなるのです。
「あなたも自分が周囲に受け入れられていない、と感じますよね? そう、私もそうなのです」
最近の文学はこれ以外に内容はありません。
全く幼稚です。
まとめてしまえば、詩歌が「広告言語」に依存しているのは、
自分たちが受容されなかった時に、「そこまで受容を求めている言葉ではないから」と自分に言い訳をするためなのです。
そこには周囲から拒否されようと、自分の思いをぶつけるという強さはありません。
もう文学は、外部の力を頼るヘタレの慰安のためにあるだけになりました。
書いているだけで不愉快になったので、このあたりでやめます。
往来市井人さんが、文学には「相手の攻撃に傷つき、閉じ込められても責任をその身に引き受け、なおその場を譲らない覚悟が必然となります」と書いたことは正しいと思います。
ただ、マスコミ権力を頼った今のヘタレ作者どもに、こんな覚悟を求めるのは不毛でしょう。
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