南井三鷹の竹林独言

汚濁の世など真っ平御免の竹林LIFE

大量生産に従事させられる人々

山梨県富士河口湖町のローソン越しに富士山を撮影することが、外国人観光客に人気らしい。
中国人がSNSにその富士山写真をアップしたところ、多くの人が真似をして写真を撮りにくるようになったとのことだ。
訪れる観光客があまりに多く、身勝手な道路横断や施設侵入が見られたため、
自治体がやむなくそのスポットで富士山撮影ができないように、黒い幕を張る処置をしたというニュースがやっていた。

その処置についてはなんだか大変だな、という感想しかないが、
僕が不思議なのは、どうしてわざわざ観光地に来て同じアングルの写真を撮りたいのか、ということだ。
断っておく必要があると思うが、僕自身は観光に驚くほど興味がないし、普段から写真を撮ることも好きではない。
だから、観光地の「映えスポット」で写真を撮りたい、という欲望に対して、相当に不理解な人間だとは思っている。
しかし、それにしてもよくわからない。
観光地の魅力的な写真を見て、そこに行って実際に見てみたい、という欲望ならわかる。
しかし、実際に見たということを記録に残すために、同じ場所から写真を残さないといけない、と考えるとしたら、それはよくわからないし、
さらにそのコピーのような写真を自分のSNSにアップしたいという欲望がよくわからない。

たとえばYouTubeなどで、アイドルのダンスを完コピして、自分たちでも踊ってみた動画をアップするものがあるが、
この欲望も僕はよくわからないし、実際にその動画を見て面白いと思ったこともない。
子供が一生懸命に大人の真似をしているのを、大人が微笑ましく見るようなものだと言われれば、納得できる気もするが、
自分の子供でもない人で、いい大人と思われる人のモノマネ行動を見るのに、なぜ自分の貴重な時間を費やすのかが僕にはわからない。

もうちょっと学術的な言い方にしよう。
素敵な風景写真を見て、実際にその場に行ってこの目で見てみたい、という欲望は、一回限りのオリジナル体験への欲望だ。
これをベンヤミンの言葉にすれば、「アウラ」の体験ということになる。
しかし、写真の素敵な風景を、同じ場所に行って自分も再現するために撮影したい、という欲望は、突き詰めると「コピーをする欲望」になるだろう。
僕がわからないのは、わざわざ「コピーをする欲望」のためにオリジナルの現場に行くという欲望のあり方なのだ。

コピーするためにオリジナルを探訪する。
結果としてコピーをコピーするのと近似した行為なのに、なぜコピーをコピーしないのか。
そこには著作権の問題があるというのが一つ。
それ以上に重要だと思われるのが、内容がコピーであろうが「それを作った(演じた)のは自分」ということなのだろう。
(実質はコピーなのだから「作った」よりも「演じた」の方が正確だと思う)

その背景にあるのは、「大量生産」を自分個人の所有へと変える消費的な欲望だと推測される。
実際は同様のコピーが大量に存在するのに、それが「自分のもの」であるということで満足を得るあり方だ。
「自分だけ」のものでありながら、「みんなと同じ」でもある。
完全な「個」であることから緩やかに逃走するあり方が、大量生産品の消費行為なのだ。

「自分だけ」の「複製コピー」を求める彼らは、消費行為を楽しんでいるつもりで、情報の「大量生産」つまり広告へと従事させられている。
複製コピー」が積み重なれば、「大量生産」と同様の結果をもたらすからだ。
そのうちの一つを自分で制作し「自分だけの製品」に変えるのは、「大量生産」の中から自分だけのものを所有するという「商品購入=消費」行為の応用編と言える。
レジャーのために観光地を訪れているはずなのに、わざわざ「大量生産」に従事しているということが、僕には奇妙に思えたのだが、
それが消費行為であると考えれば、観光地を訪れた人が「お土産」の消費に勤しむのは何も不思議なことではないのかもしれない。
そして、その消費的な「複製コピー」をSNSなどにアップすれば、それはすなわち巨大な「広告」行為に早変わりする。
ローソンと富士山にとっては世界的な宣伝になるので、全くありがたいことでしかない。

ただ、そのような生活実質が存在しない観光消費行為のために、地元の人々の生活がないがしろにされるということで、黒い幕が張られることになった。
人々は普段の生活から離れるために観光に来るので、観光と生活は(観光業で生活をしている人を除けば)本質的に両立するものではない。
観光が行き過ぎれば、生活に害をもたらすのは必然だ。
そして、それと歩調を合わせるようにして、コピー制作のためにオリジナル体験がないがしろにされていく。
「コンビニ越しの富士山」を撮影しに来た観光客にとって、
その富士山はただの「アイコン」であり、現実の富士山を見る「アウラ」体験ではないからだ。
「アイコン」であれば、それはスマホ上に置かれるのにふさわしいと言えるだろう。

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なるほど

京都学派について適切な批評をして下さりありがとうございます。上記の問題には環境倫理の授業でどうコメントすべきか途方に暮れてましたがヒントを得た気がしました。私的に腑に落ちる批評を何度も見かけますので今後も注視します。

菅原潤さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
菅原潤さん、コメントをいただき、ありがとうございます。

菅原さんの『京都学派』(講談社現代新書)は良書でした。
久々に面白いと思って読んだ本だったので、よく覚えています。
書評だけでなく、他の記事も読んでいただいたのは驚きです。

どこに出しても恥ずかしくないものを書いているつもりですが、
僕は独学の徒なので、記事の内容に問題があるようでしたら、ご教授いただければ幸いです。

せっかくの機会なので、図々しくもお尋ねしますが、
僕はマルクス・ガブリエルの『意味の場』がなかなか翻訳されないことについて、ずっと不思議に思っているのですが、
菅原さんはどうお考えになっていますか?
(もちろん、この質問はスルーしていただいても構いません)

  • 南井三鷹
  • 2024/07/09(Tue.)

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南井三鷹
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