
明治維新以後を日本の「近代」として、江戸と明治で歴史を二分する考え方には、大きな落とし穴がある。
僕がそれを認識したのは、ようやく最近になってからだ。
日本人の多くは、近代化した明治以後と土着的な江戸以前とを分けて考える。
実際、学校教育では、江戸以前のものは「古典」に分類され、明治以後が「現代文」とされてきた。
江戸と明治の間で「認識論的切断」を行なっていると言ってもいいが、
それは確実に間違っている。
日本独特の問題を考えた時に、その原因が江戸時代に確立したシステムにある場合が案外多いからだ。
西山松之助の『芸』を読むと、そのことが確認できる。
江戸時代の「芸道」の姿は、現代の日本社会にも引き継がれている。
この本の扱う「芸道」は多岐にわたっていて、第二章では武芸も扱われている。
江戸天保期に『武術流祖録』という書物があり、ここに剣術のナントカ流という流派が記録されているのだが、
ここに載っているだけでも200を超えた流派がある。
かなりの数だが、全国だと数百にまで膨れ上がるようだ。
どうしてこれほど多くの流派が乱立したのか、その理由を西山がまとめている。
① 実力者から実力者への直接相伝
② 江戸の各藩が閉鎖的で、武力の情報を外部に出さない
③ 平和になって対決の場がなく、実力を確かめる機会がない
①はメディアを介さず、人間同士の直接的な伝達に頼っているということだ。
これには剣術は身体芸であるという事情が大きい。
茶道、花道、香道、義太夫、長歌、三味線などでは、家元が直接の相伝にこだわらず、免許状の発行権だけを握って、間接的な弟子を何万、何百万と集約統制した。
この国では人的直接性より権威による統制の方が有効なのだ。

現代にも引き継がれる最大の問題は③だと思う。
「対決の場」がないというのは、直接にぶつかり合うことがないということだからだ。
(西山は「対決の場」を持ち続けた相撲に流派がないことを③の証明としている)
経済発展を遂げた戦後日本も同じで、バブル以降は表立った意見や思想のぶつかり合いが見られなくなった。
文学や思想の世界では論争どころか、目立った喧嘩もなく、批評さえも不興を買わないように配慮されている。
相手がいない場所で、各々がメディアに向かって自分勝手なことを言うだけとなった。
誰とも直接にぶつかり合わない「世界に一つだけの花」症候群(メディアにおいて欲望されることを競う商品化症候群)は、日本の
抑圧的平和の産物なのだろう。
むしろ身体芸であるはずのスポーツ選手が、「対決の場」を求めて世界に出ていくのは、
「平和」を大義名分とした日本に、実力をぶつけ合うフェアな場がないことの裏返しだと言えるのではないか。
日本では本物の実力よりも、権威や他人からの「評価」や「話題性」ばかりが競われている。
そのルーツは、武芸が形骸化した江戸時代の「抑圧的平和主義」にあるのかもしれない。
武芸の対決の場がなくなると、日本刀の権威化が起こったというのも面白い。
実戦兵器ではなくなった日本刀で、鞘や組紐などの刀装工芸が発達していった。
ここに武装放棄を謳った戦後日本の「ものづくり」のルーツを見ることも可能だ。
また西山は、日本の芸道の相伝に、庶民の「権威へのあこがれ」が重要な役割を果たしたと書いている。
江戸時代には身分制度があり、俗世においては身分の上下が格付けとして存在していたが、
文化的秘伝の相伝を受ければ、他の人々よりも上位に進展し、現実の下層身分から解放を遂げることもできたという。
「身分制の枠内にあって、その枠を無くする」と西山はまとめているが、
庶民が体制の抑圧から脱出するために、芸の権威を求めたことが、芸道の発展に結びついたと言うのだ。
そういうことになると、最初に述べたような秘伝の秘伝たる哲学、秘伝たる本質、そういう姿からはしだいに形式化して、そこに秘伝のもつ社会的な役割、あるいは秘伝のもつ伝授料の経済的な役割といったような形式化の面において、それが独走することになるとか、あるいは芸道において身分の上昇をはかるというために、それが意図的に経済的なものによって買い求められるというような弊害も伴ってくるようなことになるので、秘伝の体系というものは、成立期の純粋な秘伝から、やがていかんともすることのできない形式化してしまった相伝体系ということになり、俳句の俳名とか尺八の竹名とか、いろいろさまざまな問題が社会問題にもなっていくようなことも少なくなかったのである。(西山松之助『芸』)
引用して恐ろしく長い文だと気づいたが、西山が言っていることは、
庶民が自分の社会的地位の上昇のために芸の秘伝を求めたことで、秘伝は内実を失って形式化し、経済的な取引の材料になる、ということだ。
要するに、秘伝そのものより、社会的権威の獲得が目的になってしまうわけだ。
最後の方に俳句の話が出てくるが、最近の文学人にも、実はこのような輩が少なくない。
作品の質よりも自分の社会的地位の上昇にばかり関心があり、やたら出版メディアに売り込みをし、自分の作品の批判や売り込みの批判をされようものなら、嫌がらせに精を出す。
このような輩を出版メディアが必要とする文学界からは、もはや「秘伝の秘伝たる哲学、秘伝たる本質」など完全に消え失せてしまったことがわかるだろう。

西山は秘伝相伝のための家元制度が、血を流す武力革命の代わりに、文化的に身分上昇をもたらす「世俗から救済された別世界」を作り上げた、としている。
僕としては、それが文化的権威による「救済」であることに着目している。
(そして、そこに経済的な側面が強くはたらくことも)
なぜなら、この延長線上に天皇という存在があり、三島由紀夫が求めた「文化概念としての天皇」と無関係とは思えないからだ。
この本で、江戸時代を知ることは、今の日本を知ることだという思いがますます深くなった。