南井三鷹の竹林独言

汚濁の世など真っ平御免の竹林LIFE

政治と封建的イデオロギー

衆議院選挙の投票日が夜逃げでもするかのようにあっという間に決まり、
人々の心の準備ができないうちに選挙が終わりそうな感じだが、僕はその結果に興味はない。
それより政治に対する違和感が強くのしかかるばかりだ。
その違和感とは、日本が経済先進国でありながら、経済合理性のない封建的イデオロギーを守り続けていることにある。
いつまで日本人は「世襲」などの封建的価値観を社会の柱にする気なのだろうか。

日本の封建的イデオロギーを支えているのは「家制度」であり、これが合理性や能力主義を阻害している要因だ。
「家制度」とは、個人よりも所属する居場所である「家=組織」の存続を主体として捉えるような考え方だ。
そこでは組織の「成員」はいても個人というものは存在しない。
「成員」は「家父長」によって統括され、明確な上下関係がある。
本家と分家の上下関係も絶対的で、その上下関係を犯さないことが「秩序」だと信じられている。
日本人の多くがいまだに封建的価値観の中にあるのは、利害的な社会組織まで「家」モデルで構成し、合理性や能力主義を排除してきたからだ。

戦後経済を支えた年功序列や終身雇用システムは、会社や組織を「家」とする上下関係の絶対化と同列横並びの文化を形成した。
親と子の関係をモデルとして、上司と部下の関係が設定され、「家=組織」に対する帰属意識が、契約関係を超えた奉仕を常態化させて「成員」に過剰労働を要求した。
個々の「成員」が持つ家族はもはや分家でしかなく、「家=組織」こそが本家となり、そこには明確な上下関係があった。
当然ながら「家制度」において「家父長」の地位は、世襲によって引き継がれた。
政治家に世襲が多いのは、日本人がこのような「家制度」による封建的イデオロギーを「秩序」だと信じているからなのだ。

残念ながら、21世紀になってからは、もう封建的価値観ではグローバル経済の競争には勝てなくなっている。
しかし、いまだ日本人は「家制度」をはじめとする封建的イデオロギーを「社会秩序」だと信じ込んで、経済合理性も能力主義も拒否し続けている。
アベノミクスが金融政策しかできなかったのは、封建的「社会秩序」の基盤である「家=会社」を経済的自然淘汰からできるかぎり守ろうとしたからだ。
その結果、「親」である企業の延命のために「成員」の生活を苦境に陥れる結果になっている。

安倍晋三を崇拝していた自称「保守」の人たちは、「日本を守る」とか「伝統を尊重する」とか抽象的な発言はするが、
本当のこと──日本の伝統である封建的「家制度」を守りたい──とは言わない。
戦後のアメリカ支配を受け入れている人たちが、「日本」も「伝統」も尊重していないことは明らかだし、
小学生レベルの歴史の知識でも、夫婦同性が日本の「伝統」でも何でもないことがわかるはずだが、
夫婦別姓を選択できるようにするだけで家族が壊れる、とか戸籍が崩壊するとか、
どこの新興宗教の信者なのかと疑うくらい意味不明な思い込みを熱っぽく「布教」している。
家族を重要だと思わない夫婦はほとんどいないのだから、もし本当に夫婦別姓で家族が壊れるなら、そんな選択を誰もがしなくなるだけの話ではないか。



要するに、彼らは家族の絆ではなく「家制度」と家父長的権力を守りたいだけなのだ。
それをマジで言ったらダサさが丸出しになるので、「保守」の人たちが抽象的な言説でごまかすのはよくわかる。
問題なのは、その対抗勢力であるはずの「リベラル」系左派がそのイデオロギーを標的にしないことだ。
彼らはなぜ「保守」勢力が執着しているのが封建的イデオロギーだということを明確にして、そのイデオロギー自体を批判しようとしないのか。

国際的に見て日本で女性の地位が低いのはよく知られているが、とりわけ政治の分野でそうなっているのは、
世襲議員の王国となっている政治こそが、封建的家父長制の拠り所になっているからだ。
しかし、ジェンダーとかフェミニズムの運動に熱心な女性たちも、日本社会に「家」を中心とする封建的価値観が根を張っていることを指摘することは避けている。
制度や社会のイデオロギー批判をしないで、ただ男性の「意識のゆがみ」に文句を言っている低レベルの活動が目につく。
これが僕には不思議だったのだが、何のことはない、ジェンダー系インフルエンサーには大学や企業などで地位を得た人が多く、
「家=組織」を基盤とした封建的システムにうまく適応して成功できた人が多いので、社会システムに対する根本的な不信や問題意識を持っていないのだ。
男性が作ったインフラに依拠して利益を得ている女性に、男性社会を本当に変える気があるものだろうか。
日本のジェンダー活動の多くは、女性の地位を支配層(圧倒的多数が男性)に認めて﹅﹅﹅もらう﹅﹅﹅ことがゴールでしかない。
「自分を承認してほしい」という甘えこそが原動力だから、海外の言説をあてにして男性に文句を言うばかりになる。

なぜ世襲がダメなのか、という議論が出ないのもそのせいだろう。
とりあえず議員の世襲批判はするが、世襲のどこがダメなのかという話がまともにされた場面を目にしたことはない。
日本社会に巣食う封建的イデオロギーについて、誰もが明確にしたくないようなのだ。
はっきり言えば、世襲そのものをイデオロギー的に批判した場合、議員以上に多くの企業が批判を受けなければならなくなる。
(出版マスコミが世襲大好きな体質なのは言うまでもない)
さらに言えば、サブカル作品などは特定の「家」に伝わる特殊能力や特殊職業のような設定が大好きだし、
「転生モノ」では伯爵だの公爵だのと、家柄で差別する設定が平気で共有されている。
「家制度」や封建的価値観を批判すると、「保守」にとどまらず「リベラル」も含めた国民的レベルで、自己批判をしなければならなくなる。
ならば、そこには触れないで、対立軸が明確なところだけで「保守」と「リベラル」がプロレスをしている方が都合がいい。

日本に本当の意味での民主主義が存在しないのは、「家制度」や封建的イデオロギーを維持し続けているからだ。
一国の総理大臣が「家=党組織」内部の票だけで決まるのも、日本らしい現象だと言える。
明治維新は支配階層による体制転換でしかなかったし、戦後民主主義はアメリカ支配によって与えられたものでしかなかった。
つまるところ、「親の立場」にある者から与えられる形で「民主政らしきもの」を実現したのだ。
これでは「家制度」や家父長制が維持されるのは当然だろう。
右だろうが左だろうが、日本人の多くには、このような「親への依存イデオロギー」を批判する気持ちはない。
立憲民主党の野田佳彦が「親ガチャ」にちなんで「国ガチャ」という発言をしたが、実際に国家に親を投影しているのがこの国の人たちの政治感覚なのだろう。
自力で何かを成し遂げるのではなく、依存する対象に自分をなんとかしてもらおう、という態度。
このような依存性が封建的イデオロギーを温存し、個人の自立的志向を阻害している。

戦後日本にとっての「親」とは、言うまでもなくアメリカ合衆国だ。
アメリカによる庇護をあてにする「甘え」こそが、戦後日本の封建的イデオロギーを正当化している。
その意味では日米同盟依存の「保守」勢力と、アメリカに与えられた「民主政らしきもの」を頼るだけの左派「リベラル」は同じ穴のムジナでしかない。
アメリカ左派の真似事しかできない日本の「リベラル」たちは、所詮は親に従う子供でしかないのだ。
「親」に賞賛される孝行息子である大谷翔平の活躍に、国民レベルで熱狂しているようでは、
封建的イデオロギーを唾棄し、アメリカから自立することなど夢のまた夢に終わることだろう。

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なるほど戦後は天皇から安保条約に家制度が変わっただけですね。森喜朗氏が首相時代に国体と安保を同義に用いた発言をした背景が分かりました。

菅原潤さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
菅原さん、コメントありがとうございます。

国体思想では、国民は「天皇の赤子」に位置づけられていたので、
天皇は国民の「親」であり、国体とは「家」のイメージであったと言えるでしょう。
そもそも「八紘一宇」という言葉が、世界を「家」として捉える発想でした。

戦後に国体は保存され、それは日米安保によって保障されているので、
アメリカこそが戦後日本の国体を守る「大黒柱」の位置にあると僕は考えます。
それだとアメリカは「父親」になるので、天皇は「母親」になったのかもしれません。

戦後国体はとっくに夫婦別姓だったのですから、
夫婦別姓への抵抗は、戦後国体の現実否認ということになるのでしょう。

  • 南井三鷹
  • 2024/10/28(Mon.)

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南井三鷹
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文学・思想・メディア論
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     批評を書きます。
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