南井三鷹の竹林独言

汚濁の世など真っ平御免の竹林LIFE

選挙を支配する「被害の物語」

11月の兵庫県知事選挙の結果が全国的な話題になっている。
パワハラ疑惑が浮上し、議会の不信任決議で退職した斎藤元彦知事が、
その後任を決める知事選挙に再び出馬し、当選を果たしたのだ。
民意は議会の決定に反して斎藤を支持したわけだが、「斎藤は利権勢力にハメられた」という陰謀論を語るSNSやネットのインフルエンサーが、選挙結果に影響を及ぼす事態になった、と大手マスコミは総括している。

斎藤が「ハメられた」のが真実かどうかはわからないが、
今の日本の選挙システムで、知事選に当選する人に別の利権勢力がついていないとは考えにくい。
結局は利権と利権の争いなので、「利権と戦うヒーロー」という斎藤像はフィクションだろう。
では、なぜそんな架空の「物語」が現実的な力となったのだろうか。
それは「利権と戦う中で倒れた誠実な人」というエンタメ作品にしか存在しないような人物を、消費文化に慣れきった大衆たちが現実化しようとしたからではないか。

別に兵庫県に限らず、対象をアメリカ大統領選挙を含めた先進各国の選挙にまで拡大してもいいが、
僕の見るところ、現代人の心の拠り所は「被害感情」にあるように思える。
とにかく「誰か」のせいで今の自分の不遇がある、と考えたいらしいのだ。
わかりやすい例で言えば、移民の存在。
ヨーロッパでは「移民がいるから社会が不安化している」と考える人たちが、極右政党の躍進を後押ししている。

ポストモダン社会では、人々に共有されるイデオロギー(大きな物語)が分解され、
消費的な個人のオタク的自己充足(小さな物語)が称揚されていったが、
消費資本主義が行き詰まった今、個人的な「被害感情」を結集する「巨大化した小さな物語」=「強大な悪による被害者個人の﹅﹅﹅物語」が求められている。
自分同様の被害者(とはいえ直接に語り合ったこともない人)とのメデ﹅﹅ィア﹅﹅上の﹅﹅共感に基づく「想像の共同体」が、ポストモダン的なファシズムを準備しているように僕には思えるのだ。

たとえばトランプが生み出した、政界と経済界のエリート結合体である「ディープステート」に政府機関が支配されている、という「被害のトランプ物語」もそうだ。
兵庫県の知事選と同様に、トランプが腐敗した利権連合と戦っているという「巨大化した小さな物語」がそこにはある
今や政治の場面では、「大文字の他者からの被害」を語るポスト﹅﹅﹅モダン﹅﹅﹅的な﹅﹅「巨大化した小さな物語」が大流行しているのだ。
この現象は端的にポストモダン思想の形骸化と言える。



「ネトウヨ的なもの」がポストモダンの価値観から生まれたことは、僕が何度も強調してきたことだ。
「自分たちはマイノリティであり、被害者だ」という認識こそが、「巨大化した小さな物語」として機能している。
兵庫県の知事選では、斎藤の対抗候補が「外国人参政権を推進しようとしている」というデマを流されたが、
この事件を見れば、「(ハメられたという)被害の物語」の支持と「ネトウヨ的なもの」の欲望が結集可能であることが確認できる。
フェミニズムやジェンダーの言説にも、女性はいつも被害者だという「被害の物語」に安直に依拠するものが少なくない。
ポストモダン思想が「近代」に依拠しながら、都合のいい部分だけ「近代」を仮想敵にして成立した「親にパラサイトする反抗的な子供」のポジションだったように、
これら「被害感情」を正義としたポストモダン的な「巨大化した小さな物語」も、仮想敵に強く依存している。
おそらく若い世代の方が「斎藤はハメられた被害者だ」という「被害の個人的な物語」に共感した割合が高いと思うが、
それは若者には高齢者たちから社会的負担を押しつけられているという政治的な「被害感情」があるからだろう。

個人の「被害感情」を結集したポストモダン的な「巨大化した小さな物語」では、それを正当化するために、仮想敵を現実を遥かに超えて強大にする必要が出てくる。
ネトウヨが日教組の影響力を過大評価したり、マスコミ報道も反対デモもみんな左翼や共産主義者の仕業にしたがることや、
頭の悪いフェミニストが社会の男性支配を過大評価して、現代が歴史上最も女性の地位を認めた時代であることを否認し続けていること、
これまでリベラルや民主主義が満足に機能したことがない国なのに、リベラルや民主主義の危機を被害者然として語る人たちも、すべてポストモダン的な現象だと言える。

ポストモダンの末路にあるのは「被害感情」の巨大化でしかなかった。
そして自分たちの「被害感情」を巨大化するためには、仮想敵を過剰なほどに大きくする必要がある。
いつまでたっても自分たちは被害を受けているマイノリティであり、
だからこそ強大な敵に対抗するには、どんなテロ的な手段や言論弾圧を用いても正当防衛なのだ、と彼らは思っている。
そのわかりやすい病理が、「ホロコーストの被害者」を標榜するイスラエルであることは言うまでもない。

僕は対米従属体制に批判的だが、内田樹や白井聡などが対米従属批判をするわりに、そこからの自立政策を具体的に語ろうとしないことにも呆れている。
対米従属から自由になるには、アメリカに肩代わりしてもらっている防衛力を自前で強化する必要があるのだが、それを語らずにごまかしている。
結局は「親にパラサイトしている反抗的な子供」以上のものではない。

ああ、ポストモダン!
責任から「逃走」するポストモダンの価値観では、これが限界なのだ。

なぜポストモダン政治の世界で「陰謀論」が力を持つか。
理由は簡単で、

 ① 自分の被害感情をナルシシズム的に肯定できる
 ② 巨大な敵と戦うエンタメ的な「大きな物語」に酔うことができる
 ③ 被害を訴えているだけなので、その先の社会設計に責任を負わなくてすむ

斎藤やトランプを支持した人たちも、当選させることまでが関心事であって、その先のことなど考えていない。
なぜなら、選挙をエンタメ的な物語にした場合、当選を勝ち取ったらすぐに最終回を迎えるに違いないからだ。
このような「物語に支配された選挙」に行く意味があると僕には思えない。
得てして敵を過大評価し、自分が支持する勢力に対しては無責任というスタンスになるだけだ。
つまるところ、今の有権者の責任意識は、エンタメ映画を消費する観客レベルなのだ。

今述べた僕の見解が、いずれ社会に共有される日も来るだろうが、
それは重大な災禍が巻き起こった後なのではないか、と嫌な予感がよぎる。
いずれにしても、竹林でその成り行きを見守るしかなさそうだ。

コメント

お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字

プロフィール

名前:
南井三鷹
活動:
批評家
関心領域:
文学・思想・メディア論
自己紹介:
     批評を書きます。
     SNS代わりのブログです。

ブログ内検索

最新コメント

[02/22 菅原潤]
[02/22 往来市井人]
[01/13 菅原潤]
[10/18 菅原潤]
[07/07 菅原潤]

カレンダー

02 2025/03 04
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31