汚濁の世など真っ平御免の竹林LIFE
この場で言うことではない様な気もしますが、
南井様の意見を伺いたいと思いました。
ご容赦のほどよろしくお願いいたします。
友人の勧めで共に映画を観てきたのですが、
庵野秀明という名前を載せない方がいいと
思いましたし、内容に疑問を抱きました。
大審問官と逆襲のシャアに関する評論での
応答で南井様は庵野氏が身体性の探究に
腐心していると回答してくださいました。
けれども、今作で描かれてたのは、
常に背筋が伸びきった人間味のない
シャアと、玩具の寄せ集めで戦う
70年代の超合金みたいなガンダムでした。
挙句、ファンネルというニュータイプの
舞台設定の暗部とサイコフレームの共振を
ご都合的に使ってみせたのには、今後の
展開に不安を感じ、肩を落としました。
身体性の表現を求める中でせっかく
ガンダムの舞台を任されたのなら、
こうした作品を作ることは矛盾しています。
(旧態依然としたこの作品を求める
心情の方が問題があるかも知れませんが..)
映像に関しては、古臭いセル画風の背景と
派手なCGのメカのコントラストが、
技術の進歩をひけらかす様で嫌味に感じ、
また、メカと人間の対比を感じづらく、
メカとコックピット内のキャラが
それぞれに閉じこもってしまい、
相互の関係が遊離している様に感じました。
私の意見として、ガンダムの重点は、
ニュータイプという相互理解の理想を孕む
一見中立的なメディアの送受信の差異と
逃げ場の無い戦場とその兵器によって、
身体的である事を許さない世界で
どうしても人間と肉体が示されていくのか
ということだと思います。
(だからこそガンダムには
残酷な現状を超えてでも対話へと向かう
説得力と魅力があるのでしょう。)
私は、シンエヴァンゲリオンを白昼の都市で
恋人二人で終わらせたのが大嫌いですし、
(何の為に種を保管してたんだよ!
コンクリートの肥やしか!)
昨今の作品を素直に面白いと思えません。
庵野氏の目指す身体性とは、
結局、身体性よりも
身体的に見える人造人間みたいな
自然らしさということなのでしょうか?
ならば、映画のシャアに憧れるように
私やみんなは、現状にいち早く適応して
ファンネルを飛ばし合うように
洗練されていくのでしょうね。
人間と対話の雑味が忘れられた頃に、
「逆襲」のシャアが焼き直されそうです。
などと、こんな事を書いてみせる私も、
結局、ガンダムという話題に飛びついて
南井様と繋がりを共有しようと企んでいます。
東浩紀的と自分で書いたのだから
学ぶべきはガンダムの記号ではなく
姿勢です。なので、
これからどう骨身に叩き込んでいけるか
考えて!取り組んでいきます。
それが現状を超え
堅持する意思を育むと強く!信じて。
南井様
お目汚し失礼いたしました。
どうも、南井三鷹です。
往来市井人さん、コメントをありがとうございます。
新作映画の感想をありがとうございました。
忌まわしき「サイコフレーム」が持ち出されていると聞いて、そのセンスだけで観る価値がない作品だと確信を深めました(笑)
たしかに脳波で操作する「ファンネル」はメディア的な兵器で、身体性からの逸脱を示すものですね。
そのため、富野はアムロとシャアのラストバトルを描く時に、序盤での撃ち合いでファンネルを相殺し、モビルスーツの身体的肉弾戦に至るようにしたのでしょう。
『逆襲のシャア』では、アムロのファンネルの反応の敏感さが、「剥き出しの身体」となったケーラ・スゥを見殺しにするという展開が描かれていましたね。
往来市井人さんの言う「ガンダムの重点」には納得しました。
庵野にとっての身体性が「人造人間」のような「フェイク」である、というのもその通りでしょう。
オタクの「フェイク」への欲望は本質的なものだと思います。
フランス現代思想的な「差異=ズラし」への欲望も「現実のフェイクへの置き換え」を加速するものでしたし、
最近のAIブームもその流れにあると言えます。
フェイクへの偏愛という点でも、トランプのような人とポモ的なオタクには共通点があるわけです。
柄谷行人は自分と価値体系を共有しない「他者」や「外部」に向かう思想を展開しましたが、
浅田彰以降の日本の〈俗流フランス現代思想〉は、出版メディアが主導するジャーナリズムに依存した「内向き」のオタク思想でしかなくなりました。
デリダ思想は「文学的な遅れ」を本質としていたのに、ジャーナリスティックなメディアの同時性に依存しまくっていた東浩紀などのデリダ論を評価した日本の思想シーンの知的レベルには、ほとほと失望しました。
デリダが敵視したハイデガー的な「声」は、同時性を象徴するものだったのですが、
東はオタクの「萌え要素」から「声優」という要素を意図的に取り除くことで、「声」の排除を行なった気になっていました。
デリダ理解としては低レベルもいいところなのですが、それを指摘できるフランス現代思想の研究者さえ日本にはいないのです。
僕は戦後日本のことを「パロディ国家」と書きましたが、つまるところ70年代以降の日本は「フェイク」への欲望を正当化するばかりでした。
実質は自己洗脳の世界です。
偽物の価値を高めることで、偽物を本物同様に評価できる、と思い込もうとしました。
(この欲望の上に、二次創作を「シミュラークル」としておきながら肯定するという東浩紀のオタク正当化があります)
自分たちは「西洋列強の一員だ」「成功した名誉白人だ」「キリスト教文化圏の理解者だ」というフェイク・アイデンティティに対する執着は今も変わりません。
自称「保守」とは、このようなフェイク・アイデンティティに執着している連中であり、真実や現実から絶えず逃げ続けている人たちです。
安全保障を建前として、アングロ・サクソン帝国(=AUKUS)の仲間に入りたい欲望を丸出しにしています。
それをごまかすためにインドという中間項を持ち出すのが、日本人のセコいやり口になっています。
(実は富野作品にもキリスト教的な内容をヒンズー・密教的意匠で覆い隠すような、ヒッピー文化的なモチーフが多いことは無視できません)
さすがに「保守」的な荒唐無稽な自己洗脳ができない人は、自分が中間項にあるというポストモダン系のフェイクに執着するようです。
これはポモ的な決定不能性に依拠した曖昧化戦略を正当化する流れで、ジェンダーフリーとかユニセックス系とかもそうですし、政治的無党派とか、匿名の傍観的スタイルとかもそうですが、
結果として村上春樹的な「何者でもない受動的な自己」への偽りの自己愛に行き着くだけのものです。
話が広がりすぎましたが、往来市井人さんの「記号」でなく身体をともなった「姿勢」として思考をするというあり方を僕は支持します。
もう消費やメディアによって自分から逃げる不毛は、終わりにするべきなのです。
原作者の高橋留美子が押井のビューティフル・ドリーマーを認めていなかったことを連想しました。私はうる星やつらをハレンチ学園の再来と見ていたのですが、宮台がこの作品から変わらない日常を生きよと説教じみたことを言っていたことに違和感を覚えていました。最近は注目されてませんが、イリイッチの言う学校化が社会で一段と進んできたように思えます。
どうも、南井三鷹です。
菅原潤さん、コメントをありがとうございます。
押井守監督作の『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』は1984年の作品でしたね。
そこで描かれた、狭い枠の中で現状生活を無限ループ化する欲望は、
まさに最近の「保守」の欲望そのものですが、高橋留美子がこの作品を評価していなかったことについては知りませんでした。
(永井豪『ハレンチ学園』との関連については興味深いご指摘ですが、僕は『マジンガーZ』を読んでその存在を知った程度なので、お話についていけないのが悔しいです)
宮台真司の『終わりなき日常を生きろ』は『エヴァ』放映と同じ1995年。
当時の宮台はニーチェ的な「強度」信奉者だったと記憶していますが、最近はすっかり社会的関係の再構築の方向に宗旨替えしたようです。
まあ、それは社会学者としてはまともだと思いますが。
記憶が曖昧なのですが、イヴァン・イリイチ『脱学校化の社会』も、僕と同じく直接の対話を重視していたような気がします。
学校という枠に依存して、情報として知識を得るだけだと、社会制度という枠に従属するだけの人になってしまうという問題意識だったのではないでしょうか。
(解釈が間違っていたらスミマセン)
オタクにしても自称「保守」にしても、「支配体制にとって都合のいい人たち」でしかありません。
それを自慢する場所がSNSであり、日々「我こそが業界や体制に愛されている」という「神への愛」のパロディ化がさかんに行われています。
あれを見ていると、ネットという「メディア空間」をどうにかしないことには、
現状の日本では革命どころか社会変革さえ不可能だということを悟らないわけにはいきません。
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