
Men willingly believe what they wish.
「人は喜んで自分の望むものを信じる」という古代ローマのユリウス・カエサルの言葉は、「人は見たいものしか見ない」という「
確証バイアス」の説明に用いられたりする。
「確証バイアス」という言葉は認知心理学の用語らしいが、実を言うと僕は心理学というものをかなり信用していない。
心理学は当たり前の現象にもっともらしい名前を与えてカテゴライズに勤しんでいることが多く、
それが心理学を正当化する「確証バイアス」を産んでいるという皮肉がある。
一応説明すれば、「確証バイアス」とは、自分が考えていることを「正しい」と思いたいあまりに、
それを肯定する自己都合の情報ばかりに注目して、偏った「思い込み」を絶対化する心理のことのようだ。
最近だと、SNSで偏った言説を支持する人が多い現象を、「確証バイアス」で説明するケースを目にする。

ネットの現象に関しては、これまた
フィルターバブルとか
エコーチェンバーとか専門的な呼び名が与えられているが、
要するに、人間は「自分と同じ意見」を確認したがるという話であって、鏡に映る自分の姿を確認する幼児的行為の延長と言える。
当然ながらそれが「同じ意見」の集合体による集団的ナルシシズムを形成するわけだが、高度メディア技術がそんなことに利用されているのは虚しいかぎりだ。
しかし個人的な疑問ではあるが、前出のカエサルの言葉を「人は見たいものしか見ない」と解釈するのはどうなのか。
「自分の望むものを信じる」という言葉は、自分に都合のいいことを信じると受け止めることもできるが、
信じるに足るものが複数あることが前提で、その中で自分の望むものを選び取るというニュアンスも読み取れる。
角度を変えれば「自由意志の強さ」を示す面もあるのではないか。
言い方も肯定文ではあるし、何かしら力強いものを受け取ることはできる。
(だから「強者」であるカエサルの言葉とことわっておくと説得力が増すのだ)
しかし、「見たいものしか見ない」という言い方はそもそもが否定文であり、むしろ「見たくないもの」をシャットアウトするような「心弱さ」が中心に居座っている。
心弱い自分の考えを他人たち(集団)に支えてもらうために、「自分と同じ他人の意見」を必要としている状態に思える。
インターネットのフィルターバブルやエコーチェンバーの状態は、まさに集団依存という「心弱さ」によって成立しているのは間違いない。
SNS(とりわけエックス)を見ていると、このような「心弱さ」が溢れていて、
多様性に耐えられない人たちが依存する
単線的権威構造への批判を
黙らせたい人が、
「心弱い」現実の自分を隠しながら、集団化して相手の背中に石を投げるような攻撃を続けている。

ちなみにこのようなセコい発信は、右や左の政治的な立場に関わらず見られる現象だ。
今やエックスは左右を問わず、自分と意見の異なる個人を「黙らせる」ことを目的とする、気味が悪い集団ばかりが目につくようになっている。
個人発信という顔をしながら、それを支えているのが「同じような顔をしている集団」だというのが、SNSというシステムの正体だ。
ここに見られる「集団による個人の収奪」という構造は、メディア論でもっと主題化された方がいい。
だから、現在のインターネット空間を正確に表現するならば、
「人は見たいものしか見ない」ではなく、「人々は見たくないものを
集団的に排除する衝動を抑えられない」と表現すべきだろう。
こうなってしまった一因は、自分にとって不都合で否定的な意見や考えが「提示」されることにさえ耐えられない人々の「心弱さ」にある。
内容の重要性よりも、「心弱さ」を求心力とした数量を価値とするだけの言論空間に、「
先導獣」(古井由吉)以外の
個人の出番はない。
これこそが「数量=価値」を純粋化した言論空間なのだ。
そこでは言説に中身など必要なく、同じようなバカな意見が多数繰り返されるだけで力となる。
このような力に社会が価値を認めていくならば、
他人に理解を求めたり、説得したり、理解のための知性を育てることは急速に萎んでいくことだろう。
今や数頼みで「見たくないもの」を黙らせるのが、最も安上がりで確実な方法なのだ。
ちなみにこういうことを書いていると、僕は売文に勤しむ立命館大学の某教授から同様の攻撃を受けた過去を思い出さずにはいられない。
この男は自分の著書を学問的に批判する人(学者含む)を「黙らせる」ことをやめられない人間で、学者のはずなのに正面から反論をすることもなく、批判レビューを書いた僕への悪口をTwitterで垂れ流して、フォロワーを煽りながら掲載元のAmazonへの通報を繰り返した。
(実際には僕のレビューはAmazonの審査の上で掲載されたものだったのだが)
こういう権威と数量頼みの嫌がらせしかできない人間を、知識人であるかのように扱っている出版社や新聞社などの日本のマスメディアがどのような体質であるか、
数字のためなら問題のあるタレントでも甘やかして起用する、フジテレビの騒動によって理解がしやすくなったと思うので、今更であるが書き残しておく。
「確証バイアス」だか何だか知らないが、実態は「心弱さ」でしかないものを何かの必然として学問的に扱うことには賛成しかねる。
僕の話をすれば、むしろ「自分が見たくない現実」を仕方なく信じることを重視している。
見たくない自分のダメさ、周囲の人のダメさ、この国の愚かさ、この世界の不条理、信じたくない組織や業界の利権と欲深さ、自己保存原理、汚いやり口、また老化や死という無常、身勝手な人殺しや戦争など、
僕はこういうものを見なければいけないと思っているし、認めたくないことを認めた上で、解決へと踏み出すのが「大人」だろうと思う。
「見たいものしか見ない」人は、つまりは社会問題の解決のために骨を折りたくない
フリーライダーなのだ。
彼らが国家に対するフリーライダーとして生活保護や移民を攻撃したがるのは、その人たちくらいしか「
鏡に映った自分
たち」より確実に社会的下位にいる
集団だと思えないからなのだろう。