
近頃の世界の状況を見ていると、人類の地上支配もピークを過ぎたと感じる。
自分自身が老境に近づいているからそう思えるのかもしれないが、
おそらく若い人であっても未来が暗いと感じる人は少なくないだろう。
あえて目につく原因を挙げれば、大量消費による社会劣化、気候変動による自然災害、地域紛争の拡大になるわけだが、
見通しが暗く思えるのは、それらの問題を本気で解決しようという意欲が、我々人類に見られないことにある。
個人的な利害や趣味的な欲望にはやたら前向きだが、社会問題に後ろ向きな人々が増えたのは、
消費資本主義やネット社会による「分散化=個別化」の中で人間形成がなされた必然と言える。
僕は長らく消費資本主義の批判をしてきたが、驚くほど同様の批判をする人はいない。
貧乏でさえなければ、孤独でさえなければ、こういう社会自体には満足している人が多いのだろう。
狭い認識の中で満足をしているので、もはやこの社会や人類という広い視野で問題を考える発想が生まれない。
人類レベルで詐欺に遭っていても、気づくことができない。
実際は環境問題や人間形成を含めて、消費資本主義はもう耐用限界を迎えている。
それらの問題は欲望社会を続けている限りは解決できない。
しかし、消費資本主義や金融資本主義に対する危機意識はちっとも広がっていかない。
もう資本主義で世界を支えるのは無理なのだが、それを受け入れる知性が存在しないということが問題なのだ。
これは人類の知的劣化でしかない。
知的劣化した人類の地上支配は衰退に向かっている。
神を内面化し、自らを神のエージェントに仕立て上げるキリスト教が作り上げた「西洋近代」が、
地上の改良・開発を通じて人類の「生活向上」を実現するために資本主義を発展させていった。
いわば資本主義がキリスト教のエージェントのようになったわけだが、
キリスト教が人間の内面を改良・開発することを目的とするならば、資本主義は人間の生活環境を改良・開発することを主な目的としている。
現実世界を進歩的な虚構と「交換」していく発想が、キリスト教もしくは資本主義の根源的イデオロギーだと言えよう。
そうなると、虚構を生み出し、それを現実化する力こそが、人間独自の力だということになる。
他の生物は、自身を環境に適応させて生存を確保してきたが、
近代以降の人類は、自然を自身に適した環境へと改変して
快適な生存を確保してきた。
しかし、皮肉なことに、人類にとって生活しやすいはずの社会を作ったのに、その社会に適応することが困難なケースは減らなかった。
生存は可能なはずなのに、自ら命を絶つことを考える人々が跡を絶たない。
最近は「適応障害」という病名を耳にするが、そもそも人類が外的環境に適応できなかった存在だということを忘れてはいけない。

ユダヤ・キリスト教を基盤とする資本主義は、自然環境を人類の魂の安息の地(神の国)へと「交換」することを目的としている。
その意味で、資本主義そのものの本質に、自然環境の改変(=自然破壊)が含まれている。
結論を言えば、ユダヤ・キリスト教とその延長にある資本主義に、自然環境との和解や尊重を求めることはできない。
そのイデオロギーにおいてできることは、せいぜい自然環境に対するマイナス面(たとえば二酸化炭素の排出)を改善した、より向上した人為的環境を「開発」するくらいだが、
それで気候変動や自然災害を防ぐことが可能かと言えば、それは現実的ではなかろう。
おそらく、富を持つ人たちだけが、環境問題の悪影響を受けにくい土地に住むという「解決」をめざすだけに終わる。
しかし、それでも食料問題は回避できない。
もはや資本主義の持続は、社会の「持続可能性」を奪っている。
なぜなら、資本主義は「満足」という到達点を奪って、いつまでも不要なものを売って金儲けを続けさせるイデオロギーだからだ。
AIの発展など、市井の人々にとってそれほど重要だろうか。
自動運転などなくても、これまで社会は成立してきた。
人々がもっと助け合えばいくらでも解決できるものを、消費社会は「個別化」を原理とするためにAIに肩代わりさせる、
それで金を儲けることはできるだろうが、人類から何が奪われるか考えたことがあるのだろうか。
もし人類に知恵があるなら、資本主義を見直して別の社会モデルを喫緊に構築する必要があるとわかるはずだ。
しかし、実際はそうならない。
人類は現実を忘却してしまったし、知恵も尊重しなくなった。
社会権力の管理にすっかり慣れてしまい、それに「身を任せる」ことが知恵だと思い込んでいる。
誰かが何とかしてくれる──いや、神が救済してくれる、
そうして思考停止に身を任せたが最後、生存環境が地盤ごと消失していく。

我々が最後に「身を任せる」のは、個別化された棺の中になるわけだが、
それを先取りするのが消費資本主義という宗教の正体だ。
棺に収められたその瞬間に、自分が「早すぎた埋葬」をされていたことに気づくかもしれないが、
お一人用のスペースで上映される転生の夢を覗き見ているうちに、現実世界というものが存在していたことさえ穏やかに忘れ去っていくことだろう。