
本屋に行くと、ハウツー本やノウハウ本、自己啓発書やナントカ入門書の群れが必ず目に入る。
これらのジャンルにニーズがあるのはわかるが、この先の売れ行きはどうなるのだろうか。
というのは、ハウツー系はYouTubeが得意とする分野に思えるからだ。
そのせいなのか、YouTubeやネットで活躍する人に、出版社がハウツー本や入門書を書かせる「悪手」も目立つ。
勢いのあるライバル産業と戦うより、寄りかかって頼ろうとする発想は、いかにも日本的な
平和主義だ。
トップダウンの権威的命令には服従するが、ボトムからのゲリラ抵抗戦を嫌う人たちにとって、
混迷の時代を乗り切るノウハウも、海外や新興勢力から与えられるものだと信じているのだろう。
本当は、そのメンタルこそが「啓発」されるべきものなのだが。
「今の時代」を生き抜くには、まず「今の時代」を知ることが必要だ。
かくして、書籍という「遅れたメディア」が、アップトゥデートの「今の時代」に追いつこうと足掻くことになる。
書籍が情報の速さでネットと戦うなんて、竹槍で爆撃機に挑むようなものだ。
なぜ勝てないフィールドでの勝負にこだわるのか、その商売センスが僕には理解できないのだが、
「今の時代」について語る本には速さが必要になるから、著名人のインスタントな「語り下ろし」や「対談」という形を取らざるをえなくなる。
それに読む価値がないわけではないが、同レベルのものは少し探せばネットで見つかるはずだ。
僕が
植草一秀と
白井聡の対談本『沈む日本 4つの大罪』を買ったのは、どの程度のオピニオンで商業出版のレベルに達するのかを確認したかったからだ。
2024年7月に出たばかりの本だが、内容にタイムラグをあまり感じなかったので、「速さ」の追求に関しては相当がんばっている。
植草にはいろいろとあったが、
野村総研にいた頃の彼の経済センスは個人的に買っていた。
『永続敗戦論』で脚光を浴びた白井には特に優れた印象はないが、日本の対米従属姿勢に反対している人なので、どこまで踏み込んだ発言をするかに興味はあった。
ただ、本質は暇つぶし。
インスタントな本なのだから、こちらもインスタントに読み終えるつもりでいた。
しかし実際に読み始めると、理解に苦しむ部分があるわけでもないのに、なかなかページが進まない。
普通は1日で読み終えられる対談本が、1週間経っても終わらないのだ。
たしかに二人の話はそれほどおもしろくなかったのだが、遅々として進まない原因がイマイチわからない。
なんとなく、僕自身に原因がある気がしたが、ただの夏バテとも思えなかった。
とりあえず、興味を惹いた話を抜粋しよう。
まず、「日本の経団連企業は昔ながらの体育会系」という部分。
植草 生産性上昇につながる技術革新をもたらす根源は、優れた人材の確保です。日本の経団連企業のほとんどが基本的に体育会系です。上の命令に絶対服従が基本で、服従する人だけを上に引き上げる。こういう人事を続けてきた企業が圧倒的に多い。
日本の経済成長を牽引した製造業は諸外国のビジネスモデルをそのまま持ち込んだ上で、そこに改良と改善を施して成功を収めてきた。独創的な創造ではなく、勤勉さ、精密さ、工程の正確さが成長の原動力でした。この時代には、体育会系的な、上からの命令に従い一糸乱れず行動する軍隊組織に近い企業が成功を収める。この方式で成長を遂げたという実績はあるのでしょう。
ところが軍隊方式、体育会系の人事登用システムでは、枠から少しはみだすような才能のある人、尖っているが才能も腕力もある人は弾かれる。企業に求められるものが勤勉さや緻密さではなく、新規の創造に変化すると、こうした企業はどんどん衰退していきます。本当に優秀な人は外に出てしまい、太鼓持ちの社員だけが出世してしまう。それが日本の今の経団連企業の大半になってしまった。(植草一秀 白井聡『沈む日本 4つの大罪』)
植草は日本経団連に属する企業の人材登用の基準が、いまだ会社や上役への
忠誠心だと指摘している。
これは「勤勉さ、精密さ、工程の正確さ」にはつながるが、「独創的な創造」を生み出す土壌にはならない。
このような「体育会系」の人材評価基準では、創造性を重視したデジタル技術革新の時代に適応できず、有能な人材をスポイルしてしまう。
上記の植草の分析には同意するが、この「体育会系」の傾向が、製造業だけにとどまらず、
大学の研究機関やクリエイター産業などの知的分野でも見られることがもっと問題だと思う。
出版社などは、出版産業のやり方に批判的な人を嫌って、知的能力より「使いやすさ」の方を明らかに重視している。
その結果、出版産業で有名になりたいという色気ばかりの、無能な書き手を量産するだけになっている。

もっと問題なのは、「独創的な創造」は日本でも個人レベルで生まれるのだが、それを個人の才能ではなくその個人が属する組織の成果にしてしまうことだ。
仲間内にいる凡人が才能ある個人の「猿真似」をして、中途半端にパクって利用することを組織が歓迎するので、
その創造性は牙を抜かれてしまい、マイルドで受容されやすくなる一方で、社会体制の変革につながることがなくなってしまう。
このような病理を植草が「軍隊方式」と呼んでいることで、ある考えが僕にひらめいた。
つまり、日本社会がこのような「軍隊方式」を手放せないのは、
鎌倉幕府以来の武家政権の伝統から抜けられないからではないのか。
たとえば中国では武官と文官の区別が比較的はっきりと存在している。
「科挙」という人材登用システムでは、武芸の才を一切問わないので、そこで採用されるのは文官に限定される。
しかし、日本の武家政権においては、政権の実務を担当する官僚(=文官)も武家の出身者が担うことになる。
つまりは文官まで軍事組織の一員でしかなくなる。
それなら、どんな知的分野の組織も「体育会系」になるのは必然だろう。
軍事組織においては、戦闘における創造性や技術革新は、組織全体に共有されなければ意味がない。
だから、才能ある個人の独創性は、彼が属する組織集団に共有されて当たり前ということになる。
今でも日本の官僚が国益よりも自分が属する省益を優先するのは、どうしても「家」レベルの軍事組織を単位とした武家の発想から出られないからではないのか。
植草 何もせず現状維持、冬眠したまま。ロスジェネ世代は、就職氷河期に氷河の中に閉じ込められてきたために、環境を破壊しようというより環境に従属するしかないという、ある種の諦観、諦めを身につけているようにも見えます。でもそれは国を滅亡させることにつながるのではないですか。
白井 これはロスジェネに限らないことなんですが、問題はもっと日常生活的なところにあるように思います。ちゃんと「喧嘩しろ」と言いたい。職場をはじめ、そういう生活、生業の現場できちんと喧嘩していない。日本人全体が全然、戦闘精神が足りない。(同上)
ロスジェネ世代というのは、1970年代から80年代半ばに出生した世代のことで、僕も一応はこの世代に分類されるのだが、
彼らが指摘する日本人の「諦観と従順」は、特定の世代の問題ではなく、アメリカに去勢され「オタク化」した日本人の問題として考えるべきものだ。
実際、権力が管理する環境と闘えない「諦観と従順」の傾向は、ロスジェネ世代だけのものではなく、もっと世代が下になるにつれて強まっている。
ちなみに白井聡が「喧嘩しろ」などと説教を垂れることには違和感を抱く。
僕は白井の
『国体論 菊と星条旗』のレビューでこのように書いたことがあるからだ。
このことから、僕は白井の論に根本的な矛盾があると考えざるをえません。
戦後に国体の護持が行われたのなら、日本は「永続敗戦」どころか天皇制の勝利が続いているとするべきですし、
それが不満であるならば、天皇の「お言葉」などを自らの論拠に持ち出すのはおかしいのです。
白井は天皇制と戦う気があるのかないのか、僕はそのあたりを怪しんでいます。(佐野波布一の白井聡『国体論 菊と星条旗』レビューより)

ここで僕が言っている「根本的な矛盾」とは、戦後も日本の「国体」が護持されたと白井が主張していることに関係している。
戦後も戦時国体が継続したのであれば、アメリカは日本の支配体制を倒せなかったのだから、厳密に言えば日本は完敗したわけではない。
対外的には敗戦の体裁を取っているが、最大の戦犯は罰を受けることもなく、国家のコアも維持できた。
占領された当時ならまだしも、経済成長を果たしてG7の一員にまでなった日本を、いまだ敗戦国だと考える理由はない。
つまり、総合的に考えて日本は負けていなかったと「今」思うことは間違いではなくなる。
そうなると、日本人が敗戦を「否認」しているという白井の主張は成り立たない。
実際に負けたと言えない状況になっているのだから、それを「否認」とは言えないのだ。
僕は戦後も国体が維持されたという白井の認識は間違っていないと思うが、だったら日本人は敗戦を「否認」しているという主張とは矛盾をきたす。
僕は、白井の主張が本当に考えるべき問題をごまかすことによって成り立っていると指摘したかったのだ。
本当に考えるべき問題とは、戦後日本が曖昧なかたちで天皇制を残して、アメリカの力で国体を維持し続けていることだ。
そのため、日本の国民主権も民主主義も嘘くさく、アメリカの庇護のもとで世襲制などの封建的価値観がいつまでも残存し続ける。
この事実と喧嘩しなかったら、戦後の対米従属体制の批判をする意味はない。

要するに、僕は白井に「天皇制とちゃんと喧嘩しろ」と言ったわけだが、それ以後も彼はアメリカとも天皇制とも戦う態度を見せていない。
現在それを実行している僕から見れば、白井がヒヨっているだけの「遅れてきた戦後左翼」にしか見えないのも道理だろう。
「喧嘩しろ」と言うのはいいが、何と喧嘩するかは非常に重要な問題だ。
白井には頭の悪い保守勢力などより、体制維持に手を貸している知的エリート(たとえばフランス現代思想やニューレフト系の敗北左翼ども)と喧嘩してもらえないものか。
まあ、早稲田大学総長の二世学者である白井が、本当に武家的な世襲体制と闘えるのか、僕は大いに疑問を持っている。
白井に対して厳しすぎたかもしれないが、そもそも武家体制を長く続けた日本人の戦闘精神が弱いとは僕には思えない。
おそらく血の気の多い人が少なくないはずだし、命知らずの特攻作戦などができたのも、戦闘精神の強さがあってこそではないか。
実際、スポーツにおいては日本は強国に分類できるだろう。
むしろ、その戦闘精神の強さを恐れて、
政治的にそれを発揮させない「去勢システム」を(誰かが)作ったことが問題なのではないか。
戦後の「国体」が自前の軍事力を切り捨てたことを肯定して、日本人の戦闘精神の欠如を批判することは、ちょっと認識が甘いように思える。
植草と白井はこの「諦観と従順」の原因として、「上位下達(上位の命令を下位に徹底させること)」の学校教育を挙げるのだが、
正解を押しつける学校教育に問題があるのは事実だとしても、それを原因にすると必ず教育改革という話に落ち着く。
国民的メンタリティの変革のために教育改革を持ち出す発想に、僕はあまり賛成できない。
精神というのは教育で教え込むものではないからだ。
(というか、教育を原因とする発想自体も「上位下達」の価値観の中にあると言えなくもない)
精神とは、社会環境の中で身体的経験を経て、自ら考える中で自然と身につくものだ。
豊かな社会ではハングリー精神は育ちにくいし、過酷な社会で挫けなければ折れない心が勝手に育つ。
社会の中でそうやって生きる大人の姿を見て、それに憧れた子供が同様の精神を自ら育てていくのではないだろうか。
つまり、上の世代がやりもしなかったことを、下の世代に学校教育だけで植え込もうなど、身勝手も甚だしい。
(これは別に植草と白井に限らず、選挙戦などで政治家が教育改革とか口にする時にも感じるものだ)
まずは上の世代が自ら理想を実行し、下の世代に手本を見せればいいのだ。
たぶん次回に続く。