
現在、2025年7月20日の20時10分を過ぎたところで、参議院選挙の速報番組を見ながらこの記事の一行目を書いている。
どうやら予想通り、与党は大敗、参政党と国民民主党が躍進という結果になりそうだが、
どの党がどれだけ議席を獲得しようが特に興味はない。
僕は妻の投票に付き合って投票所には行ったものの、トイレだけ借りて投票はしなかった。
「現実逃避」の場となった政治不在の選挙に参加する気はない。
MacBookで執筆する手を止めてNHKの選挙速報に目をやると、
自民と立民を比べれば、どうやら自民の方が議席を多く獲得しそうな情勢になっている。
その意味では、有権者が野党第一党を支持し、政権交代を望んだと結論づけることはできない。
おそらく、首相を続投させるか否かは党内政治で決まる流れになるだろう。
今回の参議院選挙で目立って票を伸ばしたのは、参政党と国民民主党で、共に2020年に結成されたばかりの「新興勢力」だ。

最近のアメリカの大統領選を見れば、共和党と民主党が交互に勝利していて、有権者は「現状の体制にNO」という選択をしている。
日本の場合は二大政党でないために、「現状に対するNO」という意思表示が、この前誕生したばかりの「にわか新党」の票を増やす結果を招いたと考えればいい。
これらの「にわか新党」の候補者の資質を、有権者が精査したとはちっとも思えない。
「日本人ファースト」という中身のない「お題目」を繰り返す
腹話術人形のような候補者に、政治的資質があるとは思えないが、
能力が問われない二次創作的な「スーパーフラットな政治」の実現は、ポストモダンによってオタク化した国の末路にふさわしい。
それを支持する動機が
逃走的な「既存の候補者へのNO」であれば、もはや「新しければ誰でもYES」という結果になるのも仕方がないのではないか。
日本維新の会は新鮮味が薄れるにつれて一時期の勢いを失っているし、
都知事選で旋風を起こして注目された石丸伸二も、瞬時に過去の人になってしまった様子。
政治における有権者の「新し物好き」は、いかにも消費的な「新商品選び」の姿勢そのものに見える。
ネットで話題の商品を購入したり、話題の動画をクリックしたりするのと変わらない気持ちで、
「気になる政党」に投票をしているのではないかと僕は想像する。
このような選挙の結果を真剣に分析する価値など、本当にあるのだろうか。

今テレビでやっていたが、NHKの調査では、今回の選挙で「にわか新党」の参政党と国民民主党を最も支持した世代は10代から30代の若者だそうだ。
インターネットが「お友達」になっている世代だと言えば、そうなのかもしれない。
(そう言えばこの前、地元の中華料理屋で「最近はChatGPTと夜中まで話しちゃうんです。絶対に否定するようなことを言ってこないのがいいんですよ」と年配者に力説している若いサラリーマンを見かけた。
ちょっと検索してみたら、
女性誌のサイトでChatGPT にお悩み相談をする記事が出てきた)
たしかに若い世代の方が損をしている社会なので、これまでとは違う選択肢を望む気持ちは切実ではあるだろう。
しかし、その選択先が「既得権保守」の自民党右派(安倍派)の支持勢力を吸収した参政党や国民民主党であるのは、どういうことなのか。
「にわか」の新政党であれば、既得権保守勢力と同じ選択をしている事実を無視できてしまうのだろうか。
おそらく、政策の内容よりもSNSやTikTokなどで「目に入る情報」だけを見ている若い人が多いために、自分が保守勢力の補完をしていることに気づいていないのだろう。
もう日本政治は現実を喪失した。
選挙に対する意見交換が、現実社会よりインターネット上(SNS)で主に展開していることでも、それはハッキリしている。
趣味オタクのメインステージで、政治の意見交換がサブカル的に行われている。
もはやどこの党を支持するかは、趣味の問題でしかないのだろう。
「物価高」が争点とか言うわりに、政治は現実生活を足場にしていないのだ。
実はこの不愉快極まりない参議院選挙の期間に、僕が考えていたことは別のことだ。
参政党の「日本人ファースト」という珍奇な言葉などに代表される「外国人悪玉論」についてだ。
そもそも、かつての自民党右派(安倍派)の支持者が「外国人悪玉論」を掲げていることに、個人的には違和感を禁じえない。
なぜなら、日本で外国人就労者が激増したのは安倍長期政権の時期だからだ。
参政党や国民民主党のコア支持者はもともと自民党右派(安倍派)を支持していて、石破政権になってそこから離れた人たちだと僕は思っているが、
驚くなかれ、実は彼らこそが
外国人就労者を増加させる政策を掲げた安倍晋三を支持していたのだ。
外国人受け入れを拡大した安倍を熱烈に支持していたのに、今になって「日本人ファースト」とか、外国人に日本が乗っ取られるとか、こいつらは何を言っているのか、と僕は思っている。
この支離滅裂、一貫性の欠如は、浅田彰的に「スキゾ・キッズ」などとオシャレに言って済む問題ではなさそうだ。
この事実を口にしないマスコミにも、僕はウンザリしている。

マスコミが繰り返す「物価高」という自然災厄のような言い方についても、僕には違和感がある。
普通、国民生活が苦しくなるほど物価が上がった場合、中央銀行が金利を上げて対応することになっている。
しかし、円安が急激に進んでも日銀は金利を効果的に上げることができていない。
なぜなら、安倍政権と日銀の黒田総裁による異次元の量的緩和政策によって、日銀の中央銀行としての機能が著しく制限されてしまったからだ。
金利だけで「物価高」を解消できるわけではないが、アベノミクスの副作用で「物価高」に対する日銀の対応力が低下していることについて、
安倍に去勢されてしまったマスコミたちはダンマリしているようにしか見えない。
もしかしたら心弱い国民のために、ショッキングな真実を隠しているのかもしれないが、
この「物価高」という言い方に、
大本営発表の影を感じないではいられない。
本当の悪を隠すには、偽の悪を用意するに限る。
ということで、
安倍晋三という悪玉の代わりに、現実には大した力を持っていない「外国人」を悪玉に仕立てているのだ。
これが現実逃避でなくて何だろうか。
現実に向き合えない状況下で、まともな民主政治など行われるわけがないし、選挙など行く価値があると僕には思えない。
まともな人が少しでも歯止めをしなくてはさらに状況が悪くなる、という言い分もわからなくもないが、
そうやって破局を引き延ばすより、さっさと国がおかしくなって破綻した方が、僕が生きているうちに再起の機運が訪れると計算している。
ちなみに「日本人ファースト」という「お題目」は、右でも左でも大流行りの「アイデンティティ政治」の最たるものだ。
もはや日本人は落ちぶれすぎて、「自分は日本人だ」というアイデンティティ以外にしがみつく藁がないようなのだ。
このような「アイデンティティ政治」は、結果的に
宗教に近づくと僕は考えている。

宗教的な「神の意志」に疑問なく従う人は、模範的な信者と見做されるはずだ。
そこでは「従属の度合い」こそが、「信者としてのアイデンティティ」の
身分的価値となる。
天皇のために躊躇なく死ぬことが、靖国の英霊として讃えられることでもわかるとおり、
宗教における「信者としての格付け」は、自己犠牲を厭わぬ「従属精神」によって決まるのだ。
最近の「保守」を自称する政治的右派の人たちは、このような宗教の心理メカニズムに絡め取られている。
(そもそも愛国心というものが、神への愛を模倣した二次創作なのだ)
「日本人の価値」を疑問なく信じる者は、模範的な日本人ということになるし、
そこでは自己犠牲的な国家権力への「従属」こそが、身分や格の高さを証明することになる。
批判をしない人がエライ、というのは、信者内にだけ通用する宗教的な価値観なのだ。
こうなってしまえば、擬似的な教会権力である国家権力にとってはしめたものだ。
自分たちが苦しくなるだけの政策にも、「模範的な日本人」であれば自己犠牲を厭わず従ってくれるようになるからだ。
僕はこのような宗教的な社会が現実化することを危惧している。
今のところ、「アイデンティティ政治」を好む人たちが、「にわか政党」へとグダグダに移動しているので大丈夫だが、
統一的な「日本人ファースト」政党ができて、トランプ政権と似たような現実逃避へと舵を切ると、
結局はそのような政治を支持していた若い人たちが、自己犠牲的な死を求められることになりかねない。
その時、僕は彼らを憐れな被害者だとは思わないだろう。