
先日、夜のテレビニュースをつけたら「
電話恐怖症」が話題になっていた。
オフィスで電話対応をする時など、主に公的な場で見られるようだが、
程度の問題はあるにしても、電話をすることに不安や恐怖を感じること自体は、わりと普通の感性なのではないか。
若い世代ほど電話に対する苦手意識が高い、というアンケートも紹介されていたが、
これも年配者が電話応対の経験──「訓練」──を積んでいるために、苦手意識を持たなくなった結果と考えられる。
つまり、誰だって時に電話は怖いものであるし、「訓練」の賜物でそう感じなくなるだけのことに思えるのだ。
その意味で、「電話が怖い」という感覚自体は理解できるものの、それを「電話恐怖症」という言葉で表現したり、それをマスコミが広めていくことには違和感しかない。
そのニュースとしては、「苦しんでいる人」=「弱者」に寄り添っているつもりなのだろうが、
しかし、本当にその人が「弱者」と言えるのか冷静に判断する必要がある。
たしかに「電話恐怖症」の原因となるカスタマーハラスメント同然の迷惑電話を社会問題化することには価値があると思うが、
電話が怖いという
心理だけを過剰に正当なものとして扱うことには、大いに問題があると言わざるをえない。
当のニュースの中では、仕事の最中に電話があると集中できず「効率が悪い」という意見も紹介されていた。
仮に「効率が悪い」としても、それと「恐怖症」とは直接に関連がない。
あるのは「自分の時間を邪魔される」ことに対する嫌悪感くらいだろう。
こういう異物介入への嫌悪が「電話恐怖症」と結びつくなら、その原因が現代人の自己閉鎖性にあることが窺い知れる。

自己閉鎖性は、メディアに依存した人間によく見られる傾向で、
他人に自分を無防備にさらすオープンな関係を過度に恐れるあまり、メディアを介したコミュニケーションを好むことで生じる。
自分と他人の間にメディアが入ることで、直接的に自分を相手にさらさずに済むし、自己都合を優先して他人とコミュニケーションをすることができる。
たとえばメールやLINEなどで連絡を取り合うなら、自分の都合のいい時に返信できるし、目の前に相手もいないからプレッシャーもない。
自分が発信する内容を確認してから応答することが可能なので、感情的な部分や「本音」が露呈しないように配慮することだってできる。
しかし、電話というメディアの場合は対面性が高く、両者が同じ時間を共有しなければならない。
そのため、ここでは自己本位な閉鎖性は姿を消し、「共同性」へと向かうメディア空間が形成される。
電話を悪者にすることで、他者と共にある「共同性」からの
退隠に拍車がかかることには注意する必要がある。
もちろん、相手が忙しい時にこちらからぶしつけに電話をかけるのは迷惑であり、それなら電話よりメールの方が良い、という相手に配慮した考えもあるだろう。
しかし、このような発想を是とすると、究極的には誰にも話しかけられなくなるのがオチだ。
そんなことは、「普通に生きていれば避けられない迷惑」に分類される。
むしろその「迷惑」に過剰に配慮する人は、いきなり他人に介入されることで「自分の時間」を壊されることを嫌っていて、他人も自分と同じにちがいないと判断しているだけに思える。
この問題は「個の確立」とは何かという問題に帰着する。
日本の近代は、技術面では西洋化したが、西洋的な「個人」を支える内面的・精神的な資質を十分に育てなかった。
だから、一人一人に「個」を支える精神的成熟を求めることなく、メディア技術や密室化などによって物理的に他人を排除することで「個の確立」を図る結果になった。
当然ながら自立した個人が集まって共同性を形成することはできず、共同の場では「個」の自我を殺して集団に合わせなければならない。
そうしていると息がつまるので、他者がいない場や
個人消費の場で「個」を充溢させて息継ぎをする。
だから日本では、21世紀になっても共同の場で「無名の個人」が尊重されることはない。
このような歪んだ近代的自我のあり方が、「電話恐怖症」という現象に結びついていると僕は考えている。
つまり、「電話恐怖」とは、他者の
現前を
過剰に恐れるオタク的現象の一種なのだ。
そのため、「個の確立」に達しないモラトリアムを擁護するだけに終わる懸念がある。
もちろんハラスメント電話に恐怖を感じるケースは社会問題として考えるべきだが、
特に傷つく場面でもないのにやたらと電話を恐れるケースまで、被害であるかのように扱うのはやりすぎではないか。
ただ「必要な我慢ができない人」を「社会的弱者」として扱うことは、逆に社会を崩壊させる結果になりかねない。
自分が思い通りにできない相手との共同の時間を過剰に嫌って、自分本位のコミュニケーションでないと耐えられない人に正当性を与えれば、
共同性から退隠して自分に引きこもる人が増えて、共同の場はただ支配者の求めに従わされる場でしかなくなっていく。
以上で話は終わりだが、「電話恐怖」をオタク的現象と断じたことについて補足したい。
大まかに言って、電話とは音声メディアであり、メールやLINEは基本的に文字メディアだと言える。
「電話恐怖」は同時的な音声コミュニケーションへの嫌悪を背景にしているわけだが、僕は現代思想の形而上学批判に関連させて考えてみたいのだ。
なぜなら、音声の同時性を解体して、時間的な「遅れ」を伴う書き言葉(
エクリチュール)による記号的なコミュニケーションを優位に置こうとしたのが、他でもないジャック・デリダだからだ。

ざっくりとした整理になるが、デリダは『声と現象』(1967年)において、「声」によって成立する
ロゴス中心主義の「現前性」を批判した。
声は「生き生きとした今」の瞬間においてしか現れない──このように、今目の前にある状態を現前と言う。
声という現前を「同一のもの」として反復することで成立する形而上学からは、現在以外の時間が奪われているとデリダは考えた。
デリダ思想の試みは、現前の「同一性」に支えられた形而上学に時間的な「遅れ=ズレ」(
差延)を導入することにあったと僕は解釈している。
問題は「自己触発」にある。
彼の説では、音声コミュニケーションでは同時性が重要になるために、自分が話すと同時にそれを自分でも聞く、という行為の中で同一化の運動を引き起こす。
自己の発声が自己内で同一のものとして反復されるような自己触発の状態がそこにある。
つまり、音声コミュニケーションには自己閉鎖性があると主張していたのだ。
『声と現象』ではフッサールの現象学が取り上げられているので、表面的にはフッサールの話として展開されるが、僕がこの本を読んだ印象では、デリダの真の標的はハイデガーだと感じた。
声による自己触発という問題で、ハイデガーを思い浮かべないわけにはいかないからだ。
デリダが記号の持つ時間性(遅れ)を強調したのは、ハイデガー的な自己触発の純粋性(現前の同一性)を突き崩す意図だったと思う。
しかし、僕はデリダのような哲学的アプローチよりもメディア論的アプローチを信用している。
音声の自己触発の純粋性を崩すものがあるとすれば、現実に目の前で話を聞いている相手がいつでも異論を唱える存在であることが顕になればいいだけのことだ。
わざわざ時間をズラすまでもなく、「それは違うんじゃないか」と言ってくれる人が、目の前にいればいいのではないか。

たとえば
総統が聴衆の前で、マイクやラジオを介して演説をするうちに自己陶酔に陥ってしまうのは、
その関係が非対称的な一対多のマス・コミュニケーションだからだ。
多数に支持される総統の演説に対して、聴衆の一人(個人)が同等の立場で反論ができるわけもない。
むしろメディアを用いた一対多のマス・コミュニケーションこそが、自己触発の純粋性を高める原因だと僕は考えている。
だから、デリダが音声コミュニケーションで提起した問題点は、同時的現前の回避やエクリチュール(文字コミュニケーション)の優越によって解決できるものではない。
対等に反論できる相手と向き合ったコミュニケーションを避けることから来るものなのだ。
とりわけ対面性を欠いたメディア・コミュニケーションがはらむ問題として考えられなくてはならない。
(その意味で、デリダの思想はレヴィナスによって補われるべきなのだ)
しかし、日本のフランス現代思想という消費文化には哲学センスが著しく欠けていて、形而上学的な「根源性」が存在しない国で、フェイクを「
散種」するデリダのエクリチュール論を有り難がっていた。
挙句、「現前の同一性」を保ちながら異和を導入しようとしたデリダ思想を、多神教的な「複数の超越性」(その実態は単なるメディアミックス)に書き換えた東浩紀の半端なメディア論『存在論的、郵便的』(1998年)などが評価される事態となり、
ポストモダン思想が閉鎖的なオタク的感性を育む皮肉な結果にしかならなかった。
東浩紀や千葉雅也の名前を出すまでもなく、日本の現代思想の消費的性向はオタクそのものであり、
異質な他者と向き合うことができず、内輪集団における記号的なコミュニケーションで純粋な自己触発に興じているばかりだ。
音声を避けて記号を用いたとしても、デリダが重視した時間の「遅れ」など、インターネットの前では無力でしかなかったのだ。
本質的にデリダ思想と無関係なデリダ論が賞賛される日本の現代思想とは
ファルス(笑劇)でしかない。
西洋哲学がわからないのは仕方ないにしても、道化が偉そうにして全く笑えないのでは、せっかくの喜劇も台無しだ。
竹林で暮らそう。
笑えない道化芝居を楽しむにはここが最適な環境だ。