南井三鷹の竹林独言

汚濁の世など真っ平御免の竹林LIFE

北野圭介『情報哲学入門』

ここ数年は、新刊をあまり買っていない。
新書もほとんど買わないし、海外文学はわりと買うが日本の小説は全く読まない。
(日本人の手によるフィクションは漫画しか読んでいない)
例外は歴史研究に関する本で、明確に過去からの積み重ねがあるジャンルだけに信頼がおけるのだが、それ以外の新刊はあまりに「ハズレ」が多い。
新刊を買う場合は、翻訳ものか復刊した日本の本ばかりになっている。

講談社メチエの思想系の本も大概は「ハズレ」で間違いない。
あとがきを見ると大抵は編集者に感謝が述べられているので、岩波書店で「思想」の編集をしていた互盛央が切り盛りしていることがわかるのだが、
ソシュールで博論を書いたポストモダン系の人であるのに、岩波で時流を追いかけた思想本を作れなかった後悔があるのか、
大学デビューよろしく、ポストモダン衰退期になって講談社で流行思想に花を咲かせているようにも見える。

そういうわけで、互からの誘いで講談社メチエから出版された北野圭介の『情報哲学入門』もかなり期待していなかったが、目は通す必要があるかと思って読んでみた。
しかし、想像した以上に得るものがなかった。
そんな本で記事を書く必要はないのだが、はっきり言えば、昨今の新刊出版について愚痴を書きたくなったのだ。

本書は海外の情報論をいくつか取り上げて、その内容を紹介するものになっている。
第1章はレイ・カーツワイルやニック・ボストロム、マックス・デグマークの論を取り上げ、
人工知能(AI)が人間を凌駕する未来について軽く触れるが、あっさりと終わる。
第2章は情報と経済について取り上げている。
ショシャナ・ズボフの『監視資本主義』の紹介は興味深かったが、
北野の要約だけだとデジタルを駆使したマーケティング用のデータ収集が、個人の「監視」として機能していることについて書かれていることは想像できるが、
通り一遍の説明でズボフの問題意識がどこにあるかが不明瞭で伝わってこない。
個人的には良い入門書とは、本の説明内容を要約してまとめるよりも、筆者が何を問題として、何を伝えたがっているのかを正確に伝えるものだと思っている。
ズボフはアドルノにも触れているらしく、おそらくズボフの問題意識は個人をターゲットとした広告用データの収集による「個人の抑圧」にあると僕は感じたが、
映画研究が専門らしい北野自身にマーケティング消費社会に対する批判意識が欠けているために、読んでもそこがはっきりしない。
確認するにはズボフの『監視資本主義』を自分で読むほかないと思ったので、すでに図書館で借りた。
これ以上の内容紹介は苦痛なので割愛する。



最近の思想本は、とにかく「入門」とつけて海外の思想家をかいつまんで紹介すればいいと思っている。
「教科書」とか「マニュアル」とか謳っている(本書の帯文もそう)ものも多い。
哲学の本を手引書と称して売ることが、それこそマニュアル化されている。
金儲けにならない学問を嫌う文科省に「監視」されている今の大学は、いわば資本主義の監視下にあると言ってもいい。
その中で金儲けに直結しない哲学が生き残る道を模索すると、「メタ視点で人生の荒波を生き抜くためのマニュアル」になるらしいのだ。
ポストモダン以降、現代思想の役割は単に「現実状況に対してメタ視点を得る」だけのものでしかなくなった。
もちろん、この場合の「メタ視点」は視点以上のものにはならず、現実行動に結びつかない。
つまりは現実逃避の場にしかなっていない。

だから、現代思想から現実逃避のメタ視点を取り除いていくと、オブジェクトレベルの現実(=出版界の金儲け事情)が見えてしまう。
『情報哲学入門』は、いろいろな海外の研究を紹介しているのだが、筆者に統一的なテーマがないために、あちらこちらの本を訪ねるだけの「刊行ツアー」にしかなっていない。
簡単に言えば、まとまりも結論もない断片を集めた本(ポストモダンの王道?)になっているのだが、
これはもちろんポストモダン的な狙いではなく、本の完成度が低いだけでしかない。

もちろん、出来の悪い本など掃いて捨てるほどあるので、それだけでとやかく言う気はない。
問題なのは、そのことを筆者の北野自身が自覚していて、本書の中で何度か言い訳を書いていることなのだ。
こちらは一人前の本として金を払って購入したのだから、読んだ後に言い訳などを語られるのは、非常に迷惑でしかない。
「だったら出版するな!」としか思わない。
本の完成度に関しては力量の問題だと言えるが、言い訳をして出版をするのは明確に倫理意識の問題だと思う。
北野の言い訳は本書のラストにこんな感じで置かれている。
また、第Ⅲ部自体が本書の結論であるし、なんらかの結論を差し出すことが企てられていたわけでもないので、締めくくりにあたって特段のことを記すことはしない。
情報という言葉、もしかすると概念を入り口にして、それをとり囲む多彩な争点をまるごと括って「情報という問い」を掲げ、現代の思想、哲学、議論の少々アクロバティックな見取り図を描くことがひたすら目指された、そういえば言い訳じみた修辞になるかもしれない。
あえていっておけば、第Ⅰ部、第Ⅱ部、第Ⅲ部は、実はさまざまに相照らし合うようにも組み立ててある。あちこち気軽につまみ食いしながら、拾い読みしてモンタージュしながら、読者の生に少しでも役立てていただけるなら、書物としては最上の喜びである。(北野圭介『情報哲学入門』)
このような言い訳は醜悪以外の何物でもない。
自分の書いたものに責任を持って潔く批判を受ける姿勢くらい、なぜできないのか。
結論を出すことが求められず、ただ「問い」を掲げて見取り図を描くだけの本を、帯文で「マニュアル」と称して売っていいものだろうか。
マニュアルとは、それに従ってやれば必ず効果が得られるもののことではないのか。
筆者自身が「つまみ食い」しかしていないのだから、読者も「つまみ食い」しかできないのは当然だが、
それならインターネットで情報を拾うのと何ら変わりがない。
そんなものが読者の生に役立つとしたら、どれだけ読者側の努力を要求しているのか。
最後に来てこんなことを言うのは、図々しいとしか言いようがない。

北野は「あとがき」でも言い訳を繰り返している。
とはいえ、とはいえ、だ。コロナ禍もあって、また学部長職にも就いていた時期だったので、執筆というかタイピングは遅々としたものだった。にもかかわらず、なんとか刊行まで漕ぎつけることができたのはひとえに、冒頭で言及した互さんのおかげである。自身第一級の哲学者として活躍されているわけだが、氏のナビゲーションがなかったらどんな代物になっていたかと思うと、そらおそろしい。(同上)
これを謙遜と受け取ってはいけない。
本書をきちんと読めば、素直な感想だとわかる。
「なんとか刊行に漕ぎつけることができた」ような本でしかないからだ。
コロナ禍の大学で学部長職(ご立派なことで)がどれだけ大変かはわからないが、そんな事情は読者には関係がない。
「そらおそろしい」のは、この本が完成できたのは、編集者の互盛央のナビゲーションのおかげだということだ。
実際には編集者というフィクサーがいて、そいつが本の進み具合をコントロールした上で、こんな支離滅裂な本ができているのだ。
講談社メチエには、互がフッサール現象学を専門とする若手研究者に、メイヤスーやマルクス・ガブリエルについて書かせた本もあった気がする。
いくら2000円程度の廉価だといっても、思想の学術書にこういう「にわか本」などいらない。
文庫でも1500円を超える値段がザラになっている時代に、講談社メチエのような選書路線は中途半端で、もうとっくに役割を終えたのではないか、と僕は思っている。

もう一つ言いたいことがある。
この本の帯にコメントを寄せているのは西垣通と山内志朗なのだが、
この二人は本書の中で北野に論を紹介された人たちであり、共に講談社メチエから著書を出版しているアカデミックな商売人でもある。
完全に「内輪の褒め合い」でしかない印象で、「帯の上でSNS活動をするのはやめてくれ!」と言いたくなる。

これだけ北野を批判したので、真面目なことを言っておく。
はっきり言うと、「情報」という切り口そのものが間違いなのだ。
僕はもうすぐポール・ヴィリリオのメディア論の記事の続きを書くので、そこで情報論を書くことになるが、
あくまで情報論はメディア論の中で処理しなければうまくまとめられない。
北野はメディアと情報との関係をちっとも整理しないで話を始めたので、支離滅裂なことになってしまったのだ。
情報でしかないものは文脈を持たなくてもいい。
つまり、断片であるからこそ情報なのであって、だからこそ真偽がはっきりしない場合が出てくるのだ。
情報論を情報として扱ったら、断片化し支離滅裂になるのは当然のことだ。
本書ではルチアーノ・フロリディの「情報圏インフォスフィア」の概念が取り上げられているが、
僕はたまたまフロリディの本(『第四の革命』)を読んでいたので、それについては多少は知っている。
「インフォスフィア」はメディアと人間、もしくはメディアとメディアの「中間性 in−betweenness」において技術﹅﹅的に﹅﹅成立するものであることをフロリディは最初に言及している。
「中間性」とは媒介項であり、明らかにメディア・テクノロジー論の領域にある。
つまり、北野は『情報哲学入門』の第1章を「メディア技術と情報」という題で書き始めるべきだったのだ。

とりあえず講談社メチエの新刊はもう買わないだろう。

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