汚濁の世など真っ平御免の竹林LIFE
題は、私の自己愛病の表れであり、
厳しい視線を向けることを望みます。
南井様が文学賞に関する疑問を確認し、
新しい方法がないかと思い、
安直に発案したのが題の通りであります。
選ばれることに関して不均衡があるなら、
自分から名乗りを挙げたらどうかと考え、
表彰の順序を逆転させ、点棒を賭ける
ように、自分の作品を予め、表彰台に置き、
その作品に対する賞に、送られた作品と
そうした作品による評価、風潮を
賞のコンセプトとし、賞を受け取る
立場として、例えどんな評価、風潮に
なろうとも是が非でもその賞を
受け取らなければならないという
現実味のない思い付きとなりました。
まず、自分の作品を受賞させたいが為に、
賞を定める人間に対して、作品を送る
人間なんて、物好きしかいません。
この時点で不均衡の解決になっていません。
誰一人集まらなければその程度とも、
いえそうですが、それは知名度を前提とした
権力性に依存していることでもあります。
そうした権力性に依存している以上、
主催者側からの抑圧は当然の帰結であり、
かつての共産圏のように予定調和な
結果に終わるだけでしょう。
そうした人々の矢面に立たれている
南井様にとっては、私の能天気さを、
不快に思われただろうとご察しします。
何よりも、冷静に考えれば、文学賞とは
本来、亡くなられた先駆者を偲んで、
行われるものであり、自己の名声を
現世で叶える為の装置ではありません。
この点は、奇遇にも爺婆の救済に関する
南井様の回答と類似していると思いました。
他にも、批判点を考えれば尽きないですが、
ア・ラ・カジメ文学賞の「予め」という
点に注目し、主題とさせていただきます。
「予定説」など、宗教的な意味も内包する
視野の広い課題となりますが、今回は、
映画、とりわけ1940年代から流行したと
される暗黒映画に関して、視野を絞り、
「フィルムノワールとモダニティ」という
論稿から感じた主観について語ります。
陰鬱な雰囲気が漂い、何処か影のある
主人公が、魅力的なヒロインに誘われて、
事件に半ば受動的に巻き込まれていく
探偵小説やハードボイルドを原題とした
映画作品の総称というのが、
暗黒映画というものとされています。
(断定できないのはその定義自体が
曖昧でその探究のために論稿の
半分を費やしているほどです。
この曖昧さこそが暗黒映画の問題
でもあると、論稿の中で語られます。)
この作品群は元々、第一次大戦後の
フランスで、戦争の経験に支えられた
陰鬱で地下的な作品として、主流に一石を
投じる為に起こったとされています。
しかし、第二次世界大戦が近づくにつれ、
戦争映画や娯楽映画に押されて、
その時期には見られなくなりました。
そうして技術者達はアメリカに渡り、
ハリウッドでB級作品のスタジオに
加わり、映画を作ります。
戦争映画が日常となり、売り上げが落ちた
ハリウッドは新たなジャンルの開拓を
求めましたが、当時は映画の影響を
危険視しており、映倫が今よりも強い
規制を設けていました。
そうした規制に応えながら、人々の
暗い衝動に応えたのが、今現在、
有名となった暗黒映画となります。
着弾の瞬間や流血表現を避け、
現実への悪影響を和らげるために、
告白や回想、探偵小説のように、
事後的な構想にして、光源の陰影を
強調し、登場人物の印象を操作
直接的な性表現を避けるため、
誘惑的ではあるが、何を考えているか
わからず、死の予感を纏った、いわゆる
「ファム・ファタール」を積極的に登場
探偵小説のように、最後は公権力や
友人に明らかになり、事件を認められる
ことで、日常へと回収される結末となる。
そうして、かつて地下的な様相をもった
暗黒映画は、人々の願望を逸脱しない範囲で
保存するために利用されることとなった。
地下的な作品がやがて、探偵小説などの、
サブカルチャーに吸収されるという点にも
興味を惹かれましたか、私がより惹かれた
のは、過去回想の構造や死の予感を纏った
ファム・ファタールの登場によって、
作品が、「予め」死へと向かっていく
ように設定されているという点でした。
予め、という先天的なものによって、
安心して、作品に浸ることができます。
そうして、映画内で行われた陰惨な
事象が既に「なされた」事として、
現実に影響を与えずに消化されます。
なしえなかった衝動をなされた、あるいは
なされなかった救済に変える事。
YOASOBIの出世作「夜に駆ける」の
ように、歌詞に共感せずとも、
なんとなく、聴いてしまうような
そんな既知の力による保存には
現実を希釈してしまうような効果が
あるのではないかと思案しています。
話が逸れますが、以前お話しした
仲人はトップダウンを代表するため
なのはもちろん、野獣と評されていた
自由恋愛と閉鎖的な武家結婚の両方を
保存するための、折衷案として、
普及されたとしています。
(野獣という表現が優性主義へと
繋がるきっかけをつくりました。)
私自身、奇を衒って場を繋ぐことが
あるのですが、そうした保存の精神は
権力性に予め、向かっているのでは
という、いってしまえばコンプレックスが
私のメディア批判の原動力になっています。
純粋に不信感を表明する南井様にとっては
不純だと思われる事でしょう。
けれども、この自己愛を孕んだ
コンプレックスを私自身への、
ア・ラ・カジメ賞に推薦し、
南井様からの評価を受け取ることを望みます。
どうも、南井三鷹です。
往来市井人さん、コメントをありがとうございます。
自己愛との関連で、「ア・ラ・カジメ文学賞」という新たな文学賞の発案を書き込んでいただきました。
選考者の「権威」によって一方的に作品を選ばれるという文学賞の不均衡を、
応募する側が自ら名乗りを上げて、
自分の作品をあらかじめ受賞したものと仮定し、どのような評価も受け入れるという案でした。
ご自分の「自己愛を孕んだコンプレックス」をその賞にふさわしいものとして、僕から評価を受けたいということですが、
往来市井人さんは、「あらかじめ」という姿勢を「暗黒映画」をもとに考察したいようですね。
なるほど、その自己省察の意気は買いましょう。
「暗黒映画」の登場人物が「あらかじめ」死を予定されているように描かれることで、
それが決定された「運命」のように捉えられていく、というのは興味深いですね。
悲惨な出来事が「運命による決定」とされることで、主体的な意志は全て無意味となります。
そうすることで「ズルズルベッタリ」と現実を追認するだけとなり、現実は保存されるとのご指摘です。
丸山眞男はそれを日本の病気として語っています。
すでに成立した現実を絶対化して、それをただ追認する服従の姿勢です。
日本の役人が一度決定したことが不合理でも、それを変えることができないのは、このような病理というか「信仰」に支えらえています。
もちろん、その決定には「権威」(たとえば勅命)の裏付けを必要とします。
簡単にまとめれば、「権威」の決定には従え、という権威への盲目的な信仰です。
丸山はこの態度を自己愛と関連させることはありませんでしたが、
往来市井人さんが感じ取ったように、僕は自己愛保存の問題として捉えています。
現実の保存は、自己愛の保存によってなされるのです。
僕が強調しておきたいのは、このような日本人の権威信仰を打ち破るためには、
ただ形而上的な「信仰」の意義を強調したり、西洋的な信仰心を文学的に輸入するだけでは無意味だということです。
近代天皇制がキリスト教のパロディであることを考えれば、それがどんな事態を引き起こすかは想像できると思います。
自己愛と西洋コンプレックスから、「黄色い白人」になることが素晴らしいと思い込んでいる日本人は多くいます。
そうして醜い現実の変革に手をつけることなく、心理的に救済されて良しとするのです。
今や文学もそのような自己愛保存の道具になっているわけです。
往来市井人さんが南井三鷹から文学賞を受けるのであれば、
単に自分のコンプレックスを示すにとどまらず、その克服にどのような苦闘をしているか、
自らがあがき苦しんでいるプロセスを作品として示していただく必要があります。
僕はその実現を応援しています。
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