南井三鷹の竹林独言

汚濁の世など真っ平御免の竹林LIFE

自己愛メディアの時代

インターネットの普及は、個人単位のメディア発信を手軽にした。
本来、SNSなどの民主的なソーシャルメディアは、権威的な既存マスメディアとぶつかり合う面がある。
たとえばトランプ大統領は、既存マスメディアとやり合うために、Twitterを意図的に利用した。

そのようなトランプのやり方が良かったか悪かったかは別として、
日本ではソーシャルメディアが、既存マスメディアの十分な対抗軸として発展することはなかった。
テレビなどのマスメディアは、嬉々としてソーシャルメディアでバズった話題を取り上げたり、
テレビに協力的なYouTuberなども好んで出演させたりして、気持ち悪いくらいに両者の「一元化」へと向かっていったからだ。
出版業界でもネットで話題になった作品の商品化に力を入れていたし、
結局はネットで成功した人が、既存メディアでも成功者として扱われることになり、あっけなくネットの優位性が確立してしまったように見える。

僕は既存マスメディア業界が、もっとネット文化に対抗できる「専門性」において勝負することを期待していたのだが、
そのような試みはほとんど見られず、どちらも「大衆性」において手を結んで共存しよう、ということで落ち着いてしまったようだ。
結局、既存マスメディアは「権威」を握ることを選んだのだと僕は考えている。
コンテンツの面白さや意義深さはネットやソーシャルメディアに任せて、そこでバズったものに「権威」を付与する役割だけを既存マスメディアが担うという役割分担だ。
こうすることで、大衆性という一元的価値は、揺らぐことなく維持されている。

結果、日本ではインターネットの発信が、既存マスメディアの権威や利権を脅かす状況にはなっていない。
むしろネットと既存メディアが一体化して、多数の支持を得ることが「権威」であるという「民主的な権威主義」というアマルガムを生み出すことになった。
(本当は「消費主義的な権威主義(笑)」としたいところだが)
この「民主的な権威主義」は一見民主的な顔だけはしているが、その民主的なものは「既存の権威」によって価値を保証されているので、
いざという場面では簡単に「既存の権威」に服従する、という性質を持っている。

俳句業界を例にとれば、2022年に行われた第6回芝不器男俳句新人賞で、特別選考委員が差別的な発言をしたことが公になったが、
商業雑誌で執筆する俳人はもちろん、インターネットのSNS俳人も誰一人として「権威」を付与する側にいる選考委員や司会者を批判することはなかった。
普段は文学を愛しているような顔をしていても、いかにメディアに依拠した文芸創作者が、自分が属するコミュニティの「既存の権威」に簡単に屈するかを露わにした出来事だった。



今や日本の自己愛メディアの世界では、多数の支持を得て既存メディアに追認されるものが「権威」だという「民主的な権威主義」に支配されている。
そこで重要なのは、ただ多数の支持を得ることだけなのだ。

では、多数の支持を得るにはどうしたらいいか?
簡単なことだ。
多数の人々が欲望しているものを差し出せばいいのだ。
劣化社会における大衆の欲望とは「自己愛を満たすこと」と相場が決まっている。
こうして、多数の人々の自己愛を満たそうとするコンテンツばかりが、インターネットと既存マスメディアの両方で垂れ流されるようになっている。

個人発信が単に多数の承認を得ることを目的とするようになると、どういうことが起こるだろうか。
自分が所属するコミュニティで、多数に承認されることを求められるようになる。
要するに、業界で「自分の名前」が多くの人に知られることを求める。
しかし自己愛を満たすには、ただ知られるだけでなく、好意的に評価されることも重要だ。
そのためには、「権威」の付与を担っている既存マスメディアに気に入られなければならない。
とりわけ興味深い内容を発信する実力に乏しい人たちは、
既存マスメディアに取り入って「自分の名前」を売ることしかやることがなくなる。

「自分の名前」を売り込んで「権威」にしたい人たちは、根底に自己愛があるので、「多数の共感を獲得できる自己像」を作り出して宣伝しようとする。
こうしてSNSが「自己愛戦争」の戦場と化していった。
自分に都合のいいことだけを発信し、都合の悪いことを隠蔽する。
他人を褒める投稿が関心を呼べば、発信者自身の自己愛も満たされるので、
褒めておけばお互い得をすると算盤を弾いている。
(彼らが批判をするのは、必ず自分のコミュニティ外部の人間に限られる)

結果、コミュニティ内部では「他人に見てほしい面」だけが盛んに宣伝されていくが、
それに慣れてしまうと、「他人に見られたくない面」を隠さずにはいられなくなる。
自己愛に叶う情報かどうかだけが重要になり、事実が軽視されていく。

その傾向が過剰になると、サイコパス的な人間を生み出す危険がある。
メディアで「他人に見られたくない面」をひたすら隠すことに成功したならば、
自分に悪い面は「存在しなかった」と思い込むことさえ可能になる。
そういう極端な人にとっては、自分の悪い面について反省することや間違いを認めることが、不当に自分を貶めることと等しく感じられるはずだ。
当然ながら、自分に反省を迫る人間は、自分を貶める人間としか思えなくなる。
たとえ自分に落ち度があった行為でも、それを批判する人間は自分を貶める悪人なのだ。
ならば、自分への批判を抹消することは、悪を退治する「正義」の行動となる。
自己愛が、批判の抹消を「正義」と認識させる歪んだサイコパスの心理は、こんなものだろう。

自分は誰かを批判してもいいが、誰にも自分を批判させてはならない。
これを「正義」だと思えるのは、既存マスメディアの権威的装置に守られているからでしかない。
だから健全な精神は、こういう堕落した人間にならないために、
自分に問題があった場合は、それを批判してくれる人を伴侶や友人にする。

しかし今の日本は、やたら人々の自己愛を保存することを「正義」としすぎている。
とにかく子供は褒めて伸ばせ、という風潮もそうだ。
「自己肯定感」とかいう言葉も最近やたら聞くようになったが、
それは「とにかく何でも肯定すればいい」ということではないはずだ。
適切な行為が適切に肯定されるからこそ、「自分は適切なことをした」という健全な自己肯定感が育まれる。
何でも肯定される状況が続けば、その人は必ず自分勝手に好き放題をすることになる。
安倍派の議員を見れば明らかだが、なぜ自民党の中でも安倍派に問題が目立つかと言えば、本当はその理由は誰でも知っている。
彼らが権力に守られていた存在だからだ。
テレビや新聞などの既存マスメディアが、安倍首相時代の官邸に威圧されて、批判というものをしなくなったことが影響している。

安倍政権時代の自己肯定感とは、「自分の批判をさせない」ことによって成立していた。
その結果「批判のない世界」で、本当は不適切な行為を不適切だと認識することもできなくなったのだ。
こうやって成立した自己肯定感は、ちっとも健全ではない。
むしろ社会にとって害悪となる可能性が高いだろう。

やたらめったら批判するのは良くないが、適切な批判は社会を良くするものだ。
しかし、安倍長期政権以来、日本の風潮はおかしくなってしまった。
権力の批判をする人は「非国民」──つまりは普通の人間以下の存在──と見なされることが増えた。
これはいわゆるネトウヨ的な人たちのことだが、実は表面上リベラル人権派のフリをしている人の中にも、
ネトウヨ同様の自己愛保存の心理で動いている人がいる。

たとえばSNSで社会的弱者を助ける左派的な運動に共感を示している人が、
自分たちのコミュニティを批判する「部外者」を、普通の人間以下の存在のように扱って平気でいたりするのだ。
恐るべきことに、弱者救済のために権力批判をしているその裏側で、自分は権力を利用して批判を封殺したりもする。
彼らは自分たちのメンタル構造が、ネトウヨと変わらないことに気づいていない。
ただ表面上の「正義活動」に酔いしれて、流通させた自己愛的イメージに満足している。

つまり、自己愛の保存を原理としている人は、政治的右派だろうが左派だろうが性根は変わらないということだ。
自分が批判されない位置に立つために、国家権力に盲従することを選ぶか、ポリコレ的正義のメディア世論に盲従することを選ぶかの違いでしかない。
後者の人々は安倍政権的な自民党政治に批判的な態度を見せていると思うが、
彼らが頼りにしているSNS的なメディア世論は、実は安倍長期政権の官邸権力に全く立ち向かえなかったものでしかない。
(プロレスラー自殺問題に便乗してTwitterの規制を強化したのは総務省や政府だったが、それを援用してつまらないTwitter訴訟をするジャーナリストが左派論客扱いされているとは落ちたものだ)

結局、SNSが形成するメディア世論に依存した左派的メンタリティは、安倍長期政権の中で育まれた「自己愛保存の原理」と争うものではないのだ。
むしろ、右派的な「自己愛保存の原理」を左派に転用したもの、と言えるだろう。
彼らも大きなコミュニティと同一化して、自己愛を救済するという動機を手放してはいない。
左右どちらの方向に進もうが、権力の周囲で集団化する傾向が強まれば、個人個人の発言力は軽んじられていく。
(「他人から嫌われても、個人のスタンスで言うべきことを言う人」というイメージでこの状況に対抗しているネット発信者に、右派保守系の人が目立つのは非常に問題だと思っている)

既存のマスメディアに批判能力がないのは、社会の健全化より社会の自己愛保存を優先したからだと思う。
そうして互いに互いを白々しく褒め合う、批判もなければ成長もない、下降するだけの社会になった。
それは権力に取り入る人間ばかりが、良い目を見る社会でもある。
個人の力が薄められて、右でも左でも「権威」への同一化ばかりが行われるようになると、ファシズムはもう目の前ということになる。

さあ、もう竹林に帰る時間だ。

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ア・ラ・カジメ文学賞

題は、私の自己愛病の表れであり、
厳しい視線を向けることを望みます。
南井様が文学賞に関する疑問を確認し、
新しい方法がないかと思い、
安直に発案したのが題の通りであります。

選ばれることに関して不均衡があるなら、
自分から名乗りを挙げたらどうかと考え、
表彰の順序を逆転させ、点棒を賭ける
ように、自分の作品を予め、表彰台に置き、
その作品に対する賞に、送られた作品と
そうした作品による評価、風潮を
賞のコンセプトとし、賞を受け取る
立場として、例えどんな評価、風潮に
なろうとも是が非でもその賞を
受け取らなければならないという
現実味のない思い付きとなりました。

まず、自分の作品を受賞させたいが為に、
賞を定める人間に対して、作品を送る
人間なんて、物好きしかいません。
この時点で不均衡の解決になっていません。
誰一人集まらなければその程度とも、
いえそうですが、それは知名度を前提とした
権力性に依存していることでもあります。

そうした権力性に依存している以上、
主催者側からの抑圧は当然の帰結であり、
かつての共産圏のように予定調和な
結果に終わるだけでしょう。
そうした人々の矢面に立たれている
南井様にとっては、私の能天気さを、
不快に思われただろうとご察しします。

何よりも、冷静に考えれば、文学賞とは
本来、亡くなられた先駆者を偲んで、
行われるものであり、自己の名声を
現世で叶える為の装置ではありません。
この点は、奇遇にも爺婆の救済に関する
南井様の回答と類似していると思いました。

他にも、批判点を考えれば尽きないですが、
ア・ラ・カジメ文学賞の「予め」という
点に注目し、主題とさせていただきます。

「予定説」など、宗教的な意味も内包する
視野の広い課題となりますが、今回は、
映画、とりわけ1940年代から流行したと
される暗黒映画に関して、視野を絞り、
「フィルムノワールとモダニティ」という
論稿から感じた主観について語ります。

陰鬱な雰囲気が漂い、何処か影のある
主人公が、魅力的なヒロインに誘われて、
事件に半ば受動的に巻き込まれていく
探偵小説やハードボイルドを原題とした
映画作品の総称というのが、
暗黒映画というものとされています。
(断定できないのはその定義自体が
曖昧でその探究のために論稿の
半分を費やしているほどです。
この曖昧さこそが暗黒映画の問題
でもあると、論稿の中で語られます。)

この作品群は元々、第一次大戦後の
フランスで、戦争の経験に支えられた
陰鬱で地下的な作品として、主流に一石を
投じる為に起こったとされています。

しかし、第二次世界大戦が近づくにつれ、
戦争映画や娯楽映画に押されて、
その時期には見られなくなりました。

そうして技術者達はアメリカに渡り、
ハリウッドでB級作品のスタジオに
加わり、映画を作ります。

戦争映画が日常となり、売り上げが落ちた
ハリウッドは新たなジャンルの開拓を
求めましたが、当時は映画の影響を
危険視しており、映倫が今よりも強い
規制を設けていました。

そうした規制に応えながら、人々の
暗い衝動に応えたのが、今現在、
有名となった暗黒映画となります。

着弾の瞬間や流血表現を避け、
現実への悪影響を和らげるために、
告白や回想、探偵小説のように、
事後的な構想にして、光源の陰影を
強調し、登場人物の印象を操作

直接的な性表現を避けるため、
誘惑的ではあるが、何を考えているか
わからず、死の予感を纏った、いわゆる
「ファム・ファタール」を積極的に登場

探偵小説のように、最後は公権力や
友人に明らかになり、事件を認められる
ことで、日常へと回収される結末となる。

そうして、かつて地下的な様相をもった
暗黒映画は、人々の願望を逸脱しない範囲で
保存するために利用されることとなった。

地下的な作品がやがて、探偵小説などの、
サブカルチャーに吸収されるという点にも
興味を惹かれましたか、私がより惹かれた
のは、過去回想の構造や死の予感を纏った
ファム・ファタールの登場によって、
作品が、「予め」死へと向かっていく
ように設定されているという点でした。

予め、という先天的なものによって、
安心して、作品に浸ることができます。
そうして、映画内で行われた陰惨な
事象が既に「なされた」事として、
現実に影響を与えずに消化されます。

なしえなかった衝動をなされた、あるいは
なされなかった救済に変える事。

YOASOBIの出世作「夜に駆ける」の
ように、歌詞に共感せずとも、
なんとなく、聴いてしまうような
そんな既知の力による保存には
現実を希釈してしまうような効果が
あるのではないかと思案しています。

話が逸れますが、以前お話しした
仲人はトップダウンを代表するため
なのはもちろん、野獣と評されていた
自由恋愛と閉鎖的な武家結婚の両方を
保存するための、折衷案として、
普及されたとしています。
(野獣という表現が優性主義へと
繋がるきっかけをつくりました。)

私自身、奇を衒って場を繋ぐことが
あるのですが、そうした保存の精神は
権力性に予め、向かっているのでは
という、いってしまえばコンプレックスが
私のメディア批判の原動力になっています。

純粋に不信感を表明する南井様にとっては
不純だと思われる事でしょう。
けれども、この自己愛を孕んだ
コンプレックスを私自身への、
ア・ラ・カジメ賞に推薦し、
南井様からの評価を受け取ることを望みます。







往来市井人さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
往来市井人さん、コメントをありがとうございます。

自己愛との関連で、「ア・ラ・カジメ文学賞」という新たな文学賞の発案を書き込んでいただきました。
選考者の「権威」によって一方的に作品を選ばれるという文学賞の不均衡を、
応募する側が自ら名乗りを上げて、
自分の作品をあらかじめ受賞したものと仮定し、どのような評価も受け入れるという案でした。

ご自分の「自己愛を孕んだコンプレックス」をその賞にふさわしいものとして、僕から評価を受けたいということですが、
往来市井人さんは、「あらかじめ」という姿勢を「暗黒映画」をもとに考察したいようですね。
なるほど、その自己省察の意気は買いましょう。

「暗黒映画」の登場人物が「あらかじめ」死を予定されているように描かれることで、
それが決定された「運命」のように捉えられていく、というのは興味深いですね。
悲惨な出来事が「運命による決定」とされることで、主体的な意志は全て無意味となります。
そうすることで「ズルズルベッタリ」と現実を追認するだけとなり、現実は保存されるとのご指摘です。

丸山眞男はそれを日本の病気として語っています。
すでに成立した現実を絶対化して、それをただ追認する服従の姿勢です。
日本の役人が一度決定したことが不合理でも、それを変えることができないのは、このような病理というか「信仰」に支えらえています。
もちろん、その決定には「権威」(たとえば勅命)の裏付けを必要とします。
簡単にまとめれば、「権威」の決定には従え、という権威への盲目的な信仰です。

丸山はこの態度を自己愛と関連させることはありませんでしたが、
往来市井人さんが感じ取ったように、僕は自己愛保存の問題として捉えています。
現実の保存は、自己愛の保存によってなされるのです。
僕が強調しておきたいのは、このような日本人の権威信仰を打ち破るためには、
ただ形而上的な「信仰」の意義を強調したり、西洋的な信仰心を文学的に輸入するだけでは無意味だということです。
近代天皇制がキリスト教のパロディであることを考えれば、それがどんな事態を引き起こすかは想像できると思います。

自己愛と西洋コンプレックスから、「黄色い白人」になることが素晴らしいと思い込んでいる日本人は多くいます。
そうして醜い現実の変革に手をつけることなく、心理的に救済されて良しとするのです。
今や文学もそのような自己愛保存の道具になっているわけです。

往来市井人さんが南井三鷹から文学賞を受けるのであれば、
単に自分のコンプレックスを示すにとどまらず、その克服にどのような苦闘をしているか、
自らがあがき苦しんでいるプロセスを作品として示していただく必要があります。
僕はその実現を応援しています。

  • 南井三鷹
  • 2024/04/05(Fri.)

プロフィール

名前:
南井三鷹
活動:
批評家
関心領域:
文学・思想・メディア論
自己紹介:
     批評を書きます。
     SNS代わりのブログです。

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