汚濁の世など真っ平御免の竹林LIFE
初めまして。南井さんの今回のブログを拝見致しまして、思ったことを書いてみます。あくまで一個人のコメントに過ぎないものなので、見逃しても構いません。
ここのところ、創作者を名乗る者たちの風潮として、「自分が面白いと思うものをいかに表現するか」ということが(主にSNSにおいて)強調されているように思います。つまり創作者が、「自分の価値観が何より大事」と、自らを保護する方便をしきりに用いているということです。それは、作品が世に出て有名になり売れることの、一つのアンチテーゼとして語られているようですが、自分のありのままを承認して欲しいという現代の創作者の甘えにも、私には聞こえてきます。要するに彼らは、自己の思想(お気持ち)を誰かに認めて欲しいがためにものを書いているのであり、あわよくばその自己の思想が保護されることを願っているのです(それが国家を介するにせよ市場を介するにせよ)。
こうした思想(及び思想集団・民族)の承認、及び保護は、平たくいえば政治の仕事です。つまり国家が国家として、或いは市場を介して思想を承認・保護する役割を担っています。こうなると、思想を有する者(創作者)はその承認・保護を勝ち取るためにものを書いているということになるのですが、そうなると現代の創作者の一部で起こっている反体制ムーブに説明がつかないように思われます。しかしそれも、いわゆる自分たちが「シャドーキャビネット」であると自負しているのだと考えれば、説明がつきます。つまり現代の創作者は、創作者を名乗っておきながら政治が自分たちの味方であることを信じて止まないのです。(過去の時代の創作者たちは、おそらくは、自らの精神を脅かす敵としての政治と対峙していたはずです)
閑話休題。現代の創作者は「売れる」ことより、「刺さる」ことを望んでいます。「売れる」ということは、売れるなりの努力(がむしゃらに働く)が必要です。いわゆる古き良き日本の労働スタイルを思い浮かべれば分かると思います。それに対して、「刺さる」というのは、自らの価値観に対する「共感者」を意識した言い方です。共感さえしてくれる人がいればそれで良い。そしてそれが多いに越したことはない。そこにがむしゃらな努力は必要なく、必要な努力を満たしさえすれば、あとは「共感者」に取り入って世渡りができるようになる。これこそが、思想の承認・保護の内幕なのです。
さて、南井さんは「自意識の打破」を仰っていましたが、私としては、むしろ政治を打破することが、文学に与えられた役割だと思っています。政治によって保護された温室育ちの思想の檻を破り、寒空の下に放り出すことで、政治に頼らない自決の精神が養われるのだと考えています。自決もまた政治と言われるかもしれませんが、私が想定しているのは、神に仕える絶対的な精神そのものとしての自己であり、或いは集団であります。自分自身の人生を自身の手によって仕舞うこと、その物語が誰の手によっても書き換えられないことが自決の条件なのです。自己存在を誰にも明け渡すことのない一幕の歴史として語り続けること、これが「詩」であり、自らの「格」であり、そして政治というネットワークを打破する文学なのです。
熱くなりましてすいません。一つの意見として聞いて下されば幸いです。
どうも、南井三鷹です。
イチコさん、熱いコメント大歓迎ですので、お気軽にご意見をお書きください。
最近の創作者を分析するイチコさんの手際には、なるほどと感じました。
「創作者自身が面白いと思うもの」=「自分の価値観」を表現して、
それが社会的に承認されることで、自分自身が「保護」されることを求めている、という整理ですよね。
自分自身を「保護」することが、創作者の動機だという指摘は、
やたらに自分の表現や作品を「社会」「市場」に売り込もうとする創作者には、バッチリ当てはまることでしょう。
僕はかねてから、日本人には「自己保身」と「自己享楽」しか価値観がないのではないか、と疑っているので、
イチコさんの分析は、非常によくわかる話でした。
そうなると、彼ら創作者を承認・保護する役割は、国家や市場の政治経済的イデオロギーが握っていることになりますね。
イチコさんは、その政治経済的イデオロギーを「政治」と呼んでいますね。
だから「政治の打破」こそが文学の役割だとするわけですが、僕の解釈はあっていますか?
イチコさんの「政治」という語彙を、僕なりに一般化してみますと「政治経済の体制的イデオロギー」となります。
それは一般的には「グローバル政治経済」であり、アメリカ従属の視野を捨てれば、「アングロ=サクソン的・キリスト教的な西洋イデオロギー」であることが見えてくるでしょう。
イチコさんが「反体制ムーブ」と呼ぶものが、どういうものを言うのか僕はちゃんと把握できていませんが、
おそらく斎藤幸平みたいに「自己保身」を確保した上で、口先だけ「反体制」風の主張をするようなあり方ではないかと思います。
もしそうなら、そういう「反体制ムーブ」も所詮は、「西洋左派的イデオロギー」を模倣したものでしかないはずです。
それは大きく見れば、体制イデオロギーの別ルートでしかなく、つまりは右も左もどちらも根っこは同じという悲しき敗戦国の真実に突き当たるものでしかありません。
イチコさんの「政治に頼らない自決の精神」が重要だという主張には驚きました。
この甘えの国で、そういうことを考える人がいることに不意を突かれたのです。
ただ、「政治の打破」を個人レベルに落とすと「自意識の打破」になると僕は思っています。
「自意識」とは、「他人が自分をどう思っているか」ということを自分で内面化する意識のことだからです。
たとえば、日本は女性の地位が低いという話をする時にも、国際的に見て何位だとか、どこより遅れているとか、そんな価値観でやっていますよね。
要するに、周囲からどう思われているか、ということが原動力であって、
周りが何も言わなくても、自分自身で問題だから変えよう、ということではないわけです。
周囲から責められなければ、問題が存在しないかのように思う日本人が多いですが、
これは全て「自意識」を基準にした世界観で生きているからです。
世間という人的ネットワークを超越する倫理基準を持たず、あくまで周囲がどう思っているかを内面化して、その相対性を基準とするだけ。
それが超越的な神を持たない「俗」に生きる日本人の姿です。
人々が褒めているものは素晴らしく、人々が関心を持たないものには価値がない。
悪い行為をしても地位がある人ならセーフで、地位がなければアウトになる日本の相対性は、そこから来ています。
「自分の人生を自身の手によって仕舞うこと」とありましたね。
なかなか刺激的な書き方で、僕は非常に興味深く読みました。
日本の常識からすれば「イカれている」かのような反骨心が、僕のアドレナリンを刺激します。
そうこなくっちゃ、という感じです。
たとえ読者(または消費者)がいなくても文学や詩は存在する、と僕は思います。
いや、むしろそういう作品にしか、もう神は興味を持たないのではないでしょうか。
文学は文学の手によって仕舞われる必要があるのです。
「刺さる」と「共感」の話をすると長くなりそうなので、ここで一旦やめておきます(笑)
非常に面白いコメント、楽しませていただきました。
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