南井三鷹の竹林独言

汚濁の世など真っ平御免の竹林LIFE

石川丈山「時俗」

この前、石川丈山の「富士山」という漢詩について書いたが、
その後、近世文学研究者の中村幸彦の著述集を読んでいたら、思いがけず「石川丈山の詩論」という論文にぶつかった。
丈山はもともと三河武士で、徳川家康に仕えた人だ。
大坂夏の陣では戦場を駆け巡っていたが、50代になって京都に移住し、
洛北の一乗寺に「詩仙堂」を建てて、隠居生活を30年近く続けたので、中村は「隠詩人」と書いている。
とはいえ、権力者に近侍した人だけに、当時の漢籍を数多く読むことは可能だっただろう。

「詩仙堂」というのは通称で、本当は「凹凸おうとつ」と丈山は名づけたらしいが、
読みにくいからなのか、中村の論には詩仙堂としか書かれていない。
中心部の四方の壁に、丈山が林羅山と共に選んだ中国の詩人36人の肖像画(狩野探幽の画)が飾られていることが、その名の由来だ。
現在も詩仙堂は残っているので、いつか京都を訪ねる機会があれば見てみたい。

中村幸彦の「石川丈山の詩論」は、丈山が中国の詩論からどのような影響を受けて、自らの詩観を形成したかを明らかにしている。
これによると、丈山は盛唐期、とりわけ杜甫の詩を高く評価して、宋の時代(中世)の詩は取らなかった。
「宋ニ到リテ東坡山谷簡斎陳師道。イヅレモ上品ナレトモ解シエヌコト多シ。詩ハ盛唐ヲ学フガヨキゾ」(『北山紀聞』巻一)と、
丈山は宋の詩人の博学や品格を認めつつも、儒教や禅宗を踏まえた思想性をあまり好んでいたようには見えない。
とはいえ、白居易の影響が濃い晩唐の詩については、俗っぽくなりすぎて手本に向かないと手厳しい。

丈山にとっては、日本の詩も同じように「俗体」に見えていたようだ。
「日本ノ詩ハ、古今ノ間、雅俗ノ穿鑿ナド無之ニヨリテ、大半俗体ノ詩多シ、詩ニ瑕疵余多アレドモ、第一ノ嫌モノハ俗体也」(『詩法正義』)とある。
とりわけ日本では、中国のように漢詩が役人試験に必須とされていたわけではないので、
中国の詩風を模倣して満足するものが多く、丈山には詩壇が堕落して見えた。
『江戸漢詩選 上』所収の「時俗」という七言絶句には、そんな丈山の世の中への不満を読み取ることができる。


  

  時俗

 慝怨包羞欲利身    うらみかくはじを包みて 身を利せんと欲し
 紛紛詐術蔑儀秦    紛紛ふんぷんたる詐術 儀秦をないがしろにす
 世間何物誇栄曜    世間 何物か 栄曜に誇る
 若不夸毗儓儗人    夸毗こひにあらずんばたいの人



怨恨や羞恥の感情を隠し、求めるは自分の利益ばかり。
そんな詐術が世に入り乱れ、張儀や蘇秦も形無し。
世間で栄華を誇ろうが、だから何なのか。
媚びへつらう人か、愚かな人しかいないではないか。

こんな感じで解釈してみたが、
「儀秦」とは、戦国時代の縦横家として有名な張儀ちょうぎしんのことで、
蘇秦は強国の秦に他国が集団で対抗する「合従がっしょう」の策を、張儀は各国が秦と結びつく「連衡れんこう」の策を唱えた。
この例から判断すると、ここで丈山が語る「詐術」とは、集団化して力を求めたり強者に取り入ったりする政治的な人脈形成術のことに思える。
詩仙堂の隠者として清廉な詩境にあった丈山からすれば、
出世のために媚びへつらう人は、愚か者とそう変わりなく見えたことだろう。
一見、文人のような顔をしていても、自分の利益にしか興味がない人がどれだけ多いことか。

僕はこの漢詩を読んで、詩的芸術性を追求する人が俗物を嫌うのは、いつの世も同じだな、と感じた。
中国のように詩的能力が、国家官僚の資質として求められている国なら、
詩を書くことが天下国家へと直接的に結びついている実感が持てるだろう。
しかし、日本のように詩的能力が、政治の世界でも日常生活でも必要とされていない国では、
詩を書くこと自体に有用性が感じられず、作者﹅﹅として﹅﹅﹅権力者や世間に認められることに齷齪あくせくすることになりがちだ。
文筆で世間の評判を得ようとよこしまな心が起こると、おのずと視野が世俗的流行に狭められて、読者に媚びるようになるので、
たいてい時間が経つと読む価値がない作品にしかならなくなるのだ。

中村幸彦の「石川丈山の詩論」に戻るが、
丈山が求めたのは「日常性の打破」だと中村は言っている。
ここで重要なのは、「打破」は「逃避」と大きく異なるということだ。
日常に依拠しながら、それを言葉で加工したりズラしたりしても、現実逃避にしかならない。
「打破」には日常を支える現実の重みに、対峙しうる強い信念と世界像が必要になる。

たとえば最近のサブカルチャーは、日常から乖離した「異世界」を描くのが常だが、
これは明らかに「新しい日常性」の形成でしかない。
かつて自然の景物に見出された日常性が、アニメやマンガのロールプレイングゲーム的世界やロボットアニメの世界、ディズニー的世界の景物に見出されているだけのことなのだ。

丈山にとって「俗」と対立する概念は、非日常への逃避ではなく「雅」であった。
だから、俗に落ちない詩とは、風雅な世界の実現でなくてはならなかった。



では、「日常性=俗」を打破する風雅な詩には、どんな特質が必要なのだろうか。
丈山の主張するところでは、次の三つになる。

 ① 新奇
 ② 格
 ③ 情の重視

新奇を求めるのは、「日常性」が既存のものの踏襲と捉えられているからだ。
もちろん、これは表面的な新しさではなく、内容の深さを要求するものであることを、中村は強調している。

詩には格調の高さが求められるが、丈山は調への関心は高くなかったのではないかと中村は言う。
格という点では、前述した杜甫や李白などの盛唐への傾斜に現れている。
宋詩は禅の思想性が高かったが、その反省によって唐詩風が再評価されるという流れは、中国の漢詩の歴史においてもすでに起こっていた。

丈山が情を重視したのは、宋詩風に見られる思想性の克服を目的としていた。
中村は丈山の情の重視が、人間性の現れ出たものを意図していたのではないかと言っている。
朱子学では理と情は相容れない概念と受け止められがちだが、日本で朱子学を学んだ丈山は、理と情が調和して合致する境地を詩で実現できると考えていたようだ。

現代にこの丈山の詩論がそのまま通用するとは思えないが、
「日常性」を「自意識」へと置き換えれば、それはそれで示唆的なのではないか。
僕の見るところ、「(自分を表現したいという)作者の自意識」が、現代の詩を私的所有に引き渡して、ひどくつまらないものにしている。
現代の「俗」である自意識の打破を目標とするなら、①古典性 ②格調 ③反ネットワーク的普遍性 こそが見直されるべきだと考えるが、どうだろうか。

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政治性の打破

初めまして。南井さんの今回のブログを拝見致しまして、思ったことを書いてみます。あくまで一個人のコメントに過ぎないものなので、見逃しても構いません。

ここのところ、創作者を名乗る者たちの風潮として、「自分が面白いと思うものをいかに表現するか」ということが(主にSNSにおいて)強調されているように思います。つまり創作者が、「自分の価値観が何より大事」と、自らを保護する方便をしきりに用いているということです。それは、作品が世に出て有名になり売れることの、一つのアンチテーゼとして語られているようですが、自分のありのままを承認して欲しいという現代の創作者の甘えにも、私には聞こえてきます。要するに彼らは、自己の思想(お気持ち)を誰かに認めて欲しいがためにものを書いているのであり、あわよくばその自己の思想が保護されることを願っているのです(それが国家を介するにせよ市場を介するにせよ)。

こうした思想(及び思想集団・民族)の承認、及び保護は、平たくいえば政治の仕事です。つまり国家が国家として、或いは市場を介して思想を承認・保護する役割を担っています。こうなると、思想を有する者(創作者)はその承認・保護を勝ち取るためにものを書いているということになるのですが、そうなると現代の創作者の一部で起こっている反体制ムーブに説明がつかないように思われます。しかしそれも、いわゆる自分たちが「シャドーキャビネット」であると自負しているのだと考えれば、説明がつきます。つまり現代の創作者は、創作者を名乗っておきながら政治が自分たちの味方であることを信じて止まないのです。(過去の時代の創作者たちは、おそらくは、自らの精神を脅かす敵としての政治と対峙していたはずです)

閑話休題。現代の創作者は「売れる」ことより、「刺さる」ことを望んでいます。「売れる」ということは、売れるなりの努力(がむしゃらに働く)が必要です。いわゆる古き良き日本の労働スタイルを思い浮かべれば分かると思います。それに対して、「刺さる」というのは、自らの価値観に対する「共感者」を意識した言い方です。共感さえしてくれる人がいればそれで良い。そしてそれが多いに越したことはない。そこにがむしゃらな努力は必要なく、必要な努力を満たしさえすれば、あとは「共感者」に取り入って世渡りができるようになる。これこそが、思想の承認・保護の内幕なのです。

さて、南井さんは「自意識の打破」を仰っていましたが、私としては、むしろ政治を打破することが、文学に与えられた役割だと思っています。政治によって保護された温室育ちの思想の檻を破り、寒空の下に放り出すことで、政治に頼らない自決の精神が養われるのだと考えています。自決もまた政治と言われるかもしれませんが、私が想定しているのは、神に仕える絶対的な精神そのものとしての自己であり、或いは集団であります。自分自身の人生を自身の手によって仕舞うこと、その物語が誰の手によっても書き換えられないことが自決の条件なのです。自己存在を誰にも明け渡すことのない一幕の歴史として語り続けること、これが「詩」であり、自らの「格」であり、そして政治というネットワークを打破する文学なのです。

熱くなりましてすいません。一つの意見として聞いて下されば幸いです。

イチコさんへの返答

どうも、南井三鷹です。
イチコさん、熱いコメント大歓迎ですので、お気軽にご意見をお書きください。

最近の創作者を分析するイチコさんの手際には、なるほどと感じました。
「創作者自身が面白いと思うもの」=「自分の価値観」を表現して、
それが社会的に承認されることで、自分自身が「保護」されることを求めている、という整理ですよね。
自分自身を「保護」することが、創作者の動機だという指摘は、
やたらに自分の表現や作品を「社会」「市場」に売り込もうとする創作者には、バッチリ当てはまることでしょう。

僕はかねてから、日本人には「自己保身」と「自己享楽」しか価値観がないのではないか、と疑っているので、
イチコさんの分析は、非常によくわかる話でした。

そうなると、彼ら創作者を承認・保護する役割は、国家や市場の政治経済的イデオロギーが握っていることになりますね。
イチコさんは、その政治経済的イデオロギーを「政治」と呼んでいますね。
だから「政治の打破」こそが文学の役割だとするわけですが、僕の解釈はあっていますか?

イチコさんの「政治」という語彙を、僕なりに一般化してみますと「政治経済の体制的イデオロギー」となります。
それは一般的には「グローバル政治経済」であり、アメリカ従属の視野を捨てれば、「アングロ=サクソン的・キリスト教的な西洋イデオロギー」であることが見えてくるでしょう。
イチコさんが「反体制ムーブ」と呼ぶものが、どういうものを言うのか僕はちゃんと把握できていませんが、
おそらく斎藤幸平みたいに「自己保身」を確保した上で、口先だけ「反体制」風の主張をするようなあり方ではないかと思います。
もしそうなら、そういう「反体制ムーブ」も所詮は、「西洋左派的イデオロギー」を模倣したものでしかないはずです。
それは大きく見れば、体制イデオロギーの別ルートでしかなく、つまりは右も左もどちらも根っこは同じという悲しき敗戦国の真実に突き当たるものでしかありません。

イチコさんの「政治に頼らない自決の精神」が重要だという主張には驚きました。
この甘えの国で、そういうことを考える人がいることに不意を突かれたのです。
ただ、「政治の打破」を個人レベルに落とすと「自意識の打破」になると僕は思っています。
「自意識」とは、「他人が自分をどう思っているか」ということを自分で内面化する意識のことだからです。
たとえば、日本は女性の地位が低いという話をする時にも、国際的に見て何位だとか、どこより遅れているとか、そんな価値観でやっていますよね。
要するに、周囲からどう思われているか、ということが原動力であって、
周りが何も言わなくても、自分自身で問題だから変えよう、ということではないわけです。
周囲から責められなければ、問題が存在しないかのように思う日本人が多いですが、
これは全て「自意識」を基準にした世界観で生きているからです。
世間という人的ネットワークを超越する倫理基準を持たず、あくまで周囲がどう思っているかを内面化して、その相対性を基準とするだけ。
それが超越的な神を持たない「俗」に生きる日本人の姿です。
人々が褒めているものは素晴らしく、人々が関心を持たないものには価値がない。
悪い行為をしても地位がある人ならセーフで、地位がなければアウトになる日本の相対性は、そこから来ています。

「自分の人生を自身の手によって仕舞うこと」とありましたね。
なかなか刺激的な書き方で、僕は非常に興味深く読みました。
日本の常識からすれば「イカれている」かのような反骨心が、僕のアドレナリンを刺激します。
そうこなくっちゃ、という感じです。
たとえ読者(または消費者)がいなくても文学や詩は存在する、と僕は思います。
いや、むしろそういう作品にしか、もう神は興味を持たないのではないでしょうか。
文学は文学の手によって仕舞われる必要があるのです。

「刺さる」と「共感」の話をすると長くなりそうなので、ここで一旦やめておきます(笑)
非常に面白いコメント、楽しませていただきました。

  • 南井三鷹
  • 2024/03/12(Tue.)

プロフィール

名前:
南井三鷹
活動:
批評家
関心領域:
文学・思想・メディア論
自己紹介:
     批評を書きます。
     SNS代わりのブログです。

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