南井三鷹の竹林独言

汚濁の世など真っ平御免の竹林LIFE

ジェイムソンの等価交換論

現在、アドルノの「文化産業」批判を書くために関連書籍を読んでいるが、
僕の悪い癖で、読んでいるうちに目を通したい本が増えていってしまったりする。
「文化産業」について直接書かれている『啓蒙の弁証法』と『模範像なしに』を、読み終えたところで記事を書こうと思っていたのだが、
なんとなく買ってあったフレドリック・ジェイムソンの『アドルノ』という本を引っ張り出して、読み出してしまった。
これも僕の癖なのだが、こういうときに僕はその本の中で「文化産業」について触れた箇所だけを拾い読みするのが、なんかもったいないと思えてしまう。
最初から最後まで(ざっとでもいいから)読んでいきたいのだ。
ダンジョンの途中でつい面白い魔導書を探して寄り道をするように、
読む途中で思いがけず、面白いことが書いてあるのを見つけたりするからだ。
(仕事や課題を与えられて本を読む人には、こういう楽しみはわからないだろうな)

ジェイムソンの『アドルノ』には、幸運にも当たりの宝箱があった。
彼が『資本論』の等価交換について書いている部分が、興味深かったのだ。
この部分は「文化産業」の記事にはきっと書くことはないと思うので、ここに記しておきたいと思う。

僕は別ブログの記事でデヴィッド・グレーバーを引用して、
等価交換はその成立によって双方の社会的地位をフラット化する、社会的桎梏からの解放・救済をもたらすものだと書いた。
つまりは「負の社会的関係からの解放」を実感するために、等価交換という虚構が必要だった、という理解になる。

ジェイムソンの捉え方は重点の置き方がだいぶ違っていた。
彼はマルクスがそう考えていた、という書き方をするのだが、等価交換を成立させる交換価値こそが「同一性」の起源になった、と言うのだ。
経験や消費──換言するならば、使用価値──という点からすれば、これらは比較不可能なままであるし、ある特定のステーキを食べる経験と郊外をドライブする経験を秤に掛けるなどということを思弁が行えるはずもない。ならば、交換価値、つまり本来は比較不可能な二つのものの間に何らかの抽象的な第三項(この章でマルクスが語る歴史的弁証法を通じて究極的には貨幣という形態を取る、ひとつの抽象概念)が出現したということが、同一性が人類の歴史に現れるための現象的形態を構成するのである。
(フレドリック・ジェイムソン『アドルノ』加藤雅之・大河内昌他訳)
もしジェイムソンが指摘する通りであるなら、
同一性という概念は経済システムと深く結びついていることになる。
ならば、交換価値が使用価値から乖離して一人歩きしたときに、同一性の概念も現実からかけ離れた猛威を振るうことになるのではないか。

最近ではポストモダン左派の「同一性アイデンティティ」批判が、性的多様性とかマイノリティの権利運動に執心するばかりで、
資本の専横や経済的な社会構造の批判にちっとも結びつかない形になっているが、
ジェイムソンの指摘に立てば、それがいかにマルクス主義の縮小であり、左派の敗北を意味しているかも理解しやすくなる。
フーコーやバトラーを持ち出して、性の問題だけを語っていれば社会が良くなるというのは、敗残者の幻想でしかない。
なぜなら、資本は性別などに全く興味を示さないからだ。
くだらないジェンダー研究やダイバーシティ構想がどんなに進もうと、
その人が何者であろうが金持ちは社会的勝者であり、その人が何者であろうが貧乏人は社会から排除されるという現実は動かない。
ただマイノリティを擁護するという単純な発想では、本当は支配的地位にいる勝者こそが少数者マイノリティである、というカラクリに、永遠に気づくことはないだろう。

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