南井三鷹の竹林独言

汚濁の世など真っ平御免の竹林LIFE

雑誌の表紙

マンガ雑誌だと、表紙に並ぶのは「作品名」なのに、
文芸誌だと、表紙には「作者名」が並んでいる。

なぜ文芸では作者が偉いのだろう?
なぜ作品は作者に属したものでしかないのだろう?

ポストモダン思想は、人間中心主義批判などと言っていたが、
この「作者中心主義」を批判することはなかった。
テクストという言葉が流行しても、それは変わらなかった。

結局、現世の成功者が作者としても優遇される。
社会的地位のある人、売り上げを稼いだ人、業界のおぼえがめでたい人。
要するに、「作者中心主義」の基準は現世での「偉さ」にある。
作品とは、偉い作者にあやかるためのお札みたいなもの。
お札なんか、神の名前が書いてあればそれでいい。
偉い人と思われたければ、本を売って多くの読者に支持されればいいのだ。

重要なのは作品とどれだけ深く付き合うかではなく、
誰が今「偉い」と思われている作者なのかでしかない。
偉い作者の作品なのだから、多少つまらなくても、身勝手な主張でも批判してはいけない。
今やメディアにおける文芸作品とは、作者の「偉さ」の証明でしかないのだ。

詩が暗誦された時代は違ったはず。
そこには詩だけがあった。
作品だけの世界があった。
もとより作者が背景に消え去るような作品でなければ、すぐれた文学とは言えないのだ。

当然ながら、作品の価値を理解している社会であれば、他媒体で内容を勝手に変えたりもできない。
作品が作者の所有物だと思っているから、作者がそこまで偉くも有名でもなければ、作品をどういじってもいい、という発想になるし、
一読者が作品を批判すると、「何を偉そうに!」と身の程をわきまえない人間のように扱われる。

「偉さ」に支配された文芸は、どうにも貧しい。

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相互批判

まともな俳句結社では、ちゃんと相互批判をやります。テキスト(俳句)の神性などありません。大正昭和平成の優れた俳人達は、それで育って来ましたし、令和も同じことです。若い初学者が、批判を嫌う傾向がありますが、これを越えないと優れた俳人には成れません。ここに於いて初めて「俳句の門」が開かれるのです。

枝蛙さんへの返答

俳句などの結社では相互批判があるのは結構ですね。
研鑽の場ということがあるのでしょうが、
僕が問題にしているのは、雑誌などのメディアの場です。
内輪という信頼感がない場面では、互いに差し障りのない「忖度」が横行します。

業界で利権を貪ったり、貪りたがっている人は、
外部からの批判をはねのけられないと、自分の「偉さ」に傷がつくと思っている人が少なくありません。
彼らがあやまちをしでかした時に、真摯に謝罪したのを、僕は見たことがありません。
そういう時、この人はただ「偉い」と思われたいだけの凡庸な人なんだな、と感じます。

  • 南井三鷹
  • 2024/02/15(Thu.)

プロフィール

名前:
南井三鷹
活動:
批評家
関心領域:
文学・思想・メディア論
自己紹介:
     批評を書きます。
     SNS代わりのブログです。

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