汚濁の世など真っ平御免の竹林LIFE
俳句のモードも昭和期の「重厚」から、平成の「軽快」を経て、令和の今の一部では「軽薄」にまで達しています。しかし、揺り戻しというか、「真面目」「誠実」な句に目覚める人達も出て来ました。最後に勝つのは、真面目で誠実な俳人です。これは歴史的に間違い無いことです。
枝蛙さんは令和の俳句の風潮を「軽薄」と捉えるのですね。
「軽薄」というと悪い感じですが、
僕の感じる「微温的雰囲気」は、「なんとなく良い」という感じです。
「がんばらない」という価値観も、必ずしも悪いばかりではなく、
「肩肘張らない」というポジティブな捉え方がされている部分もありますよ。
それこそ昭和は仕事に全力という感じで働いていましたが、
最近は仕事はそこそこにプライベートを充実させたい人が多いでしょう。
もともと日本は「角が立たない」とか「事勿れ主義」とか、周囲との軋轢を減らすことが処世術でしたし、
「微温的雰囲気」こそが「平和な時代の魔法使い」っぽいのでしょうが、
僕にはやっぱり、どこか「縁側の年寄り」じみた世界観な気がするんですよね。
魔王討伐後のエルフという設定は、定年後の年金生活者を理想とするイメージなんですかね。
なにしろ、年金でまったり生活なんて、もうファンタジーでしかないですもん(笑)
お久しぶりです。
新しいブログを開設されたのですね。
しょーもない思いつきなのですが、
豊穣の海「天人五衰」を読み返していたら、
覗き屋のお爺さんと同性愛のお婆さんが、
あなたの運命だったのよと、迫る所があると
思うのですが、なんだか昔話の典型みたいで
ネットでちょっと調べてみました。
そうすると、
爺婆が共同体から疎外された存在であること。桃太郎やかぐや姫など、性的関係なしで
神(?)から子供が授けられ、その子供が
爺婆同士の衰えた貧しい現実から
救い出してハッピーエンドへと導くこと。
そもそも、
爺婆と子供が物語の中心になることで
その中間の、生産を支える階層(共同体?)が
無視されてしまっていることなど、
当たり前のことですが、改めて聞くと、
多くの気づきを得られました。
その後、筆者はその原因を能楽から
分析することになるのですが、
能楽に関しては、無知であるため
私自身の発言は控えます。
上述の3つ目の気づきに関する説明について
中間階層が無視されているのは、
老人と子供が神の居場所に近い存在である
という、回答に衝撃を受けました。
老人と子供の存在そのものが、
中間階層がいることの証明になる
という風に解釈した私は、
南井様への映画に関する
質問を思いだしました。
その後、そうした登場人物達は共同体を
繋ぐメディアであるという旨のことが
書かれているので
自分の解釈に納得しています。
記事の趣旨からだいぶ脱線しましたが、
私個人の妄言として、
「葬送のフリーレン」の主人公
フリーレンが長寿でかつ若々しい姿なのは、
老人と子供を併せ持ち、選ばれた能力を有し、
生活世界から浮遊したメディアの化け物
だからだと感じました。
(老人を母、子供を処女と置き換えれば、
それを流動させる「転生」だとも
いえそうですが、ロボアニメをなんでも
ガンダムというニワカみたいに感じたので
これは的外れでしょうね。)
思いつきで書いたので、
思考が伴っていませんが、
能楽から発見を得られるという気づきは
学びに繋がりました。
ちょうど、おかめとひょっとこに
興味をもっていたので、この機会に
もっと学習しようと思いました。
軽い挨拶として、これで終わります。
これからも頑張ってください。
どうも、南井三鷹です。
往来市井人さん、こちらのコメント欄へもようこそ。
こちらは気軽いブログをめざしていますので、
思いつきでも何でも書き込んでください。
爺婆と子供は非生産年齢であり、
爺婆の救済を貴種流離譚的な子供が行うという昔話の構図が、
穿って見れば「転生」のようなものではないか、というご指摘には共感します。
その解釈を前提とすれば、
最近のサブカルは、「社会労働に対する嫌悪」を根底に置いたものばかりです。
僕だって労働は好きではありませんが、
そんな程度のことを作品化して、癒しを得ているのは、ちょっと幼稚なのではないでしょうか。
一般にオタクというものは、社会構造(プラットフォーム)に反発する根性がなく、
アンチ労働的な世界(プラットフォーム)のサブカル作品に耽溺し現実逃避して、
社会の権力体制を盤石にしています。
社蓄が死んでゲーム的異世界に転生し、労働免除の貴族階級になって、
さらには努力もなくチートなスキルを手に入れて無双する、という設定は、
労働嫌悪の典型ではないでしょうか。
「人生の夢は社会労働をしないで、趣味に耽溺することです!」と、
若い人に真顔で言われたら、何と言うべきなのか、言葉に困りますが、
死者(とりわけ敗残者)の怨念みたいなものを、忘却の淵から蘇らせる能と、
生きながら死者のようになっている人々の、虚しい願望をミクロ世界で実現するサブカルでは、
構図が同じでも、文化的な意義や効果があまりにも違うように思えてなりません。
こんな癒しで現実をやり過ごすくらいなら、階級闘争をやった方がいいと思うのですが、
高度メディア体制の「去勢」と「分断」の力が、とてつもなく有効に働いていることは認めざるをえません。
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