南井三鷹の竹林独言

汚濁の世など真っ平御免の竹林LIFE

ジェイムソンの等価交換論

現在、アドルノの「文化産業」批判を書くために関連書籍を読んでいるが、
僕の悪い癖で、読んでいるうちに目を通したい本が増えていってしまったりする。
「文化産業」について直接書かれている『啓蒙の弁証法』と『模範像なしに』を、読み終えたところで記事を書こうと思っていたのだが、
なんとなく買ってあったフレドリック・ジェイムソンの『アドルノ』という本を引っ張り出して、読み出してしまった。
これも僕の癖なのだが、こういうときに僕はその本の中で「文化産業」について触れた箇所だけを拾い読みするのが、なんかもったいないと思えてしまう。
最初から最後まで(ざっとでもいいから)読んでいきたいのだ。
ダンジョンの途中でつい面白い魔導書を探して寄り道をするように、
読む途中で思いがけず、面白いことが書いてあるのを見つけたりするからだ。
(仕事や課題を与えられて本を読む人には、こういう楽しみはわからないだろうな)

名誉毀損訴訟への疑問

松本人志氏が週刊文春の記事を名誉毀損として、賠償請求訴訟を起こしたことが話題だが、
自ら公的に説明する機会を作れる地位にある人が、記者会見を開いて反論するでもなく、
「事実無根」を主張して名誉毀損の裁判を起こすという態度は、あまり感心したものではない。

名誉毀損を裁判で争う場合、
たとえ書かれた記事に対して、訴えた側(原告)が「事実無根」だとか「誹謗中傷」「デマ」だと主張しても、
訴えた側は、書かれた内容が真実﹅﹅でない﹅﹅﹅ことを証明する必要は全くない。
むしろ、その内容が真実であることを証明する必要があるのは、訴えられた側(被告)、つまり記事を書いた側になる。
だから、気楽な気持ちで訴訟を起こせるわけだ。
どうして証明の義務があるのは、名誉毀損で訴えられた側だけなのだろうか。
これは本当にフェアなシステムなのだろうか。
訴えた側にあまりに有利な名誉毀損訴訟のあり方には、無益な訴訟を助長する要因になりうるという点で大いに疑問がある。
(まあ、どんな訴訟であっても、弁護士にとってだけは有益ではあるわけだが)

石川丈山「富士山」

ここ数年、朱子学の本を読んでいるが、
日本の朱子学受容を考えると、江戸時代の思想を調べる必要が出てくる。
で、最近は朱子学の勉強と並行して、江戸の思想にも手をつけ始めたところだ。

すると、江戸の儒者というのは、だいぶ江戸漢詩の世界を支えていたことがわかった。
岩波文庫の『江戸漢詩選 上』を買ってみたら、
藤原せい、林羅山、伊藤仁斎じんさい、山崎闇斎あんさい荻生おぎゅうらいなど江戸儒学のビッグネームや陽明学の中江とうじゅなどが並んでいる。
これは江戸漢詩も読まなければ、と思い、無学を恥じながら読んでいる。

ちなみに江戸儒学は江戸俳句の世界とも関わりが深い。
貞門派の祖である松永貞徳の息子、松永せきは藤原惺窩の弟子で儒学のほか仏教や道教にも通じていた。
松尾芭蕉も宗房時代は貞門派に組み入れられる位置にあり、
芭蕉の漢詩好きを考えれば、江戸儒学との関係は無視できないものだろう。

見た目は娘 中身はおっさん

前回の『葬送のフリーレン』の記事にコメントを返していたら、
どうやらフリーレンの実像は年金生活者のイメージではないか、と思い当たった。
フリーレンは1000歳以上生きている設定ではあるが、見た目だけなら若い娘。
「中の人」が年寄りで、見た目が若い娘のVtuberのキャラと考えれば、なんか納得できる感じもある。

『葬送のフリーレン』の話

この前、ZOOMで髙鸞石さんに、
アニメ『葬送のフリーレン』っておもしろいの?」と尋ねた。
酔っ払っていたので、明確な答えは覚えていないのだが、
「おもしろいですよ。余計なBGMもない静かな感じが、金曜の夜に癒しになるんですよ」
という感じの返答だったと思う。

「癒し」といえばそんな感じがしないでもない。
盛り上がる魔法バトル場面というのはそう多くはないし、エピソードも『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』みたいに心動かされるというほどのものはない。
全体的に「なんとなく」良くて「微温的」なぬるーい感じなのだ。
これが風呂で半身浴をしているような癒しになる、と感じる人がいるのはわかる、
が、僕はなんか退屈だと思う瞬間が多い。
ただ、アニメなので退屈でも30分くらいなら、「なんとなく」見てしまう。

雑誌の表紙

マンガ雑誌だと、表紙に並ぶのは「作品名」なのに、
文芸誌だと、表紙には「作者名」が並んでいる。

なぜ文芸では作者が偉いのだろう?
なぜ作品は作者に属したものでしかないのだろう?

ポストモダン思想は、人間中心主義批判などと言っていたが、
この「作者中心主義」を批判することはなかった。
テクストという言葉が流行しても、それは変わらなかった。

作者に奉仕する作品

作者に奉仕する作品というものは、総じて退屈だ。

自分が社会やその手の「業界」に評価されるために、作品を作る。
作者に奉仕する作品とは、作者の「社会的地位」を高めるための道具のことだ。
そういう作品は、「どうしたら同時代の人々に評価されるか」ばかり気にしている。
うまくいけば、目論見通り社会で評価され、作者たる自分の地位が獲得できる。
作品がナントカ賞を受賞すれば、立派な「作者」になれるというわけだ。

プロフィール

名前:
南井三鷹
活動:
批評家
関心領域:
文学・思想・メディア論
自己紹介:
     批評を書きます。
     SNS代わりのブログです。

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