南井三鷹の竹林独言

汚濁の世など真っ平御免の竹林LIFE

「言葉は、誰かを傷つけるためにあるのではない」という欺瞞表現

最近、空疎な商業主義による文学の去勢が勢いを増している。
その現象の一つとして挙げたいのが、「言葉は、誰かを傷つけるためにあるのではない」という欺瞞に満ちた表現だ。
要は「言葉で誰かを傷つけてはいけない」と言いたいのだろうが、
そう表現することを避ける理由は思い当たる。
本当の目的は言葉の使用を、特定の方向に「統制(誘導)」するところにあるからだ。
実際は「言論統制」を意図しているが、それを深層心理で出版人が支持しているとわかってしまうとまずいことになる。
だから美辞麗句に見える広告言語で曖昧化しているのだ。

もはや広告ポストモダンの言葉が文学ヒューマンの言葉より上位に位置して久しいとはいえ、
詩歌や純文学の書き手が、「言論統制」の欲望を隠した欺瞞表現に違和感すら感じないのだから笑うしかない。

「言葉は、誰かを傷つけるためにあるのではない」のどこが欺瞞なのか。
まず、主語が問題だ。
「誰かを傷つける」のは本当に「言葉」なのだろうか?
ある言葉で傷ついた人がいたとして、その人が「言葉」を恨んでいるのを僕は見たことがない。
こういう人たちは、決まってその言葉を使った「発言者」を憎んだり恨んだりしている。
しばしば指摘されることだが、日本人は発言内容より、その発言をした人が誰かを重視して物事を判断する場合が多い。
要するに、実際は「言葉を使う人間」こそが問題にされている。
なのに、この表現ではそれが隠されている。

テレビのニュースで、AIの社会的な害を問われたIT関係者が、
「結局、道具を使うのは人間ですからね。包丁は料理に使うものですが、それで人を傷つけることはできます」という趣旨の発言をしていた。
全くそのとおりと言うほかない。
問題は使う人間にある。
「包丁は誰かを傷つける」のは明らかなことであるが、「包丁は、誰かを傷つけるためにあるのではない」と言ったとしたらどうだろう?
そんなことは誰でもわかっている、と言われるのではないか。
同様のことは自動車にも言える。
事故を起こせば自動車は人の命を奪うのは誰でも知っていることだが、「自動車は、誰かを傷つけるためにあるのではない」などとわざわざ広告することがあるだろうか。

こう考えれば、「言葉は、誰かを傷つけるためにあるのではない」という表現には、それがわかっていない人がいる、という前提に立っていることがわかってくる。
つまり、「誰かを傷つけるために」言葉を使っている人がいる、という認識が共有されていなければ、こんな表現は生まれてこない。
しかし、言葉を凶器のように使うことなどできるのだろうか。

ナイフや自動車なら、意図的に他人を傷つけることはできるだろう。
しかし、投げかけた言葉で相手が傷つくかどうかは、ちっとも確実ではない。
攻撃的な言葉を向けられても、なんとも思わない人がいるからだ。
たとえば僕は某教授に誹謗中傷のツイートをされたこともあるし、あるブログに全くのデタラメを書かれたりしてもいるのだが、
取るに足らない人の言葉で傷つくことはないし、自分の評判にも固執していないので訴えようとも思わない。
ただ、同様のことをされて傷つく人はおそらく存在するだろう。
つまり、「言葉が誰かを傷つける」かどうかは、相手の受け止め方次第なのだ。

相手を傷つける言葉かどうかは「事後判定」においてしかわからない。
そんな不確定な状態で「言葉が誰かを傷つける」ことを排除しようとするならば、誰かが傷つく可能性がある言葉を発すること自体が「言論統制」の対象になる。
「誰か」と相手を不特定にしているのだから、おそらく、否定的な言葉ですぐに傷つく「脆すぎる人」も含まれるのだろう。
しかし、そんな人までケアをするのが文学なのだろうか。
サッカーボールが顔に当たったら泣いてしまう子供はいるだろうが、だからと言ってプロサッカーの世界で「人をボールで狙って傷つけてはいけない」などと言うはずもない。
つまり、言葉がぶつかったらすぐに泣いてしまうような子供みたいな人を読者(や作者)として想定しているから、
「誰かが傷つく可能性がある言葉を使ってはいけない」という馬鹿げた要求をしなければならなくなるのだ。

しかし、こんな禁止要項を大上段から語ったら、顰蹙ひんしゅくを買うに違いない。
「不特定の誰かを傷つける可能性があるだけでダメだと言ったら、何も表現できないではないか」と反論されるのが明らかだからだ。
批判ができないのはもちろん、まず確実に議論というものが成立しない。
そこで「言葉は、誰かを傷つけるためにあるのではない」という欺瞞に満ちた美辞麗句を使いたがる。

こういう小狡いことをしたがる人たちの意図はわかっている。
人ではなく、商品価値を傷つける批判言語を、商売のために追放したいだけなのだ。
対象の良し悪しにかかわらず、単に人が傷つく言葉を使ってはいけないとなれば、
出来の悪い商品の批判を「言論統制」することだって可能ではないか。

これは「広告言語の勝利」を宣言することに等しい。
相手を傷つけるのではなく、「希望」や「前向き」であることを求める広告言語であれば、どれだけ嘘を垂れ流しても批判される謂れはない、ということなのだ。
全くくだらない。
こういう「言論統制」の欲望を隠したマスメディアによる「広告言語の勝利」に、文学関係者が業界宣伝と引き換えに動員されて寄り集まってしまう。
あまりに醜い。
醜悪すぎて、そういう雑誌を見る気にもならない。

さらに言うと、包丁で人を刺す場合や、自動車で歩行者を傷つける場合、明らかに「装備の不均衡」がある。
刺す側は武装しているが、刺される方は丸腰だ。
ぶつかる側は自動車だが、ぶつかられる方は生身だ。
しかし、言葉はどうだろうか。
面と向かっていたら、言葉は双方でぶつけ合うことができるし、それなら立場は五分五分だ。
もし言葉を発した側だけが相手を傷つけるとすれば、それはメディアを使って遠隔から相手を一方的に攻撃するからでしかない。
「言葉は人を傷つける」という一面だけをわざわざ語るということは、
そもそも相手とのコミュニケーションを志向していないケースだけを取り上げていることになる。
しかし、実際はコミュニケーションを志向しても、意図しない言葉で相手を傷つけるケースはある。
それを無くそうとするならば、言葉でコミュニケーションをしないという方法しかない。

そもそも、悪事をはたらいた人を改心させるときに、相手が傷つかない言葉を用いてそれを行うことが可能なものだろうか。
人を傷つけない言葉しか認めないのであれば、人に反省や改心の機会を求めるつもりはないのだろう。
「傷ついた」という受け手の被害者意識だけが基準であって、
双方向のコミュニケーションを前提としていない言葉なのだから、改心など要求しないつもりなのかもしれない。
確かに、悪事をはたらいた人を排除すれば、改心させる必要はない。
そうであれば、「言葉が誰かを傷つける」ことをなくすためには、悪事を行った人に反省や改心を促さずに「排除」を求めるだけでしかなくなる。
そのような「実力行使」が優越する社会では、むしろ言葉など重要ではなくなっていくと思うのだが。

このような背景も考えることなく、安易に「言葉は、誰かを傷つけるためにあるのではない」などという欺瞞表現を受け入れてしまう言語感覚を持つ人が、文学に関われると思っているのが日本の出版業界だ。
では、なぜ文学シーンでこのような知性に欠けた欺瞞表現が用いられてしまうのか。
その理由は、文学関係者の多くが「自分が被害者でありたい」という欲望を持っているからだと僕は断じる。
今の商業文学は、「実態なき被害者意識」の巣窟になっている。
とりわけわかりやすいのが、女性や性的マイノリティをめぐる被害意識だが、大きな実害を受けていないのに被害者意識を持ちたいがために、こういう場所を求めてくる人も少なくない。
はっきり言って、一種の集団病理だと僕は思っている。

「言葉は誰かを傷つける」という表現を用いれば、
あくまで加害者は「言葉」であり、「誰か=人」である自分たちは被害者でしかなくなる。
そもそもこの表現に、被害者意識を高めるはたらきが認められる。
少し考えればわかることだが、もし「言葉が誰かを傷つける」のであれば、マスメディアで言葉を大量流通させている人たちにこそ最も責任があると言える。
つまり、マスコミや商業雑誌で仕事をしている人間たちこそが、最も深刻な加害者になりうる存在なのだ。
しかし、「言葉は誰かを傷つける」という欺瞞を広告で用いれば、自分たちが加害者に最も近い存在であることをごまかすことができる。
あくまで自分たちは被害者になるだけであり、加害者にはならない。
現代の商業文学シーンは、こういう「被害者意識の欺瞞共同体」でしかなくなっている。

「被害者意識の欺瞞共同体」には大いに問題がある。
そこでは必ず「被害者」が主語になるからだ。
逆に言えば、「被害者」でない人に発言権はないので、誰もが自分を「被害者」だと主張するようになる。
例えば陰湿なネットいじめの加害者でしかない人が、自分が被害者であるかのような細工をして賠償請求をする蛮行が起こったりする。
自分たちが行った歴史上の加害行為については認めず、空襲を受けたとか原爆を落とされたとか被害意識ばかりを振り回したりする。
また、自分たちがホロコーストの被害者だという意識から、先住者を虐殺しても何とも思わないという事態が起こったりもする。
被害者意識の病理において抹消されるのは、「自分たちのコミュニティの加害性」だ。
「被害者意識の欺瞞共同体」とは、別に優しい人たちが癒し合う場ではなく、自分や自分のコミュニティの加害性を決して認めない人たちの共同体でしかなくなるのだ。
(だから、イスラエルの蛮行を批判しても、自分が属するコミュニティの蛮行は何一つ批判しない欺瞞が罷り通るのだ)

その意味で、最初から「私は被害者だ」という逃げ場を確保して物を言う人たちの創作物が、文学を詐称していることには怒りすら感じる。
こういう「被害者意識」によって相手より優位に立とうとする人たちが、メディアで声高に差別反対とか人権とか主張しているのを見ると、人間の知的かつ倫理的衰弱を感じないではいられない。
相手より優位に立ちたいという本音が見え見えなのに、まあよくも口だけは平等みたいなことを言えるものだし、それを平気で許している人たちの感性の貧しさにも絶望するしかない。

商業文学の世界で「文学」と思われているものは、
今や「被害者の地位」を奪い合うマウント合戦でしかなくなった。
(僕の分析に有効な反論ができる人は、おそらく一人もいないだろう)
こんなものはマスメディアの実態が「商業的権力」でしかないことを、一般の人々から隠すための広告的な手法でしかない。
しかし、今や「文学」は知性の高い人がやるものではなくなったので、
こういう薄汚れた「商業的権力」の片棒を担いだり、その一員となって自分のルサンチマンを解消したり、傷ついた自己の慰安に走ったりするだけで構わないのだろう。

まあ、せいぜいマスメディアが好む「自己慰安」の言葉を売りつけて、「被害者との連帯」というアリバイ証明に勤しんでいればいい。
しかし、それは資本主義に吸収されるだけの広告言語であって、文学とは全く関係のない「欺瞞表現」でしかない。
そこで本当に憐れまれているのは、現地にいる被害者当人ではなく、あくまで遠くからそれを眺めている自分自身でしかないのだから。
(これが加害者を自分と絶対的に切り離し、それを人間以下のものと蔑視する「逆オリエンタリズム」の心理メカニズムだと言ったら、誰か理解できる人がいるだろうか)

客観的記述という倫理

林逋「小園小梅」の漢詩記事のところで、世捨て人を記録した『後漢書』の「逸民伝」に触れたが、
范曄はんようがそんな雑伝を書いたのには、司馬しばせん『史記』の影響がある。
『史記』にはすでに「游俠伝」(任侠を貫いた人の伝記)「滑稽伝」(巧みな弁舌で主君を諌めた人の伝記)「貨殖伝」(商人として成功した人の伝記)などの風変わりな列伝があったからだ。
范曄が司馬遷のスタイルを引き継いだことから、「逸民伝」が生まれたと言ってもいい。

その司馬遷の歴史意識に、時の皇帝権力さえ相対化できる、より上位の倫理意識があったことはよく知られている。
司馬遷は匈奴に投降した李陵を擁護する発言をして武帝の怒りを買い、宮刑を処されて男性のシンボルを失った。
おそらく獄中で司馬遷は考えたに違いない。
遠い西域で敵に降伏した将軍の真意を、都にいる皇帝がどのくらい理解できるものだろうか。
たとえ皇帝であっても、人間の主観的な判断はある「閉鎖性」の中にあるものだ。
主観による閉鎖的な判断は、歴史というもっと客観的かつオープンな場で相対化される必要がある。
おそらく、このような考えが『史記』の歴史的偉業につながっている。

北野圭介『情報哲学入門』

ここ数年は、新刊をあまり買っていない。
新書もほとんど買わないし、海外文学はわりと買うが日本の小説は全く読まない。
(日本人の手によるフィクションは漫画しか読んでいない)
例外は歴史研究に関する本で、明確に過去からの積み重ねがあるジャンルだけに信頼がおけるのだが、それ以外の新刊はあまりに「ハズレ」が多い。
新刊を買う場合は、翻訳ものか復刊した日本の本ばかりになっている。

講談社メチエの思想系の本も大概は「ハズレ」で間違いない。
あとがきを見ると大抵は編集者に感謝が述べられているので、岩波書店で「思想」の編集をしていた互盛央が切り盛りしていることがわかるのだが、
ソシュールで博論を書いたポストモダン系の人であるのに、岩波で時流を追いかけた思想本を作れなかった後悔があるのか、
大学デビューよろしく、ポストモダン衰退期になって講談社で流行思想に花を咲かせているようにも見える。

林逋「山園小梅」

佐藤保『詳講 漢詩入門』では、中国詩の重要なテーマとして「隠棲」が挙げられている。
中国には科挙という官吏登用試験があったが、
それを突破するには、漢詩を作る能力が必須だった。
つまり、文学は政治参加への直接的な手段になっていた。
(戦後日本でもある時期の東大の入試問題には、決まって漢詩が出題されていた)
簡単に言えば、社会的地位を得るために、詩の能力が評価基準になっていた。

詩の能力が出世を保証するようになると、おもしろい逆説が成立するようになる。
優秀な詩を書ける人であれば、たとえ出世しなくてもそれだけの能力がある人だと証明されるのだ。
それならば、官職を得て出世することがなかった人でも、素晴らしい詩さえ残せれば、自分の実務能力を示すことが可能になる。
だから、時の体制に背を向けて隠者となっても、卓越した詩を残すことでその能力を証明することができた。
中国の詩が「隠棲」する人たちの支えになれたのは、そのような力学のためだと僕は思っている。

内輪性と党派性ばかりの日本の商業文学空間

現在の日本の文学空間は、文芸雑誌の出版社によって支配されている。
そのため、文芸の創作者は驚くほどのマスコミ崇拝者ばかりだ。
マスコミや出版社が稼いでくれる作家を批判することはタブーになっていて、他の作家も粛々とその支配に従って文筆活動をしている。
そうやって商業的に管理されていることに疑問も不満も起こらない空間なので、
防音に配慮された商業的な個室で、他人の迷惑にならずにカラオケを楽しむ人たちの集まりになっている。
カラオケだから、誰もが自分の順番で歌う曲のことばかり考えている。
他人が歌う曲は葛藤なく拍手ができるレベルであれば問題ない。
もし偉い人が同席したら、人一倍大きな拍手をする。

現実空間の居心地良さ

僕にとっては、ネット空間より現実空間の方が断然居心地がいい。
最近、そういうことを確信するようになった。
その理由は、僕がどうしても「対面的コミュニケーション」を前提としている人間だからだと思う。

僕は顔が見えないネット空間でも、顔を合わせた時と同じようにコミュニケーションができる人としか付き合いたくない。
簡単に言えば、「ネット人格」みたいなものと関わりたくない。
裁判で顔を合わせたら弁護士ともども一言も反論できない幼稚な人間が、SNS上ではやたら偉そうな発言をしていたりするのは醜悪極まりないものだ。
面と向かって何も言えないならば、ネットでも言わないでもらいたい。

自己愛メディアの時代

インターネットの普及は、個人単位のメディア発信を手軽にした。
本来、SNSなどの民主的なソーシャルメディアは、権威的な既存マスメディアとぶつかり合う面がある。
たとえばトランプ大統領は、既存マスメディアとやり合うために、Twitterを意図的に利用した。

そのようなトランプのやり方が良かったか悪かったかは別として、
日本ではソーシャルメディアが、既存マスメディアの十分な対抗軸として発展することはなかった。
テレビなどのマスメディアは、嬉々としてソーシャルメディアでバズった話題を取り上げたり、
テレビに協力的なYouTuberなども好んで出演させたりして、気持ち悪いくらいに両者の「一元化」へと向かっていったからだ。
出版業界でもネットで話題になった作品の商品化に力を入れていたし、
結局はネットで成功した人が、既存メディアでも成功者として扱われることになり、あっけなくネットの優位性が確立してしまったように見える。

責任回避としてのデータ主義

最近の大学では、「データサイエンス」という妖怪が跋扈ばっこしている。
漢字にすれば「情報科学」でしかないわけだが、日本では横文字にすればありがたそうに見られる。
要はビッグデータやアルゴリズムを問題解決に役立てる学問らしい。
プログラミングを学ぶ点や、数字以外のデータも扱う点で統計学とは少し違うようなのだが、
呼び方を新しくしても、「情報処理技術」以上のものとは思えない。

僕は最近、何でも「情報データ」化する社会に疑問を感じている。
一番の問題は、「情報データ」依存が現実の「経験」を軽視し、「責任」の意識を退化させる恐れがあることだ。


映画『オッペンハイマー』とファミリーロマンス

2024年の米アカデミー賞で、『オッペンハイマー』という作品が7冠制覇したらしい。
僕は大方の映画が嫌いなので、本来はどの作品が評価されようが興味はないのだが、
日本のニュースで盛んに取り上げられていたから、情報が耳に入ってきた。

僕はこの映画を見ていないし、見る気もないので、映画の内容については関心がない。
見過ごせなかったのは、それを扱ったニュース番組の「能天気な解釈」だった。

オッペンハイマーとは、アメリカで原子爆弾の開発を主導した科学者の名前だ。
当然ながら、この映画はオッペンハイマーがロスアラモス国立研究所で原子爆弾を開発したことを扱っている。
原爆は第二次世界大戦末期に、死に体だった大日本帝国の広島・長崎に投下されたが、
オッペンハイマーはその破壊力や非人道性を認識して、核軍縮を求めたり、水素爆弾に反対したようだ。
おそらく映画では、原爆を開発した科学者が、のちにそれに苦悩し批判するようになったことを描いているのだろう。
日本のニュースでは、アメリカが﹅﹅﹅﹅﹅原爆の投下について改悛を示したとする有識者の解釈を流していた。

石川丈山「時俗」

この前、石川丈山の「富士山」という漢詩について書いたが、
その後、近世文学研究者の中村幸彦の著述集を読んでいたら、思いがけず「石川丈山の詩論」という論文にぶつかった。
丈山はもともと三河武士で、徳川家康に仕えた人だ。
大坂夏の陣では戦場を駆け巡っていたが、50代になって京都に移住し、
洛北の一乗寺に「詩仙堂」を建てて、隠居生活を30年近く続けたので、中村は「隠詩人」と書いている。
とはいえ、権力者に近侍した人だけに、当時の漢籍を数多く読むことは可能だっただろう。

「詩仙堂」というのは通称で、本当は「凹凸おうとつ」と丈山は名づけたらしいが、
読みにくいからなのか、中村の論には詩仙堂としか書かれていない。
中心部の四方の壁に、丈山が林羅山と共に選んだ中国の詩人36人の肖像画(狩野探幽の画)が飾られていることが、その名の由来だ。
現在も詩仙堂は残っているので、いつか京都を訪ねる機会があれば見てみたい。

プロフィール

名前:
南井三鷹
活動:
批評家
関心領域:
文学・思想・メディア論
自己紹介:
     批評を書きます。
     SNS代わりのブログです。

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