
佐藤保『詳講 漢詩入門』では、中国詩の重要なテーマとして「隠棲」が挙げられている。
中国には科挙という官吏登用試験があったが、
それを突破するには、漢詩を作る能力が必須だった。
つまり、文学は政治参加への直接的な手段になっていた。
(戦後日本でもある時期の東大の入試問題には、決まって漢詩が出題されていた)
簡単に言えば、社会的地位を得るために、詩の能力が評価基準になっていた。
詩の能力が出世を保証するようになると、おもしろい逆説が成立するようになる。
優秀な詩を書ける人であれば、たとえ出世しなくてもそれだけの能力がある人だと証明されるのだ。
それならば、官職を得て出世することがなかった人でも、素晴らしい詩さえ残せれば、自分の実務能力を示すことが可能になる。
だから、時の体制に背を向けて隠者となっても、卓越した詩を残すことでその能力を証明することができた。
中国の詩が「隠棲」する人たちの支えになれたのは、そのような力学のためだと僕は思っている。
それに対して、日本ではそのような隠者を記録に残す術を持たなかった。
『後漢書』という体制の歴史書に、「逸民伝」という隠者の記録が収められていることに、僕は文化的な懐の深さを感じたものだが、
日本にはそれと同様のものが、いつの時代にも存在していなかった。
中国人には、体制に反対した人たちにも「正しさ」があるという相対性を認める力があったが、
日本には残念なことに、政治体制と市場経済の複合支配に対する相対性を認める知的文化が現在でも存在しない。
この文化的な違いは、日本には(市場を含めた)体制の承認とは別の「実力主義」が存在しないことを示している。
日本ではどんな優れた文学作品を書いても、体制に取りあげられなければ能力の証明にはならない。
日本人が「権威」の承認を求めない「実力主義」を嫌っていることは、「天皇制」が維持され続けた歴史で明らかなのだが、
それが文学や芸術において、作品本位の評価が成立しない原因であるのは明らかだ。
文学賞という「権威」による評価が、作品の市場流通に重要なのは、いかにも支配体制を相対化できない日本人らしい。
ここでは体制の支持者であれば、どんなに有能な反体制的人間より偉そうな顔をすることが可能だ。
その傾向が極端になると、無能な人が有能な人より偉そうな態度を取ることになり、体制の腐敗が決定的になる。
当然ながら、敗戦間際と同じように、腐敗体制の管理下ではろくな作品が生まれることはない。
なぜ日本人という人たちは、こうまで支配体制を相対化することを怖がるのか。
その答えに僕はまだ行き当たっていないが、多くの日本人が自分独自の考えを持たず、他人に承認されるか否かばかりに執着している人たちであることと大きな関係があるのは間違いない。
周囲が認めているものが大事であれば、支配体制の相対化など起こるはずはない。
「すでにみんなが認めたもの」が「権威」として世間を支配するので、権威が既成事実化したものを多くの人が相対化できずに追従するだけとなる。
中身がどうであるかなど無関係に、ただ周囲の人々が価値だと信じているものを、自分も価値だと思わなければこの国では生きていけないのだ。
さて、腐敗を止められない国の話はやめて、隠者の作品に価値を認めた国の作品を鑑賞しよう。
今回取り上げるのは
林逋の「山園小梅」だが、林逋こそ「隠棲」の詩人の代表と言える存在なのだ。
山園小梅
衆芳揺落独暄姸 衆芳は揺落せしに 独り暄姸
占尽風情向小園 風情を占め尽くして 小園に向り
疎影横斜水清浅 疎影 横斜 水 清浅
暗香浮動月黄昏 暗香 浮動 月 黄昏
霜禽欲下先偸眼 霜禽は下らんと欲して 先ず眼を偸み
粉蝶如知合断魂 粉蝶の如し知らば 合に魂を断つべし
幸有微吟可相狎 幸いに微吟の相い狎る可き有り
不須檀板共金尊 須いず 檀板と金尊を
花々が散り落ちて、ただ白い梅だけが美しく咲き誇り、
小さな庭の風情を我が物としている。
斜めに突き出した梅の枝の、まばらな影が映る清らかな水。
ほのかな梅の香りが漂う、夕暮れの月光。
霜をおく白い鳥が枝に降り、梅の白さから視線を奪おうとする。
紋白蝶がこの梅の白さに気づいたら、きっと絶望するだろう。
幸いにも隠棲の私は、小声で詩を吟じるだけでこの梅と懇意になれるから、
宴会用の拍子木も酒樽もいらない。
例によって我流の訳だが、せっかくなので尾聯(7、8行目)を「隠棲」に絡めて解釈してみた。
林逋は北宋初期の人物で、40歳から西湖のほとりの孤山で隠遁生活を送った。
生涯独身で、鶴を子供、子鹿を召使、梅の木を妻に見立てたという。
確かに高雅で色白な女性に詩を囁いて、夜の深まりを待つような色気を感じる。
この詩は梅の花を詠じた作品としては屈指のもので、とりわけ頷聯(3、4行目)が有名。
前出の佐藤保は、「疎影(まばらな影)」や「暗香(ほのかな香り)」はごく普通の言葉だが、
この詩によって梅の花のイメージから切り離すことができない詩語に生まれ変わったと述べている。
隠遁を志した林逋の、孤絶し透徹した感性が、普通の言葉に詩の力を与えたのだろうか。
庭の風情を独占する白梅は、隠棲者が理想とする自画像でもある。
自分ひとりの住処は「小園」でしかないが、そこを自身が理想とする美によって染め上げたいという願いがある。
汚れた俗世間から距離をとっているからこそ、白い花の「白さ」を嘘偽りなく称えられるのではないか、とも思う。
東洋の詩の世界は、生活に裏打ちされた美の世界だ。
必ず自分自身の「生き方」が問われることになる。
表面だけ自分を良く見せる人が、詩的境地に到達することは難しいだろう。