南井三鷹の竹林独言

汚濁の世など真っ平御免の竹林LIFE

林古度「金陵冬夜」

もし自分の国が滅びた後も生きながらえてしまったら、どう生きていったらいいのだろうか。
大抵は目の前にある二つの未来の前で、思い悩むことになる。
もう国が滅びてしまったのだから、気持ちを切り替えて新しい支配者のもとで働くか、
新しい国に参加することを拒否して、忠節を曲げずに世捨て人になるかだ。

万世一系と称して抜本的な王朝交代を否定し続けている日本に比べて、中国は明確な王朝交代を何度も経験してきた。
しかし、王朝が交代しても統治機構を支える人材は必要であり、敗者たる官僚たちが引き続き新しい王朝で働くことは珍しくなかっただろう。
敵に屈することにどの程度の葛藤があったのかは計り知れないが、強い葛藤と悩ましさを引き起こす状況が容易に想像できるケースもある。
異民族が支配する王朝が誕生した時だ。

たとえば漢民族の王朝であった南宋なんそうは、モンゴル族の元げん王朝によって滅ぼされた。
中国は「韃靼だったん」と呼んで軽蔑していた蛮族に支配されることになったのだ。
南宋の遺臣たちの多くは、漢民族の優れた文化を必要としていた元げんに説得されて、屈辱の中で主人を変えていった。
しかし、最後までゲリラ戦で抵抗を続けた文ぶん天てん祥しょうは、元げんに何度も帰順を請われながらも最後は亡き王朝に忠誠を尽くして死を選んだ。
その死は皇帝クビライにも惜しまれるほどで、文天祥の高潔さは後世にまで伝わっている。

今回取り上げる林りん古こ度どにも、仕えていた明みん王朝の滅亡に際して同様の葛藤があったに違いない。
彼の資料は少なく、どのような役職にあったかはハッキリしないが、
軍の幕僚であったという情報がある。
もし武官であったならば、林古度の葛藤は文天祥と近いものがあったはずだ。
死んでいった仲間や部下を裏切って敵に従う恥を生きるか、自己の忠節を貫いて苦しい生活をするか。
おそらく彼はその二択の中で悩んだことだろう。
結局、林古度は女真族=満州民族の清しん王朝に帰順することを良しとせず、明みんの遺臣として在野に下ることを選んだ。

かつての敵に仕えることを良しとせず、敗残者として貧乏生活の中に身を投じる──、
これを戦後日本に置き換えれば、大日本帝国の政治家や官僚が、アメリカGHQの支配に屈した戦後の日本政府に従うことなく、自ら公職から退くような行為だと言える。
しかし、日本でそのような人物が有名になったり、文学的な名声を獲得したりしているだろうか。
むしろ安倍晋三の祖父岸信介のように、GHQから「公職追放」の処置を受けながら、首相へと昇りつめた人の方が有名になっている。
戦時國體では文天祥の詩「正気の歌」をさかんに取り上げて、国のために最後まで戦うことを推奨していたのだが、
敗戦後の日本には、文天祥のような忠節の精神を象徴する人物は登場しなかった。
この事実によって、いかに満州事変以後の「国に対する忠節」や「愛国」というものが、無茶を強要するための言葉でしかなかったかが証明されたと言えるだろう。

今の日本人は現行権力に抵抗せずに容易に従う人たちばかりで、支配者が変わればすぐにその流儀に合わせていく。
移り気な市場で「今売れているもの」に葦のように靡なびき、支配的風潮を疑う前にそれに乗ることを好む。
かつての敵に従属しベッタリ依存している人たちは、裏切りを隠すために「愛国」を騙かたることに恥じらいもない。
そのような戦後日本人の「軽薄さ」の前では、「節せつ」などに価値があろうはずがないのだ。
彼らは明みんの遺民となった林古度の境遇に共感することはないだろう。
だから、ここで林古度の「金きん陵りょう冬とう夜や」を取り上げるのは、戦後日本社会への僕なりのアンチテーゼだ。

 


  金きん陵りょう冬とう夜や       林古度

 老来貧困実堪嗟    老来ろうらい 貧困ひんこん 実まことに嗟なげくに堪たえたり
 寒気偏帰我一家    寒かん気き 偏ひとえに我わが一家に帰きす
 無被夜眠牽破絮    被無ひなければ 夜よる眠るに破は絮じょを牽ひく
 渾如孤鶴入蘆花    渾すべて孤こ鶴かくの蘆花ろかに入いるが如ごとし


老いらくの貧乏は、もう嘆くほかない
ひたすら寒気は、私の家だけに流れ込む
掛け布団がないので、夜はボロ布を引っ掛けて寝る
全くのところ、群れからはぐれた鶴が白い蘆の花の中に身を置いているかのようだ


井波律子『中国名詩集』によると、1644年に明みんが滅びた時に林古度はすでに65歳だったという。
この年齢で新しい王朝にどの程度必要とされたのかはわからないが、自ら出仕しなかったようだ。
その後22年にわたる貧乏生活に苦しみながらも、節せつを失わずに過ごしていたことがこの詩からも窺える。

掛け布団がないので、その代わりにボロ布を引っ掛けて寝るという寒々とした姿は、
貧困の中で遺民として生きることの大変さを効果的に伝えているが、
続く結句の比喩「群れからはぐれた鶴が白い蘆の花の中に身を置いているかのようだ」が非常に美しくて秀逸だ。
井波はこの美麗な比喩が惨めな貧乏生活と強いコントラストを示しているので、
「故意に現実とそぐわない美しい比喩をもちだし、ユーモアたっぷりに描いて、洒落のめしている」と述べている。
つまり、この比喩が林古度のユーモア精神の表れだとするのだが、この解釈はどうだろうか。

白い蘆の花の中の白い鶴、この美麗な比喩にクスリと笑いの出るユーモアがあるとは思えない。
むしろ、自分の「心根の美しさ」によって、貧乏生活の悲惨な現実を鮮やかに反転させているものと考える。
その意味で、この比喩表現には林古度の心の強さ、精神の高さを見るべきだろう。
王朝が滅びて、仇敵に従う仲間たちから孤立し、苦しい貧乏生活をしていても、
自分を汚濁なき白い花の中に眠る白い鶴になぞらえて恥じることのないプライドを持ち合わせている。
惨めな現実の境遇を撥ね返す林古度の文学的精神の高さに、僕は心を動かされるのだ。

悲惨な現実を冷徹に見つめた上で、美しい比喩を繰り出しているからこのような効果を生む。
前段の現実認識が存在せず、ただ自己を美化する比喩があるだけだったら、そこに現実逃避的なナルシシズムを見るだけに終わったかもしれない。
文学的、詩的精神の高さにおいて重要なことが、苦しい現実を冷徹に見つめることであることを示した良作と言えよう。

林古度は詩をたくさん作ったようだが、貧乏生活のなかでその多くが失われた。
ともに金陵を詠うたった王おう士し禛しんが彼の詩を集めて出版していなかったら、そのまま日の目を見ることはなかったかもしれない。
消費文化の中で登場したテクスト論によって、もののわからない人が増えたが、文学作品とは読者のために存在するだけのものではない。
わざわざカフカを引き合いに出さなくても、優れた文学作品でありながら、多くの人の目にも触れずに消えていったものは数多くある。
価値ある作品は全て商品化﹅﹅﹅されるものだと思っている人には、文学の真の価値は永遠にわからないだろう。

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無題

せっかくの良いブログも、クソリプが気分を害すので、コメント欄削除でも良いかと思います。
バカではなくアホです。

もやしさんへのコメント

どうも、南井三鷹です。
もやしさん、コメントありがとうございます。

コメントの件、了解しました。
僕はこういうのに慣れてしまっているので、読者の方の受けとめにまで思いが及びませんでした。
僕の責任でクソなコメントは非公開にします。
すみませんでした。

  • 南井三鷹
  • 2026/02/04(Wed.)

同じ詩人として身につまされる

こんばんは。評論お疲れ様です。
詩人のやややです。

詩人をやっている者としては
身につまされるお話でした。

確かに日本には
前体制に忠義を尽くして
不遇を囲っだ者を
称えませんね。太平洋戦争後は。
新選組とか忠臣蔵とかは
称えられてる気がしますけど…
(ちょっと違うのか?)
戦後は日本だけでなく世界的に
敗者に冷たくなった気がします。

林古度の境遇は身につまされました。
私は別に政府に仕えたりはしておらず
将来展望が甘かったゆえの不遇ですが、
それでも貧しさの中
こんちくしょうと思いながら
詩作するという気持ちだけは
理解できる気がします。

辛い現実から逃げなかったから
単なる逃避ではない
良い作品が生まれるというのも
刺さりましたね。
日頃から逃げずに闘おうと考えていますが
改めて気を引き締めようと
思わされました。

将来どうなるか分かりませんが
林古度のように歴史に名を残す詩人に…
とまでは行かなくとも
せめて何か爪痕を残したいですね。

では、今回もよい評論を
ありがとうございました。
次の記事も期待しております。




やややさんへの返答

どうも、南井三鷹です。
やややさん、いつもコメントをありがとうございます。

貧しさの中で詩を作ることを実行しているやややさんのような方に、
共感してもらえる記事になっていたのなら良かったです。
もちろん、文学は必ずしも苦境になくては書けないというものではありません。
ただ、実際に体験せずとも、苦境に想いを馳せることができないようではいけないと思います。
国家が戦争に突き進むことでどれほどの人生が破壊されるか、そんなことにすら想像が及ばない人が増えている今の時代、
人々から文学的な感性がどれだけ失われてしまったかが実感されます。

そういう意味で文学的には冬の時代ですが、
そんな時代だからこそ、「本物」が輝くとも言えるのではないかと思っています。
お互いに逃げずに戦う姿勢を貫いていこうではありませんか!(選挙演説風)

やややさんは「爪痕を残したい」という書き方をしましたが、
創作の心意気として書いたことは僕にもわかるのですが、やややさんには少し不似合いな言葉にも感じました。
今回の記事にもあるのですが、僕は「爪痕を残さない」ことを文学的だと考えているところがあります。
「永遠に自分の名を世に残す、刻み込む」という欲望は誰にでもあるものでしょうが、
この欲望は克服すべきものだという思いが年々強くなっています。
僕が文学賞という「客引き」に否定的なのも、そういう理由です。

トランプがノーベル平和賞を欲しがったり、高市が日本初の女性首相として名を残したかったり、
「爪痕を残す」という欲望に身を投じた人たちが、大きな害悪を撒き散らしているのが今の時代です。
これは高度資本主義の「流動性」に対して、「不動のもの」を求める「保守性」の現れであり、この欲望こそが宗教的なものと国家権力を不可分に結びつけていきます。
こういう危険で陳腐な「保守」的方向性に対して、
名を残さずに消えていく人々の人生も、名を残した人たちに劣らずに尊いものであることを「残していく」ことが重要ではないかと僕は考えています。
(そういえば昨日若い子にノーベル賞を辞退した人の話をしたばかりでした)

タイムラインに流れては消えていく「ゆく川の流れ」のような詩に、「残さない強さ」のようなものが宿ることもありうると僕は強く信じています。

  • 南井三鷹
  • 2026/02/04(Wed.)

陳腐な表現をしてしまいました(お詫び)

南井さんご返信ありがとうございます。

〉爪痕を残すというのはやややさんには不似合い

おっしゃるとおりで、
文章を無難にまとめようとして
世間的で陳腐な言い回しをしてしまいました。
恥じ入るばかりです。

爪痕を残したいというのは
人間の歴史に名を残したいとか
名誉が欲しいとかそういうことでは
ないです。
キリスト教徒としては
この世的なものに執着することは
強く戒められていますしね。

あえて言うなら
いい詩を書く人だなあと
心ある人の記憶に
ちょっとだけ残りたいとか、
神様から「良くやったな」と
褒められたいとか、
そういう感情でしょうか。
そういう意味では
今の調子でこのままいけば
それでいいのかもしれません。

世間の有名人の
スキャンダルを聞くたびに、
名もなき人々の方が
遥かに立派な人が多いのではないかと
思わされる昨今であり、
南井さんのご見解には
全く賛同します。
魂の腐った有名人になるよりは
名もなき誠実な一個人でありたいし
そうあるべきだろうと思います。

気の抜けた点を指摘されたようで
身が引き締まる思いでした。
真にありがたいことです。

では、お仕事頑張って下さい。
ご健筆をお祈りしております。

やややさんへの再返答

やややさんの真意はわかっていますので、お詫びの必要はなかったのですが、
ご丁寧に返信ありがとうございます。

良い詩を書いて神様から褒められる、というのは良いですね。
僕はやややさんみたいな信仰者ではありませんが、10歳から20歳の間は僧になるつもりで自前で修行していたので、信仰者の何たるかは理解できるつもりです。
「資本教」やインチキなナショナリズムにハマり込む人が多いのを見るにつけ、
人は宗教を求めるわりに、宗教に愛される人は本当に少ないと感じます。

神様に褒められるような「誠実な一個人」の詩を、これからも楽しみにしています。

  • 南井三鷹
  • 2026/02/04(Wed.)

プロフィール

名前:
南井三鷹
活動:
批評家
関心領域:
文学・思想・メディア論
自己紹介:
     批評を書きます。
     SNS代わりの気軽なブログを目指して、失敗したブログです。

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