南井三鷹の竹林独言

汚濁の世など真っ平御免の竹林LIFE

「他人任せ」の末路

竹林は静かだ。
慰霊碑代わりの映画のエンドロールが延々と流れているかのようだ。
この記事の前に書いた原稿は、すべて「虚しさ」からボツにした。
帰宅後にはテレビの報道番組を全く見なくなった。
SNSの情報やネットニュースが時折、車窓の風景のように流れ去っていく。

今回の選挙は民主的とは到底言えないものだった。
結果を操ろうとする力が暗躍していた。
前々から指摘しているように、トランプ政権が意図的に政局に介入した可能性が高い。
ナメたことに「勝利の要因は私だと高市に言われた」とトランプ自身が自慢げに語っている。
不正選挙を疑う声があるのは当然だろう。

しかし、すでに大手マスコミがアメリカの意向を汲んでいる以上、その声が拡大されることはない。
メディアなどに頼らずに大規模なデモをやるほかないが、直接行動を起こすほどの危機感が大多数の日本人にあるとは思えない。
それどころか、仮に選挙を公正にやり直しても、自民党が単独過半数を確保するのではないかと僕は想像している。

結局、日本の民主主義とはこの程度のものだったのだ。
日本の学校教育では、民主主義について基本的な教育をしていない。
だから民主主義の本質が、国民による「権力の管理」にあるということが、当の国民に理解されていない。
権力が好き勝手やらないように、国民が手綱を握るために選挙がある。
しかし、日本国民は政権交代を受け入れることができない。
金権政党の腐敗議員すら落選させられない国民に、良い政治を求める資格などあるのだろうか。
知識人もマスコミも政治家も、権力交代の必要性すら口にしたことがない。

いまだに国民の多くは「政治は政治家に任せるもの」だと思っている。
日本の政治は「他人任せ」という原理で動いている。
僕が生きている間に、政策を争って選挙が行われたことは一度もない。
今回以上に自民党が票を集めた2005年の「郵政民営化」をめぐる選挙の時も、
その内容を理解していた国民はほとんど存在せず、ただ小泉純一郎に対する「共感」だけで勝たせただけだった。
選挙をしても、強そうに見える政治家への「共感」で勝負が決まってしまう。
日本人が議論のできない人を首相にしたいのは、「他人の意見など聞かずに好き勝手やりたい」という欲望に「共感」する人が多いからだろう。
それならば国会議員など必要ない。
「無責任」な国民に主権を持たせた結果が、主権の放棄に結実するというブラックジョーク。
全く笑えないジョークだが、僕は無理にでも笑ってやろうと思う。

政治が「任せるもの」であれば、政権運営を経験している自民党以外は信用できない。
だから政治を刷新したいと思っても、自民党の中で「新顔」を選択することになる。
自民党総裁戦の話題は一か月間もメディアをジャックしたのに、衆議院選挙は二週間余りで即終了という事実がそれを証明している。
日本の政治には自民党以外の「選択肢」など存在しないのだ。
一つの党が政権を担うことが決まっていて、野党との議論まで排除するならば、中国の共産党支配とそう変わらないではないか。
中国を敵視する「保守」の人たちが、中国の政治体制を模倣したがっているのは、逆説的に中国共産党の勝利を証明するだけのことだ。
こんな愚かな連中を笑わずにいるのは僕には難しい。

70年安保闘争以降、対米従属に対する是非という戦後政治の最大争点は隠蔽されている。
80年代のバブル経済に踊る中で、日本人はすっかりアメリカに去勢されてしまった。
バブル時代に青春期を過ごした60代が「去勢世代」の始まりであり、まさにこの先頭にいるのが高市早苗となる。
60代以下の世代は、母なるアメリカに去勢された坊ちゃん嬢ちゃん──「村上春樹モデル」の「ポスト全共闘世代のノンポリ」──であり、「マザーアメリカ」の強い抑圧の中で生きている。
「オタク」の走りとなるマザコン世代と言ってもいい。
(ちなみに女性におけるマザコンは、自己犠牲的な母になることを忌避する欲望主体としての娘ポジションに対する固執として現れると僕は考えている)

「去勢世代」は「マザーアメリカ」に強く抑圧されているので、
たとえアメリカに対する反発心が芽生えても表に出すことはできず、その「行き場のない不満」を中国に対する敵視へと変換している。
つまり、中国への敵意のかなりの部分は、実はアメリカに対する劣等感から生まれているのだ。
親から強く抑圧されている「デキる子」が、クラスの落ちこぼれをイジメて「憂さ晴らし」をするあの図式を思い浮かべれば、日本人ならすぐ得心するだろう。
少し考えればわかることだが、実際に中国が敵陣営であった冷戦期よりも、貿易や観光で関係の深い今の時代に中国敵視が強まるのに功利的な要因などありようがない。
ただ、心理学的な事情があるだけだ。
「マザーアメリカ」の抑圧に屈したマザコン坊ちゃん嬢ちゃんばかりだから、日本の知性は落ちぶれたのだ。
これが日本に政治も文学も思想も存在しなくなった最大の理由だ。

テレビ・新聞などの「オールドメディア」や有力野党もすっかりアメリカに去勢されている。
だから点数稼ぎの消費税減税などを「偽の争点」とするばかりで、
アメリカと対峙することになる憲法改正や防衛増税を争点化することから逃げた。
まったくの腰抜けマザコンばかりでウンザリする。
僕の論法についていけない人もいるかもしれないが、日本のアメリカコンプレックスとマザーコンプレックスは密接に繋がっている。
対米従属が強まった時代と子供が反抗せず従順になった時代が重なっていることに、誰か気づく人はいないのだろうか。
僕はいろいろなところで権力と戦って痛い目に遭わされたが、一緒に戦う気概のある人はいなかった。
日本人がマザコンを克服し、アメリカから自立しようと決意しないかぎり、日本人の手に政治は戻ってこない。
マザコンという前段をすっ飛ばして政治の話だけをしても意味はない。



政治的議論の中心がSNSになっているのは悲しいことだ。
なにしろSNSで勝利するのは、反知性主義でしかない。
そもそも短文系SNSは非論理的なメディアだからだ。
批判が「悪口」だとしか思われないのは、SNSという「消費の場」で交換されるものが「共感」でしかないことにある。
(ちなみにこのような共感を「想像力」という言葉で偽装し、理性よりも共感による連帯の重視性を主張したのが東浩紀だ)

「共感の政治」しかないのであれば、衰退状況の国家で「保守」が勢力を拡大するのは必然だ。
誰だって落ちていくのは嫌だ。
上がることがなければ、落ちないように「現状」にしがみつくほかない。
それでも落ちることが止められないのなら、閉鎖的な世界に閉じこもって現実から目を背けるしかない。
下がっているエレベーターの中で、「このエレベーターは昇っている」と思い込むのだ。
アベノミクスとはそういうものだったし、そのパロディである高市政権にも現実逃避を続ける以外の選択肢はない。
そういう国では、「このエレベーターは下降している」という真実を口にすることこそが最大のタブーになる。
──「裸の王様」とそれに媚びる臣下しか存在しない国。

現状認識を間違えてはいけない。
批判や悪口、サヨクやリベラルが「嫌われる」のではない。
現実逃避的な「共感」を壊す真実を口にする人が、現実逃避を旨とする「保守」勢力から嫌われているのだ。

僕は過去に書いたものを読み返すことがほとんどないのだが、
ある必要から過去の文章を読み直したら、8年もの時間がありながら、日本人がちっとも状況を変えられないことがわかった。
僕が2018年2月に「現代思想」という雑誌のレビューで書いた文章を引用する。

経済の衰退局面でロマン主義が政治化すると、癒しでしかなかったロマン主義思想がそれと結託して調子に乗り始めます。
直視したくない現実からメタ的に離脱することが正義であるかのように語り始めます。
そうやって現実を見失うことは非常に危険なことです。
現実の問題と格闘せずに、そこから「逃走」するためにフィクショナルな方向に全力で舵を切るようになるのです。
(人間不在の領域が重要とか言っている思想が表に出て、それが悪利用されたら彼らは責任を取るのでしょうか)
そんな今だからこそ、思想を癒し目的の商売道具にしている連中から、真に必要とする者の手に取り戻すべきだと僕は思っています。

この文章では、日本の「現代思想」に見られる現実逃避的な「ロマン主義」を問題にしているが、
その価値観が政治と接合した時の危険性を指摘したのが引用部になる。
「癒し」を目的としていた現実逃避が暴走し、完全にフィクショナルな「正義」が崇められる政治へと向かっていくことは、僕がすでに予言していた通りの展開なのだ。

60年代までの「戦後思想」を中心で担っていた丸山眞男が政治﹅﹅学者であったのは、思想と政治の結びつきを示す上でのわかりやすい事実だが、
「戦後思想」にはアメリカに学びながらアメリカに抵抗するという、複雑かつ高度な面が存在した。
しかし、80年代以降に「戦後思想」をかき消すように登場した東大閥の〈フランス現代思想〉(=ポストモダン思想)には、
政治や現実社会からの消費的な「逃走」があるばかりで、アメリカの支配に対する抵抗も闘争も存在しなかった。
歴史性の評価に関しては揺り戻しはあったものの、本当の意味でポストモダンに「左旋回」などありえなかったのだ。
何度も言っているように、ポストモダンとは敗北左翼の思想であり、自分たちの敗北を消費的享楽でごまかし、それを正当化するための「思想なき思想」でしかなかった。
「思想なき思想」は「文学性なき文学」や「ポエジーなき詩」や「芸術性なきアート」と結託して勢力を拡大し、
アメリカ帝国主義のグローバル消費市場で認可を受けた、ステ﹅﹅ルス﹅﹅権威﹅﹅的で退屈なものばかりとなった。

もう日本などどうでもいいが、一応真面目なことを書いておくと、
今の高市政権やそれを支持する「保守」勢力を本気で批判したいのならば、80年代以降のポストモダンの「マザコン的去勢オタク文化」を問題にする必要がある。
それはつまり、自分たちが「知的」だと信じてきた価値観の反省と、「戦後思想」の見直しから始めるということだ。
アメリカと戦えない人たちがアメリカ属国化を進める首相を批判しても、「負け犬の遠吠え」以上のものにはならないだろう。

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ありがとうございます

Xでは仏文の没落が取り沙汰されてますが、その前に自身が種を蒔いた思想の劣化の反省をしてもらいたいものです。

Jun Sugawaraさんへの返答

どうも、南井三鷹です。
Sugawaraさん、ご愛読とコメントに感謝します。

Xで大学のフランス文学科に人気がないことが話題になっていたみたいですね。
正直、僕は文学部全体が没落しているような気がするのですが、
とりわけフランス文学科が問題にされるのは、英語帝国主義の影響でしょう。

20年前はツール・ド・フランスでの選手インタビューはフランス語が基本でした。
アメリカ人のランス・アームストロングがわざわざフランス語でインタビューに答えていたくらいです。
しかし、今やツールの選手インタビューは英語が基本です。
ハッキリ覚えていないのですが、フランス人選手も英語で喋っているのではないでしょうか。

〈フランス現代思想〉はドイツ思想のリミックスみたいなものだと僕は思っています。
差異やズラしを称揚したのも、ヘーゲルやニーチェやハイデガーをズラしている自分たちの迂遠な自己弁護だったわけです。
しかし、日本の〈フランス現代思想〉の商売人たちに、そのような意識が乏しかったのは間違いありません。
いわゆる日本のアカデミズムが「タコツボ型」であるため、フランス思想の研究者はドイツ思想に詳しくなかったのではないでしょうか。
ヘーゲルを国家主義的な思想家と扱って、そのアンチこそが〈フランス現代思想〉であるかのように語っていました。
そのため、「現代思想」から思想の勉強に入った僕が、ヘーゲル思想を取り入れたコジェーヴやイポリットの存在を知るまでにはだいぶ時間がかかりました。
〈フランス現代思想〉の連中が京都学派だとやたら西田幾多郎ばかりを取り上げるのも、
西田思想にフランス人のベルクソンの影響があるからではないかと僕は疑っています。

こんな話はSugawaraさんには釈迦に説法でしょうが、
やっぱりフランス人は体系的な深い思索より、「アレンジ」に重点があるファッションや料理の方が向いているという印象が強いですね。
実は僕が好きな思想家はギー・ドゥボールとポール・ヴィリリオでフランス人なのですが、
彼らの思想スタイルはアフォリズムですから、やはり体系的ではありません。

  • 南井三鷹
  • 2026/02/22(Sun.)

プロフィール

名前:
南井三鷹
活動:
批評家
関心領域:
文学・思想・メディア論
自己紹介:
     批評を書きます。
     SNS代わりの気軽なブログを目指して、失敗したブログです。

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