南井三鷹の竹林独言

汚濁の世など真っ平御免の竹林LIFE

負けヒニンが多すぎる!

今の日本経済はどうにもならない。
もはや日本の政治能力でスタグフレーションを回避できるとは思えないので、政治批判をするのも徒労に思える。
たしかに高市はどうしようもない為政者だが、危機的状況で他者依存のポピュリストを首相にしてしまう国民に問題があるのは明らかだ。
結局、戦後日本人の根幹にあるのは「甘え」だけなのだ。

日本はゆっくりと自殺﹅﹅へと向かっている。
自らの手で自分を殺す方向に進みながら、誰もそれを止めようとしない。
いや、止める止めないの選択より前に、「未来の破滅」を自覚することから全力で逃げている。
自分で自分の首を絞めながら、息が止まる最期の瞬間まで、自分の首を絞めているのが自分自身であることを自覚﹅﹅しない﹅﹅﹅ことだけに力が注がれているのだ。
完全に自殺を果たすまで、自殺をしようとしていることを否認﹅﹅する。
現実を否認する手段はもっぱら「他人のせいにする」ことばかり。
自分の悪事を自覚することから逃げるために、「批判をする人が悪い」と甘えたことを偉そうに言う。

本当におぞましいのは、ほとんどの日本人が「現実から全力で逃げている」ということだ。
国際的地位や国力で中国に「負け」たことを認めたくないために、現実逃避をしてさらに「負け」へと突き進んでいる。
どうやら日本人の頭の中では、意識の上で「負け」を認めなければ、負けていないことになるらしいのだ。
(だから、日本の現状を批判する人を「敗北左翼=中国側=支配体制の敵」と罵る)
しかし、負けを否認することが勝利となる「自意識と現実の戦い」に、勝算などあるとは思えない。
下に見ていた相手との「勝ち負け」にこだわる幼稚な心理で、過剰にアメリカを頼って日本は身を滅ぼそうとしている。

イメージは太平洋戦争末期の社会状況と重なる。
もはや敗戦は確実という状況になっていても、その「現実」から逃げるばかり。
自力で状況が打開できなくなると、同盟国ドイツの勝利に期待をかける。
それも望めなくなると、国民に「一億玉砕」という「集団自殺」を強要し、「負け」を認めずに自決しろと言う──、
そんな戦争末期の心理状態に似過ぎている。
アベノミクスや日銀の異次元の量的緩和の失敗は明らかなのに、それを公然と口にすることを許さず、
あろうことか、その失敗を認めたくないがために、高市に「失敗の上塗り」(サナエノミクスとか語呂まで無理をしてる)をさせている。
今度も日本は「負け」や「間違い」を認めないことにこだわって、集団的な破滅を選ぼうとしている。

政府と日銀が「現実から逃げている」ことを雄弁に物語る事例を挙げておこう。
インフレの進行に対して中央銀行が取るべき手段は利上げになるが、
このまま円安と人材不足が進んでインフレ率が急上昇しても、日銀が十分な利上げをすることは不可能だ。
その理由は、利上げをすると国債の利払いが増えてしまうからだ。
日本政府は現状の低金利を前提として国債残高を増やし続けてきたので、今更金利を上げてしまうと政府の財政危機を招き、国民生活が窮乏してしまう。
つまり、日本政府は永遠にデフレが続くという前提で国債発行をしてきた。
「永遠の今」がタイムリープするポストモダン状態を絶対化して、デフレ脱却後の未来を意識から消し去っていた。
だから、政府や日銀はいまだにデフレから脱していない、という嘘の発表フェイクニュースをして現実を否認し続けている。
正直、気が狂っているか、知性を放棄しているとしか思えない。

国家財政はもう詰んでいる。
その原因は、既得権益を貪る現体制の失敗を日本人が認められなかったからだ。
最大の問題は「集団性」にある。
「日本人は国家レベルで集団化すると、自分たちの間違いを認められない」──これに尽きる。
日本において最大集団=国家は神のような無謬性を持つことになっているのだ。

その意味で、日本人はいまだに大日本帝国以来の「國體」を放棄していない。
戦後になっても国家権力の最高機関を神とする信仰を放棄していないからだ。
(おそらく「國體」の定義はあやふやだと思うが、僕はこれを「現行国家体制の保持を示す、国家規模の自己保身的な概念」だと考えている)
「戦時國體」は戦時中に天皇を「現人神」として信仰することを要求したが、
戦後に天皇が人間宣言をしてからは、天皇の代わりに在日米軍を神の位置へと置き換えた。
在日米軍は旧帝国軍に代わって「國體」を守護する「神の軍隊」として、今も日本人の信仰の対象となっている。
だから「戦後國體」の信仰者にとって在日米軍を脅かす中国人民解放軍とは、神に仇なす「左翼サタン」の暴力であり、
仮にアメリカと中国との間で戦争が起きれば、日本国はそれを「聖戦ジハード」として戦うことになるはずだ。
(残念ながら、厳しい砂漠の神様は「甘え」を許してくれないだろうが)



在日米軍やそれに従属する国家権力の神格化がなぜ起こるのか──、
この心理を説明することは可能だが、僕は心理などにかかずらわることは無益だと考えているので、詳しく書く意欲がわかない。
一つだけ言っておけば、日本人の根本にある「過剰な不安感」と「集団への依存心=甘え」の結合に問題がある。
不安感が人一倍強い日本人は、不安に苛まれるほどに甘えを強めて、所属集団やその権力機構と一体化するようになるのだ。

十分に心理を解きあかさなくても、「國體」への信仰が現在も継続されていることを確認するのは難しくない。
在日米軍や日本という「國體」と一体化している人ほど、決して米軍や日本さらには自分自身の間違いを認めようとしない。
「國體」の無謬性を信仰することによって、そこに従属する自分自身の無謬性が保障されるからだ。
このような「國體」依存はネトウヨ保守などの低レベルの個人から、日銀や省庁、地上波マスコミなどの国家的組織まで全てに当てはまる。
在日米軍や国家権力を無謬の神として信仰する人たちには、「日米同盟」やアメポチ体制に間違いがあるなどということは認められない。
記録を改竄したり、都合の悪い事実を隠蔽したりして、その無謬性を維持するのだ。
なにしろ、在日米軍とそれとタッグを組んだ国家権力が無謬の神でなければ、信仰者たちの「過剰な不安感」が爆上がりしてしまう。
ここでは不安の強さが、権力信仰の強さへと「交換」される。
「國體」の信仰心においては、国が落ち目になればなるほど、国民に向かって「強い国」をアピールすることになる。
神を縛る法など宗教にあるはずはないのだから、神である国家を憲法で縛るという発想などは、たとえ国際的常識であろうが日本の「國體」信仰者たちには通用しない。

日本で政権交代が起こらない理由もここにある。
在日米軍という神の下で長きにわたって政権を担ってきた自民党は、キリスト教における教会権力と似た位置を占めている。
簡単に言えば、在日米軍が「神」であれば、その代理となる自民党は「教会」であり、総理大臣は「教皇」となる。
主に自民党の国会議員の投票で総理大臣が決定する閉鎖的システムは、ほとんどコンクラーベ(教皇選挙)のパロディではないか。
(自民党の実態が「教会」であるならば、旧統一教会と親しくても不思議はない)
このような状況下における政権交代は「宗教改革」もしくは「集団的信仰放棄」を意味する。
これでは政権交代の敷居が高くなるのも当然だろう。
日本人はアメリカ政治に「福音派」の影響があるとか、外国に対しては政治と宗教の共犯性を客観的に分析できるが、
在日米軍という武神を信仰する自分たちの屈折した宗教政治について、明らかにしようという人はほぼ皆無だ。
(たとえば特撮作品のサブカル批評で、ゴジラが原爆を象徴とする破壊神であり、ウルトラマンが在日米軍の象徴だという読み解きはできても、
日本人の在日米軍信仰﹅﹅がウルトラマンを生み出したとまでは指摘できない)

日本の知識人やアカデミズムは、日本に欧米諸国と同じ民主主義システムがあるかのような「先進国幻想」に安住して、
日本人の問題点について探究した「戦後思想」を学ぶことをサボっている。
これも間違いなく「自己否認」であり、日本の知的レベルがどれだけ下降したかを示している。
根源が集団信仰なので、国家が危機的状況に陥って人々の不安感が強まるほど、おす﹅﹅がり﹅﹅したい﹅﹅﹅在日米軍やその代理国家(=神)に対する批判が異常なほどに許されなくなる。
「國體」の批判をする者は「敵=左翼」であり、これを攻撃することで信仰者としてのアイデンティティは強化される。
このような権力批判の封殺が、いわゆる近代的なナショナリズムを原資にしているのではなく、
集団信仰を背景にした土俗的(村社会的)な現象だと、実際は多くの人が感じているのではないだろうか。
これが本当にナショナリズムであれば、高市のような国益を害するトップはもっと批判されるだろう。
アメリカ依存の無能な権力者を大衆が支持する現象は、多くの日本人が求めているものが現実的対処ではなく、「強者依存による心理的慰安」でしかないことを示している。

なぜ日本人の信仰心は国家を超えて普遍化しないのだろうか。
世界の端っこにある「閉鎖列島」には、普遍宗教の力が十分に及ばなかったからだ。
だから、どんな宗教も国家権力を超えられない。
たとえば鎌倉時代に曹洞宗を開いた禅僧の栄西は『興禅護国論』を、日蓮は『立正安国論』を執筆しているが、
どちらも「鎮護国家」を目的とした仏教を語っていることに注意しなければならない。
柳田聖山『禅の時代』には、「日本仏教の諸宗がたどった道は、ほとんどすべて国家仏教の復活であり、純粋に王権を超えた仏教を守ったものはきわめて少ない」とある。

『興禅護国論』の全体を通じて、明確にうかがわれるのは、王仏一如の主張である。その当否はしばらく論ぜず、この思想が日本仏教の重要な伝統をなしていることは、すでに周知のごとくである。特に、最澄以来、鎮護国家を謳うたう叡山仏教の伝統を、必ずしも否定せぬ栄西において、その傾向が強化されるのは当然である。さらに彼が入宋して親しく見聞した大陸の禅宗も、五山十刹の制に見られるように、また徹底した国家主義のそれであった。すでに周知のように、遼や金の圧迫に抗しつつ、漢民族の伝統文化を守らねばならなかった宋朝の仏教が、そうした性格を持っていたことは当然のことである。
(柳田聖山『禅の時代』)

この引用文で明快に説明されているように、中世仏教は国家主義に属していた。
そのルーツが異民族の武力に苦しんだ宋代の中国にあるというのは興味深い指摘だが、
海外の普遍宗教が自国を防衛してくれるものならば、自国を防衛する海外の普遍的﹅﹅﹅軍隊を、普遍宗教の「使徒」と見なして「信仰」しても不思議はない。
(この仮説が正しければ、アメリカ軍が「世界の警察」をやめて普遍的存在でなくなると、日本人の在日米軍信仰は大きく揺らぐことになるはずだ)

仏教は江戸時代になると末端まで政治体制に組み入れられ、やがて葬式仏教として去勢された。
日本で新興宗教が代理政党を作ってしまうのも、宗教が国家主義の下に属する国ならではの現象と言える。
笑ってしまったのは、日本ハリストス正教会教団の「手引」を読んだら、「日本正教会では現在『わが国の天皇および国を司る者のために祈る』と唱えています」などと書いてあったことだ。
国家権力が普遍宗教の代替物であり続けるには、他の宗教を国家権力の下位に服属させる必要がある。



普遍宗教を模倣した国家主義が、戦後に在日米軍信仰へと置き換わった。
在日米軍と国家権力の結婚が「戦後國體」という神を産み落としたと言ってもいい。
駐留軍隊を父なる神とするという発想は、軍事政権の肯定であって、普通の民主主義国家であれば到底受け入れられないだろう。
しかし、日本にはそれが難なく受け入れられる土壌がある。
なぜなら、江戸時代の日本は軍事主導の「兵営国家」だったからだ。

この認識は丸山眞男に由来する。
丸山は徳川体制を、戦国時代のローカルな分国統治をスタティックに「凍結」したものだと言う。
つまり、江戸時代は完全な中央集権的体制ではなかった。
西洋のような絶対主義王権の成立が、日本では近代に当たるはずの明治時代になってから実現したところに、
絶対王権的な「現人神」への信仰が強要される要因があったと僕は考えているが、これについて詳述する余裕はない。

丸山の「兵営国家」論に戻ろう。
これについては1959年の「開国」という文章が参考になる。

徳川のレジームが戦国割拠の状況の凍結﹅﹅にあったことはなにより、幕府及び諸藩の行政組織が一朝時ある時にはその﹅﹅まま﹅﹅軍事組織に転化し、戦時動員体制へのきりかえが瞬間にできるように仕組まれていた点にあらわれている。諸藩間のコミュニケーションは幕府によって制限されただけでなく、諸藩自ら﹅﹅も﹅それぞれ固有の武装権と行政権をもって厳重に自己の閉鎖性と自足性とを維持しようとした。
(丸山眞男「開国」『丸山眞男集 第八巻』)

江戸時代が天下泰平の世だというのは結果論であって、実際は「諸藩の大名が固有の武装権と行政権」を持つ戦国状況を停止させた政治体制でしかなかった。
だから、非常時になれば戦時体制に瞬時にスイッチが切り替えられる。
「自己の閉鎖性と自足性とを維持しよう」という諸藩の欲望は、まるで今の自称「保守」のアメポチ勢力の欲望を語っているかのようだ。

もし二十世紀の全体主義国家のイメージから抽象されたラスウェルのいわゆる「兵営=牢獄国家」にもっとも近い形態を、過去の世界史上に求めるとすれば、まず指を屈せられるのは徳川幕藩体制にちがいない。しかもそれは全国単一に組織された兵営国家ではなく、大小さまざまの兵営国家が、その上に「征夷大﹅将軍﹅﹅」に統率される全国的な兵営国家をいただくという重層構造をとっていた。徳川時代の最大の歴史的逆説は、このような爪の先まで武装した超軍事体制を基礎としながら、二世紀半以上にもわたって内乱や革命的動乱から免れた「泰平」状態を現出させたことにある。
(丸山眞男「開国」)

小さな兵営国家の上に大きな兵営国家があるという兵営国家のマトリョーシカ構造こそが、徳川幕府の支配体制だと丸山は言っている。
この構造が日本の戦時ファシズム体制に見られる「部分と全体の一致」のルーツになっている。
江戸時代が「兵営国家」であるという認識は、現代の近世政治史研究においても前田勉らによって支持されている。
そもそも江戸時代の官僚とは武士であり、歴史的に見て「幕府」の統治が純粋な「文官による統治」であったことは一度もない。
ここは軍事体制が「天下泰平」をもたらすという逆説的認識がまかり通る国なのだ。
このような国で、在日米軍による統治こそが平和をもたらすのだと信じて、在日米軍を無意識のうちに神同然の無謬の存在として扱う人が多数現れたとしても、特に驚くに当たらないのではないか。

これが多くの日本人が否認している「不都合な真実」の全貌だ。
論考にして本を出すことも考えないではないが、
いつの間にか「戦後思想」を葬ってしまった日本人の知性に、僕は不信感しか持っていない。
仮にうまく論考としてまとめることができても、「自己否認」を教義とする宗教的権威の信者たちが正当に評価できるはずはあるまい。
むしろ労力をかけた結果、嫌な目に遭うというオチが待っているだけだろう。
僕は誰かに認めてもらおうとは思っていないし、だからこそ自分の考えを広めようとも思っていない。
ただ、自分だけは真実と共にありたい、という思いと、バカとはなるべく関わりたくない、という思いがあるだけだ。

ということで、僕は竹林にいることを好む。
在日米軍と代理国家を無謬の神として崇めないと生きていけないアメポチたちによる「集団自殺=殉教」などに巻き込まれるなんてアホらしすぎるからだ。
アメポチ連中は今現在﹅﹅﹅トランプのご機嫌をとるのに必死で、トランプ後のアメリカや世界のことなどまるで頭にない。
心理主義の弱点は今現在﹅﹅﹅に固着してしまうことにある。
だから心理をプリンシプルにする人間に、時間という概念はない。
このような「目先以外の時間の欠如」が、日本人が「自己否認」をする時の典型的現象なのだ。
間違いを認めて出直せばいいだけなのに、集団化するとそれができない。
後は野となれ山となれ──日本の大衆心理が最後に行き着く先は「ヤケクソ」と決まっている。

それもそう遠い未来ではなさそうだ。

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「コンクラーベのパロディ」に大笑い

こんにちは。
執筆お疲れ様です。
詩人のやややです。

タイトルの通り
「総理大臣の選出ってコンクラーベの
パロディやんけ」に
膝を叩いて大笑いしました。

宗教嫌いの日本人が
実は國體という政治体制を
信仰してる(のに自分で気づいてない)
のは実に皮肉ですね…

在日米軍を神の軍隊として
実質的に崇めてるというのは
天下統一した神君家康公から
大政奉還で天皇制になったあと
その後アメリカ大統領が
また征夷大将軍になったような
もんじゃないかと
思いましたね。

どうせ何かしらの信仰や
宗教信じていかないと
やってられないのなら
正しい神様を
信じるべきだと思うんですけどねえ。
キリスト教は問題も起こしましたが
真っ当に信じれば
これほど良いものは無いですよ?
(そう思っているから信者やってるんですが)
(あるいは信者だからそう思うのか)

道理というか筋目としては
日本の建前が民主主義の独立国家だっつーんなら
アメリカ依存を断ち切らんかい、
という南井さんのご意見には
全く賛同するんですが、
現実的にはそうなりそうも
ありませんからね…
日本人の無意識に絡みつく
精神的悪癖を治さないと
にっちもさっちもいかないだろうな、
と読んでいて思いました。
百年単位の心理改造が
必要なのでは…

私も一個人として
少しでも世の中よくしてえなあと
思うのですが
南井さんは理想に近づくために
これからの身の振り方というか
アテはあったりするんでしょうか?

そーいうお前はどうなのよ、
と言われると、
私事ですが
苦しみつつも信仰を深めていくと
ついさっき神様から
「お前は信仰を守った。
お前が心から望むものは
すべて与えよう」
とのお達しが来ました。
やったぜ。
というわけで神様の守りを
もっぱらアテにしております。

もっとも望むものが与えられると言っても
徐々にでしょうし
もしかしたら天国に行った時に
与えられるのかもしれませんが
そうだとしても霊的には
救われたので
ヨシ!(信者猫)

現実から目を逸らす
そんじょそこらの現代人とは全く違う
精神的勝利であります。
(お前も現実から目を逸らしてるのでは?)
(だまれ)

それはともかく。
今回も面白い評論でした。

これからもご健筆を
お祈りしております。

南井さんに神様の祝福が
ありますように。














やややさんへの返答

どうも、南井三鷹です。
やややさん、コメントをありがとうございます。

日本人は宗教嫌いなのではなくて、自分たちが所属集団信仰をしていることを自覚していないだけに思えます。
僕は「スポーツ国籍コロンビア人」でずっと生きてきたのですが、
こういう相対化が当たり前になると、なぜ母国というだけであれほど肩入れできるのか、
むしろ僕には「普通の人たち」の感覚の方が不思議です。
きっと「所属している」ということに大きな価値があると感じているのだろうと推測している次第です。

「アメリカ大統領が征夷大将軍になった」とやややさんは言いますが、
うるさく言えば、「在日米軍が征夷大将軍になった」が正しいですね。
あくまで在日米軍が貴種流離譚として、この地に訪れているから信仰しているのです。
アメリカ大統領はやはり「外国の人」でしかありません。
小泉八雲とか、クラーク博士とかの類いですよ。
在日米軍の司令官のジョストが将軍のコスプレでもすれば、きっと人気が出るでしょうね。

僕の「これからの身の振り方」をお尋ねですが、国外脱出を含めて、特にアテはありません。
やややさんのように神に助けてもらえることもないでしょうが、
自分の人生にはだいたい満足しています。
記事にも書いたように、ただ「真実と共にありたい」だけですね。

  • 南井三鷹
  • 2026/04/02(Thu.)

無責任を信じる

コメント失礼します。

負けを否認することが勝利になるという点について、私は勝敗を審判できる立場にあるか(少なくとも今の日本にはない)に重点があるのではと思いました。

その姿勢が、ルールを共有してゲームを構築していくよりも、メタ的に審判をすることでルールに則っていると見せかけることを望むのではないと考えました。(チートも含め)

南井様は交換について、価値が等しい物を交換するのではなく、交換によって価値が等しくなり擬似的に対等な関係になると紹介されました。この問題を暴力団を例に提起しています。

力によって自分をドーピングして対等な関係になることができるのならば、価値を共有し対等な関係を築くような事をすることはありません。

幕府と藩による入れ子構造の兵営国家が天下泰平として成立するのは、力による変更を共有し、上に対しても下に対しても対等であることから逃れられるからではないでしょうか?

仰る通り、これは自己閉鎖性と自足性に根差したものであり、これを自主性などと勘違いすることでやれ幕末志士だの青年将校だのに革命的精神があったと思いこませられるのだと理解しています。(ルールの改革ではなく、ルールの更新にすぎません。)力関係が変わっただけで、力による前提は変わっていません。

力による関係に頼るしか能がない以上、その力を保証してくれるのは駐日米軍になります。その力がある以上自分達が価値を決められるのだと心理的に思い込め、無責任を信じることができるのでしょう。むしろ力による価値決定がより純粋であるために自己否認をする。(菊と刀)つまりトンデモですが無責任でいることを信仰しているのではないでしょうか?

何ものも信じない信仰など自己矛盾です。だからその場において認めてくれる存在が必要です。一神教のように神の承認を信じるために他の信仰を否定するのとはさかさまで、他の信仰を否定することで承認してくれると信じる取っ替え引っ替えの八百万の多神教(天皇)なのだと考えています。(トランプと歩調を合わせているのに平気でいられるのは光と影だからでしょうね。)もっとも、これはホラー小説を読んでたら恐怖よりも寧ろ共感の方が勝ってしまい、自分にも不可知の力への陶酔と服従の精神があると気づき思いたったものです。

負けを認めることは自分達の信じる力が覆ることであり、自分達が判断していた責任を問われることになります。それを回避するには他の力に頼って守ってもらうか、実は負けていないのだと行動によって見せつける(忠臣の切腹)ことになるでしょう。高市の姑息な解散選挙は国民に認めてもらうなどという権威の力が維持できなくなったために数の力に頼ったアリバイ(不在証明)工作であり、それを純粋に信じ込んで破滅へと進む事を是とする無貌のナルマゾポテフことネトウヨを自称する皆さんによって責任は回避されていくのでしょう。(avoidance=アホダンス、なんつって)

こうして南井様がこんなコメントに対等に接してくださることが、私の契機だったのかもしれません。対等に、けれど正確に、自分で判断し人と接していけるよう取り組んでいきます。

ご精読ありがとうございました。

往来市井人さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
往来市井人さん、いつもコメントをありがとうございます。

幕府と諸藩による入れ子構造で成立した兵営国家は、たしかに力による支配、力による価値決定で成立していました。
丸山眞男も幕府が圧倒的物量を持つために、戦国割拠状況を凍結させることができた、としています。
その意味で江戸時代は純粋な力の支配だったと言えるでしょう。

しかし、戦後日本についてはそう簡単にはいきません。
支配者たる在日米軍は外国の軍隊でしかないからです。
そうなると、力による価値決定を前提としてしまうと、自分たちの手に決定権はないことになってしまいます。
僕の考えでは、この「自分たちに真の決定権がない」という事実こそが、日本人の「無責任」を支えているということになります。

ここで日本人はアンビバレンツな感情に悩まされます。
社会が豊かで安定しているかぎり、決定権を持たない無責任な「子供」は、ファッションや趣味などの消費に享楽できるのですが、
経済停滞や国際状況の不穏さが増すと、自分たちに「大人」としての決定権がないことが致命的になってきます。
そこで、戦後日本人は、「子供」として甘えたいという感情と、「大人」として自己決定したいという感情の板挟みになるわけです。

その結果、在日米軍に依存しながら、日米同盟が「対等」であり、自衛隊は米軍の補助ではなく「国防軍」である、という「大人の顔」をしたいという両面的な欲望が生まれました。
この欲望に忠実だったのが安倍晋三であり、それに吸い寄せられたのがネトウヨ「保守」です。
しかし、憲法の文章を変えるくらいで子供が急に大人になれるわけもないのは、憲法を変えたがっている「保守」の人たちを見れば明らかです。
今の保守ポピュリズム政権では、「対等な日米関係」などという言葉すら聞かれず、
日本国憲法はアメリカからの「押しつけ」だとか言っていた人たちが、トランプ政権の後押しで憲法を変えることに矛盾を感じることさえできなくなっています。
結局、あるのは単に力に対する隷属でしかなかったのです。

「ないものねだり」が今のバカバカしい政治状況を生み出しました。
責任を負うことを回避しているのに、大人として扱われたい、
そんな人間があまりに多くなりすぎてしまった、というわけです。
競争原理も能力主義も嫌いな日本人に、力の支配に耐性があるとは思えません。
最近は「戦争反対」のデモが人を集めているようですが、じゃあ戦争をしないためにはどうするのか、という視点が欠けているように感じるのは僕だけでしょうか。

ちなみに八百万の神は他の信仰を否定するわけではないと思いますよ。
日本の多神教には、神様に明らかな「序列」があります。
僕が日本では国家を超える宗教がないように統制されている、と言ったのは、
序列一位が「国家」であることを、なにものも変えることはできないという原理に基づいています。
神やその信仰に「序列」があるという日本的事実は、たとえば西洋文学精神による一神教的な信仰模倣では簡単に太刀打ちできない堅固さがあると思っています。

今回も興味深いご意見をありがとうございました。

  • 南井三鷹
  • 2026/04/04(Sat.)

プロフィール

名前:
南井三鷹
活動:
批評家
関心領域:
文学・思想・メディア論
自己紹介:
     批評を書きます。
     SNS代わりの気軽なブログを目指して、失敗したブログです。

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