汚濁の世など真っ平御免の竹林LIFE
『興禅護国論』の全体を通じて、明確にうかがわれるのは、王仏一如の主張である。その当否はしばらく論ぜず、この思想が日本仏教の重要な伝統をなしていることは、すでに周知のごとくである。特に、最澄以来、鎮護国家を謳う叡山仏教の伝統を、必ずしも否定せぬ栄西において、その傾向が強化されるのは当然である。さらに彼が入宋して親しく見聞した大陸の禅宗も、五山十刹の制に見られるように、また徹底した国家主義のそれであった。すでに周知のように、遼や金の圧迫に抗しつつ、漢民族の伝統文化を守らねばならなかった宋朝の仏教が、そうした性格を持っていたことは当然のことである。(柳田聖山『禅の時代』)
徳川のレジームが戦国割拠の状況の凍結にあったことはなにより、幕府及び諸藩の行政組織が一朝時ある時にはそのまま軍事組織に転化し、戦時動員体制へのきりかえが瞬間にできるように仕組まれていた点にあらわれている。諸藩間のコミュニケーションは幕府によって制限されただけでなく、諸藩自らもそれぞれ固有の武装権と行政権をもって厳重に自己の閉鎖性と自足性とを維持しようとした。(丸山眞男「開国」『丸山眞男集 第八巻』)
もし二十世紀の全体主義国家のイメージから抽象されたラスウェルのいわゆる「兵営=牢獄国家」にもっとも近い形態を、過去の世界史上に求めるとすれば、まず指を屈せられるのは徳川幕藩体制にちがいない。しかもそれは全国単一に組織された兵営国家ではなく、大小さまざまの兵営国家が、その上に「征夷大将軍」に統率される全国的な兵営国家をいただくという重層構造をとっていた。徳川時代の最大の歴史的逆説は、このような爪の先まで武装した超軍事体制を基礎としながら、二世紀半以上にもわたって内乱や革命的動乱から免れた「泰平」状態を現出させたことにある。(丸山眞男「開国」)
こんにちは。
執筆お疲れ様です。
詩人のやややです。
タイトルの通り
「総理大臣の選出ってコンクラーベの
パロディやんけ」に
膝を叩いて大笑いしました。
宗教嫌いの日本人が
実は國體という政治体制を
信仰してる(のに自分で気づいてない)
のは実に皮肉ですね…
在日米軍を神の軍隊として
実質的に崇めてるというのは
天下統一した神君家康公から
大政奉還で天皇制になったあと
その後アメリカ大統領が
また征夷大将軍になったような
もんじゃないかと
思いましたね。
どうせ何かしらの信仰や
宗教信じていかないと
やってられないのなら
正しい神様を
信じるべきだと思うんですけどねえ。
キリスト教は問題も起こしましたが
真っ当に信じれば
これほど良いものは無いですよ?
(そう思っているから信者やってるんですが)
(あるいは信者だからそう思うのか)
道理というか筋目としては
日本の建前が民主主義の独立国家だっつーんなら
アメリカ依存を断ち切らんかい、
という南井さんのご意見には
全く賛同するんですが、
現実的にはそうなりそうも
ありませんからね…
日本人の無意識に絡みつく
精神的悪癖を治さないと
にっちもさっちもいかないだろうな、
と読んでいて思いました。
百年単位の心理改造が
必要なのでは…
私も一個人として
少しでも世の中よくしてえなあと
思うのですが
南井さんは理想に近づくために
これからの身の振り方というか
アテはあったりするんでしょうか?
そーいうお前はどうなのよ、
と言われると、
私事ですが
苦しみつつも信仰を深めていくと
ついさっき神様から
「お前は信仰を守った。
お前が心から望むものは
すべて与えよう」
とのお達しが来ました。
やったぜ。
というわけで神様の守りを
もっぱらアテにしております。
もっとも望むものが与えられると言っても
徐々にでしょうし
もしかしたら天国に行った時に
与えられるのかもしれませんが
そうだとしても霊的には
救われたので
ヨシ!(信者猫)
現実から目を逸らす
そんじょそこらの現代人とは全く違う
精神的勝利であります。
(お前も現実から目を逸らしてるのでは?)
(だまれ)
それはともかく。
今回も面白い評論でした。
これからもご健筆を
お祈りしております。
南井さんに神様の祝福が
ありますように。
どうも、南井三鷹です。
やややさん、コメントをありがとうございます。
日本人は宗教嫌いなのではなくて、自分たちが所属集団信仰をしていることを自覚していないだけに思えます。
僕は「スポーツ国籍コロンビア人」でずっと生きてきたのですが、
こういう相対化が当たり前になると、なぜ母国というだけであれほど肩入れできるのか、
むしろ僕には「普通の人たち」の感覚の方が不思議です。
きっと「所属している」ということに大きな価値があると感じているのだろうと推測している次第です。
「アメリカ大統領が征夷大将軍になった」とやややさんは言いますが、
うるさく言えば、「在日米軍が征夷大将軍になった」が正しいですね。
あくまで在日米軍が貴種流離譚として、この地に訪れているから信仰しているのです。
アメリカ大統領はやはり「外国の人」でしかありません。
小泉八雲とか、クラーク博士とかの類いですよ。
在日米軍の司令官のジョストが将軍のコスプレでもすれば、きっと人気が出るでしょうね。
僕の「これからの身の振り方」をお尋ねですが、国外脱出を含めて、特にアテはありません。
やややさんのように神に助けてもらえることもないでしょうが、
自分の人生にはだいたい満足しています。
記事にも書いたように、ただ「真実と共にありたい」だけですね。
コメント失礼します。
負けを否認することが勝利になるという点について、私は勝敗を審判できる立場にあるか(少なくとも今の日本にはない)に重点があるのではと思いました。
その姿勢が、ルールを共有してゲームを構築していくよりも、メタ的に審判をすることでルールに則っていると見せかけることを望むのではないと考えました。(チートも含め)
南井様は交換について、価値が等しい物を交換するのではなく、交換によって価値が等しくなり擬似的に対等な関係になると紹介されました。この問題を暴力団を例に提起しています。
力によって自分をドーピングして対等な関係になることができるのならば、価値を共有し対等な関係を築くような事をすることはありません。
幕府と藩による入れ子構造の兵営国家が天下泰平として成立するのは、力による変更を共有し、上に対しても下に対しても対等であることから逃れられるからではないでしょうか?
仰る通り、これは自己閉鎖性と自足性に根差したものであり、これを自主性などと勘違いすることでやれ幕末志士だの青年将校だのに革命的精神があったと思いこませられるのだと理解しています。(ルールの改革ではなく、ルールの更新にすぎません。)力関係が変わっただけで、力による前提は変わっていません。
力による関係に頼るしか能がない以上、その力を保証してくれるのは駐日米軍になります。その力がある以上自分達が価値を決められるのだと心理的に思い込め、無責任を信じることができるのでしょう。むしろ力による価値決定がより純粋であるために自己否認をする。(菊と刀)つまりトンデモですが無責任でいることを信仰しているのではないでしょうか?
何ものも信じない信仰など自己矛盾です。だからその場において認めてくれる存在が必要です。一神教のように神の承認を信じるために他の信仰を否定するのとはさかさまで、他の信仰を否定することで承認してくれると信じる取っ替え引っ替えの八百万の多神教(天皇)なのだと考えています。(トランプと歩調を合わせているのに平気でいられるのは光と影だからでしょうね。)もっとも、これはホラー小説を読んでたら恐怖よりも寧ろ共感の方が勝ってしまい、自分にも不可知の力への陶酔と服従の精神があると気づき思いたったものです。
負けを認めることは自分達の信じる力が覆ることであり、自分達が判断していた責任を問われることになります。それを回避するには他の力に頼って守ってもらうか、実は負けていないのだと行動によって見せつける(忠臣の切腹)ことになるでしょう。高市の姑息な解散選挙は国民に認めてもらうなどという権威の力が維持できなくなったために数の力に頼ったアリバイ(不在証明)工作であり、それを純粋に信じ込んで破滅へと進む事を是とする無貌のナルマゾポテフことネトウヨを自称する皆さんによって責任は回避されていくのでしょう。(avoidance=アホダンス、なんつって)
こうして南井様がこんなコメントに対等に接してくださることが、私の契機だったのかもしれません。対等に、けれど正確に、自分で判断し人と接していけるよう取り組んでいきます。
ご精読ありがとうございました。
どうも、南井三鷹です。
往来市井人さん、いつもコメントをありがとうございます。
幕府と諸藩による入れ子構造で成立した兵営国家は、たしかに力による支配、力による価値決定で成立していました。
丸山眞男も幕府が圧倒的物量を持つために、戦国割拠状況を凍結させることができた、としています。
その意味で江戸時代は純粋な力の支配だったと言えるでしょう。
しかし、戦後日本についてはそう簡単にはいきません。
支配者たる在日米軍は外国の軍隊でしかないからです。
そうなると、力による価値決定を前提としてしまうと、自分たちの手に決定権はないことになってしまいます。
僕の考えでは、この「自分たちに真の決定権がない」という事実こそが、日本人の「無責任」を支えているということになります。
ここで日本人はアンビバレンツな感情に悩まされます。
社会が豊かで安定しているかぎり、決定権を持たない無責任な「子供」は、ファッションや趣味などの消費に享楽できるのですが、
経済停滞や国際状況の不穏さが増すと、自分たちに「大人」としての決定権がないことが致命的になってきます。
そこで、戦後日本人は、「子供」として甘えたいという感情と、「大人」として自己決定したいという感情の板挟みになるわけです。
その結果、在日米軍に依存しながら、日米同盟が「対等」であり、自衛隊は米軍の補助ではなく「国防軍」である、という「大人の顔」をしたいという両面的な欲望が生まれました。
この欲望に忠実だったのが安倍晋三であり、それに吸い寄せられたのがネトウヨ「保守」です。
しかし、憲法の文章を変えるくらいで子供が急に大人になれるわけもないのは、憲法を変えたがっている「保守」の人たちを見れば明らかです。
今の保守ポピュリズム政権では、「対等な日米関係」などという言葉すら聞かれず、
日本国憲法はアメリカからの「押しつけ」だとか言っていた人たちが、トランプ政権の後押しで憲法を変えることに矛盾を感じることさえできなくなっています。
結局、あるのは単に力に対する隷属でしかなかったのです。
「ないものねだり」が今のバカバカしい政治状況を生み出しました。
責任を負うことを回避しているのに、大人として扱われたい、
そんな人間があまりに多くなりすぎてしまった、というわけです。
競争原理も能力主義も嫌いな日本人に、力の支配に耐性があるとは思えません。
最近は「戦争反対」のデモが人を集めているようですが、じゃあ戦争をしないためにはどうするのか、という視点が欠けているように感じるのは僕だけでしょうか。
ちなみに八百万の神は他の信仰を否定するわけではないと思いますよ。
日本の多神教には、神様に明らかな「序列」があります。
僕が日本では国家を超える宗教がないように統制されている、と言ったのは、
序列一位が「国家」であることを、なにものも変えることはできないという原理に基づいています。
神やその信仰に「序列」があるという日本的事実は、たとえば西洋文学精神による一神教的な信仰模倣では簡単に太刀打ちできない堅固さがあると思っています。
今回も興味深いご意見をありがとうございました。
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