汚濁の世など真っ平御免の竹林LIFE
以前より日大闘争ではなく東大闘争に関心が持たれていることが大いに不満でした。わが国では右も左も権威主義ですね。
どうも、南井三鷹です。
菅原さん、即時のコメントをありがとうございます。
今回の記事は東浩紀の「転向」という表現を用いましたが、
最大の問題は、自らが主張してきた思想と真逆の態度を示す「思想家」を、批判もせず自然に受け入れている日本の「現代思想」界隈の知的レベルの低さだと思います。
つまり、「現代思想」の界隈が「流行」だけを重視していて、思想やイデオロギーの「内実」をちっとも重視していない。
「現代思想」がマスメディアに強く依存しているために、何よりも「大衆迎合」が優先される。
その「俗物性」に呆れます。
東浩紀は明らかに市場の「売上」を「権威」と信じて疑わない俗物かつ権威主義者です。
消費市場への依存心は、東だけではなくアニメオタクの多くに共通している現象で、
消費購買力で秋葉原系オタクがチヤホヤされるようになった90年代からゼロ年代は、「個人」を基盤とした趣味市場を権威としていましたが、
10年代以降に日本の消費市場が縮小していくと、「クールジャパン」的な国家やマスメディアなどの「大文字の」消費戦略に依存するようになりました。
宇野常寛のAKBアゲとかが典型で、東浩紀や宇野常寛のような俗物が「大衆迎合」を背景に、
「大文字」的な資本への依存=政治的保守(宇野は表面上は生活的保守を気取っている)へと移行したのは、彼らが「カネの動き」を追いかけた結果でしかありません。
「カネ」を追いかけて保守化した「マスコミの寵児たち」が、「政治とカネ」の問題を批判するはずがありませんし、
社会状況の変化に左右されることのない一貫した「思想」など持ち合わせているはずもないのです。
僕は、団塊世代の消費的俗物モデルが村上春樹、団塊ジュニア世代の消費的俗物モデルが東浩紀だったと思っています。
つまり、東浩紀は村上春樹の後継者に位置づけられるべき保守的な俗物です。
「現代思想」や「現代文学」を扱う大手出版社は、文学的・思想的達成ではなく、ただ消費社会にとって有益な俗物を応援してきたのです。
このような日本の中身のない薄っぺらさ、流行を生み出す「大衆迎合」にしか価値を持たない俗物的な権威主義を、「スーパーフラット」などと言って持ち上げてきたのが「日本ポストモダン」です。
ここは「現代思想」や「現代文学」が俗物のものでしかない国なのです。
誰も彼もが「カネ」が関わらない本当の意味での「学び」をしなくなったのが、「俗物化するポストモダン」の原因ではないでしょうか。
南井さんこんにちは。
東浩紀はデリダ論でデビューした「哲学者」ですよね。
私はデリダの本をきちんと読んだことはないのですが、井筒俊彦曰くデリダ哲学の根源には「彷徨」の精神があるそうです。
神との絶対的な距離を自覚しつつ、それでも彼方を目指して砂漠をさまよい続けるユダヤ的心性を井筒はデリダに見ていたようですが、言うまでもなくこれは権威主義とは真逆の態度です。
神を永遠に待ち望むために、神を現前させないために、「絶対」を「脱構築」する。これは一見神の否定に見えて、実は裏返された神への信頼だと私は思うのですが、残念ながら東氏を初めとする「日本ポストモダニスト」たちにこうした精神の緊張は感じられません。南井さんがさんざんご指摘なさっているように、彼らが信仰しているのは「金と数」だけなのでしょうね。これでは砂漠をさまよう孤独な哲学者の気持ちは一生理解できないでしょう。
ところで今回の論考で「疑似一神教」という言葉が出てきましたが、これはどういう意味なのでしょうか。
現世的価値とは別の絶対的価値をおのおの心に持て、という意味かと思いますが「疑似」の二字が少し気になりました。
というのは「疑似的な信仰」というのが語義矛盾に感じられるからです。
先の「砂漠をさまようユダヤ人」のイメージもそうですが、神を信じるということは一種の「賭け」のはずです。
神が常に現前していれば、われわれは神を信じる必要がなく、ただ存在する神を受け入れればいいだけです。しかしそれは「信仰」とは言いませんよね。目の前に明らかに存在するリンゴをことさら信じる必要がないのと同様に、現前する神というのは信仰の対象としては無意味です。
「疑似的な神」、つまり自分で自分の神を仮設してしまうと限りなく無意味な信仰に近づいてしまうのではないかと思ったのですが……差し支えなければこの「疑似一神教」にどんな思いを込めたのか教えていただけますでしょうか。
論考の主題と関係のないことばかり書いてしまってすみません。
ここ数年コメントができずにいたのですが、
南井さんのブログは欠かさず読んでいました。
南井さんの文章からはいつも知的活力をもらっています。
頑張って下さい。応援しています。
どうも、南井三鷹です。
HOHさん、コメントをありがとうございます。
HOHさんもご指摘のとおり、東浩紀がデリダを理解できていないことは明白です。
『存在論的、郵便的』が評価されたのは、単なる業界のマーケティング事情でしかありません。
日本の「現代思想」は思想の内実より、話題性を生み出すスターシステムで一儲けすることを優先していました。
それが千葉雅也というどうしようもない鈍才を担ぎ上げる結果になりました。
『存在論的、郵便的』で東が取り上げたデリダの「絵葉書」は、「差延」という時差のシステムを思想基盤にして成立したテキストです。
つまるところ同時性に対する脱構築であり、「現前批判」を旨とするデリダ思想は明確にインターネットに対してアンチです。
日本でデリダ研究をしている学者は、このことを明確に語りません。
なぜなら、日本の「現代思想」は高度情報メディア=インターネットに依存するものでしかないからです。
(千葉雅也の二番目の著書は『ツイッター哲学』ですからね)
「疑似一神教」と何の断りもなく書いたことは、けっこう問題でしたね。
ご指摘ありがとうございます。
HOHさんが疑念を持たれるのも当然ですが、僕はそこまで想像が至っていませんでした。
僕の意図はつまらないもので、要するに「キリスト教的なもの」のことを言っています。
僕はキリスト教を一神教だとは思っていないために、つい「疑似一神教」と書いてしまったのです。
いや、そこは「一神教」でいいじゃないか、と今振り返れば思いますが、
どうせ偶像崇拝が大好きな日本人には厳格な一神教など受け入れられるわけがない、という思いが先行し、
エセ一神教のキリスト教くらいが現実的だろうな、と考えた結果「疑似一神教」と書いてしまったのです。
つまり、疑似宗教、擬似的な信仰という意味ではありません。
現在、僕は井筒俊彦の『神秘哲学』を読んでいる途中です。
デリダと井筒とのやりとりは『意味の深みへ』にありましたかね。
神秘主義について書いていくときに、井筒俊彦を取り上げたいと思っています。
(8月31日追記)
結局、読み直した結果、前に「キリスト教的な」と書いてあるので「疑似一神教」の「疑似」は必要ないと思いました。
いたずらに誤解を生むだけだと判断して消去、修正しました。
ご指摘ありがとうございました。
論旨と関係の無い内容ですが、コメント失礼します。
お目汚しになりますが、SNSを見ていたら「女性は嫌いだけど女体は好き」とかいう投稿を見て、ふと「共同性は嫌いだけど共同体は好き」という言葉遊びを思いつきました。
平等な社会のため女性や性的少数者が声を上げる事は納得しますが、他の論考の中で示されたように、男性もいる社会でどう共に生きていくという「共同性」が棚上げされ自己主張と自己承認が前面にでてバラバラになり、それをまとめるため同質的であることを求めて、逆に性としての体に頼る「共同体」になってしまったと思っています。
(上記の投稿は「男が産めるのウンコだけ」というヘンテコな運動へのリプライにあったものです。)
南井様は共同体への依存を批判されていますが、共同性にはコモンというルビを振って明確に区別していたと記憶してます。
もし性別による差異が体に成り替わるとしたら、共同体は同性的(両性具有?)な存在になるのではと考えました。
女総理の上目遣いとかの謎媚外交に困惑していますが、オフィシャルな場で敢えてプライベート(性的)を装うことはトランプの自己中外交に通じるものがあります。(どちらもいい年したオジサンオバサンというとこも)
それが強引であっても社会の構築を促す父性的なものに対する母性的な(内輪的な)反抗なのでしょうか?
社会という止むに止まれぬ前提を放り出して、その強引さだけを父性の特権だとしてるのでしょうか?(大審問官の語る小学生の自由だと思います。)
彼らは公共の場で共同性を築けないから、自分の体を拡大して共同体を語っていると思います。
けれど、共同体は母胎のように自らの体ではありません。異質なものを排泄しそれを代便してくれる存在です。
胎内の子が母親の体を見る事ができないならその体のイメージは自分の鏡像になります。
そして性的な発達のない幼児にあっては女性であっても母が女性であると実感できないでしょう。
だからそれは無性あるいは両性具有となります。
言ってしまえば、どちらでも遊べる人形のようなもので、おままごとの度に役割を取っ替えているのでしょう。
それで遊ぶ自分という中心を手放さずに。
けれど誰もがその人形を同じものだとは考えません。ケンカになる。それでは一緒に遊べない。だから人形に名前を家を家族を価値を与え
てブランディングしなくてはならないのです。
南井様は、天皇は元帥としての男性と象徴としての女性二つを併せ持つと記しました。
なんかバカに天皇が男性である事に拘っていますが、家父長制としての建前を母性への甘えに上書きるするために野郎に女形をさせているのなら、女総理はその逆で母性への甘えという本音を家父長制によって上書きされた女体で表現しているということでしょうか?
(前時代的な建前を持ち出す事でしか男性として主張できないのは野郎として悲しくなります。)
建前として通用していただけの観念ではなくて、甘えるだけの誤魔化しでもなくて、その時代に生きている人間としてどうやっても生きてやるという意思。そして自分が周りに生かされていた事、どうやって周りが生きてきたかを知る事。
共同性とは誰かと共に生きるために託すものであり、託されたものを無碍にされたくないという自負と信頼の構築によってできるものだと私は思います。
あのピカチュウのぬいぐるみは遠い国ではピカチュウでは無くその人の大事なぬいぐるみなのです。こんな偶像崇拝ですが、それでも手放したくないし、手放さないために人々がどうしてきたかそれを知るべきでしょう。
とっ散らかってしまいましたが以上です。
コメント失礼いたしました。
どうも、南井三鷹です。
往来市井人さん、示唆に富むコメントをありがとうございます。
往来市井人さんの言いたいことはなんとなくわかるのですが、
なにぶん問題が複雑で整理するのが難しいところに入り込んでいるので、返答の方も簡単に語ることはできそうにありません。
まずは古代天皇制からの日本社会が、父権的なのか母権的なのかという問題があります。
柄谷行人などは既存の学説を踏まえて、「両性的」だと捉えていたと記憶しています。
僕自身は「父権的な超母性的共同体」であったと考えています。
この世の「外部」にある死者の魂の慰安を包括するような超母性が、「外部」に対峙し防衛する父権を支えている様なイメージです。
(ちなみに本居宣長は10歳くらいで父を亡くして、母やその実家に助けられた存在だったはずです)
「共同性は嫌いだけど共同体が好き」という言葉ですが、僕のイメージでは日本人は「公共性は嫌いだけど共同性が好き」という感じに見えます。
つまり、共同性には公共性を対置するのが適切な問題系だと考えます。
その二つを分けるものは、当然ながら「責任の有無」になります。
責任を負うのは嫌だが、責任のない共同性は好きだ、という話になりますが、「日本ポストモダン」のオタク的願望のほとんどはこれで言い表せると思います。
東浩紀が政治からの逃避に執着するのも、趣味的もしくは二次創作的な無責任な共同性を居場所にしていたいからでしかないわけです。
日本史上初の女性総理大臣は、このようなポモ的文脈の中で登場しただけです。
アメリカという父権の支配下でぬくぬくと母性的共同体を実現していたオタクたち(日本人)でしたが、
外圧の高まりとアメリカの弱体化によって、自分たちだけで「父権的な超母性的共同体」を作り上げる必要に直面しました。
そこで父権を演じてくれる女性に希望と期待を託していったと僕は分析しています。
しかしそこには大きな誤算がありました。
担ぎ上げる人材を大きく間違えてしまったのです。
高市は生物学的には女性ではありますが、「母性」を体現しているわけではありません。
性別だけで母権的と「勘違い」をされているだけの、父権的政治家(のモノマネ)です。
高市が政治的振る舞いに女性であることを利用しているので誤解している人が多いようですが、あれは「父権制に依存した女性」の振る舞いでしかありません。
だからリベラルな人たちは高市の女性的仕草が気に食わないのです。
つまり、高市が女性であろうと、母性による父性社会への攻撃という図式にはなりません。
実際は高市が「母性」を体現しているかのように人々に「勘違い」をさせることで、より旧態依然とした父権制社会を立て直そうとしているだけのことです。
ただ、所詮は詐欺なので、いつかはバレてしまいます。
だから自民党としては適当な時期に「使い捨て」たいわけですが、高市は自分勝手な女性なので「組織のために犠牲になる」という男性的倫理が通用しません。
そのため、裏にいる父権的な方々も手を焼いているというのが現状です。
(そうなると、高市に早期退陣してもらわない方が自民党にとっては都合が悪いということになりますね)
今の日本に「反抗」などという、「既存の流れ」に抵抗するエネルギーなど存在しません。
誰もが安直で誰もが困難から逃げるばかりの「タイパ的省エネ」社会でしかないのです。
すべては現実を直視できないことからくる「勘違い」で成立しています。
だから往来市井人さんが書いてくれたように「母性への甘えという本音を家父長制によって上書きされた女体で表現している」という分析は結果的に当たっています。
まともな文芸評論を一つとして書いているように見えない「文芸評論家」のあの女性のように、
肩書きだけは立派でも中身は安直な現状肯定しかない、単なる「業界の広告塔」でしかない「消費保守」的存在の元祖が村上春樹であり、その後継者が東浩紀です。
単なる「共同性」などは、大谷翔平やワールドカップサッカーの話題を共有していれば成立するものです。
つまり、共同性は共同体を成立させなくても「話題性」だけで存在しうるのです。
真に考えるべきは「公共性」だと思います。
「公共性」を考えていくならば、建前のための前置きである「責任ある」などという言葉はハナから必要なくなります。
いつまでも「天皇の子供」で居続けることはできない、ということを、
この国の人たちは真剣に考えることができるのでしょうか。
数の論理を重宝している限り、不可能だと僕は思っています。
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