南井三鷹の竹林独言

汚濁の世など真っ平御免の竹林LIFE

東浩紀に見る「日本ポストモダン」の「転向」

Xのタイムラインを見ていたら、東浩紀の発言に反論する方のポストが流れてきた。
その東の発言は、「ゲンロン」が配信した8月21日の動画でなされたようだが、僕は東の動画再生に協力したくないので詳細の確認はしない。
ゲンロンカフェのポストによると東の発言は次のようなものだ。
「白居易が典型ですが、日本は古代から中国の詩を大量に輸入してきました。そこには政治的な詩も含まれていた。でも日本で強く受け継がれたのは、恋愛や自然をめぐる「エモい」部分です。いわば政治を「見ないふり」するフィルターが働いている。ぼくは本居宣長が「大和心」として発見したものは、このフィルターと深く関わっていると思っています」

先に結論を言ってしまうが、
東が言う「政治を『見ないふり』するフィルター」は、「日本」の輸入文化によって成立したものではなく、1970年代以降に成立した「日本ポストモダン」の価値観でしかない。
要するに、東浩紀や僕が生きてきた時代の「世代的価値観」でしかないものを、まるで日本の伝統﹅﹅的﹅価値観であるかのように全体﹅﹅化﹅しているのだ。

東の牽強付会に対するツッコミどころはたくさんあるのだが、いくら「ゲンロン」を支えるファンの知性に難があるにしても、
「日本ポストモダン」の知の代表的な消費広告塔であった東浩紀の180度「転向」を前にして、不信感を持たずにいられる盲目さ﹅﹅﹅は何なのかと不思議になる。
戦時期に左翼運動から「転向」した人たちは、敗北者としての十字架を背負って生きたものだが、なぜ「日本ポストモダン」の「転向」に関してはその変節が問題にならないのだろうか。

その答えを言えば、「日本ポストモダン」にも日本らしい「本音」と「建前」の二重構造があったからだということになる。
それを検証する前に、まず僕が言う「日本ポストモダン」という時代区分パラダイムに関して明確な定義をしておきたいと思う。


「日本ポストモダン」の定義

  ① 全共闘運動から連合赤軍に至る左翼的政治運動に敗北した「敗北左翼」に担われた思想潮流であるため、「現実政治に対するトラウマ的逃避」を基盤とする

  ② 左翼運動が大衆支持を得られず敗北したトラウマにより、大ヒット商品やマスメディアの話題などの大量消費文化に強く依存する「大衆迎合」の性質を持つ

  ③ GHQ統治後の戦後生まれが生産人口の中心世代となり、古典・漢籍教育の知的基盤を持たない「非歴史的な西洋かぶれ」による「表層知」を特徴とする

  ④ 深層の「政治的挫折」の無力感を、表層の「ファッション的消費」の能動性で補填し隠蔽する

  ⑤ 結果、「現実政治」と「アジア的歴史観」を深層へと抑圧し、表層上の「メディア言論」と「非歴史的な西洋主義」を個人消費によって全体化する「仮想ワナビー白人としての代替現実パロディ」を保守﹅﹅する


この定義で重要なのは、「日本ポストモダン」が本質的に左翼大衆運動の敗北をトラウマ的基盤としている点と、
漢学的な「教養」からの切断と消費的な「アメリカ化」(意味実質志向から表層ファッション志向へと転移するサブカル化)がちょうど同時期に起こったために、急速な教養崩壊と知的オタク化が起こったという点だ。
つまり、東アジア的な伝統と現実政治からの「切断」が、表層的な「アメリカかぶれ」の消費活動によって覆い隠されていったのが「日本ポストモダン」のパラダイムだったのだ。

「本音」と「建前」の二重性を持つ「日本ポストモダン」の構造を理解できれば、現在の日本社会の「保守」政治もきれいに整理できる。
たとえば現在の高市内閣が模範としている政権奪回後の安倍内閣の「官邸主導政治」には、従来の官僚主導からの脱却という左翼的な「革新性」が見られる。
「保守」を自認する政治勢力が政治的な「革新」を行うのは一見矛盾にも思えるが、
それもそのはずで、官僚主導の「エリート政治」に対するポピュリズム的反発は、元を辿れば安倍が「悪夢」と言った民主党政権が成し遂げようとしたものだ。
つまり、建前では民主党政権を「悪夢」などと言ってはいるが、本音では安倍長期政権は民主党が目指した「脱官僚政治」を別の﹅﹅仕方﹅﹅で﹅実行したと考えるべきなのだ。

表層的(偽イデオロギー的)な権力闘争にばかり目を奪われていると、自民党という「万年与党」が「敵のやることをパクる」ことで権力を維持してきたことが理解できなくなる。
そのためアホなマスコミは二大政党制のアメリカを模範として、今の日本の政治状況を「分断」などと表現していたが、
この前の選挙が大衆の「分断」とは程遠い全体主義的な結果になったことが、彼らの社会認識のレベルの低さを証明している。
「保守」を標榜する人たちが、実際は憲法改正など既存体制の「改革」を掲げている矛盾も、
今の「保守」が深層レベルで左翼的トラウマを抱える人たち──つまりは元左翼──だと考えれば、彼らの「反エリート」性向も容易に理解できる。

僕はとうとう真実に達することができたので、確信を持って言える。
日本の左派の最大の誤りは、コミュニズムなどの左翼運動が、数において勝る労働者階級もしくは大衆の「連帯」によって可能になるという西洋的な前提を過信したことだ。
アジア的大衆は儒教的な家父長的支配に慣れた人々であり、骨の髄まで権威主義的支配が染み込んでいる。
地上の権威など天国の救済に比べたら屁でしかない、という超越的な価値を、アジア的大衆は持っていない。
だから彼らの「連帯」に必要なのは「体ていのいい地上的権威」──つまりは天皇の代替物──でしかない。
彼らはキリスト教圏の人々のようにイデオロギーを理解できないし、そんなものに価値を置かない。
所詮は「自分が目にすることができる権威に従う人々」でしかないのだ。
日本で左翼的なイデオロギー革命を引き起こしたいのならば、まずはキリスト教的な一神教による超越性を人々に見せなければならない。

この国では、真の革命家は大衆との「連帯」などを欲望してはならない。
まずはこの不毛の地で一神教的な世界を自分だけで確立し、それを生きることで他人を惹きつけるしかない。



話を戻そう。
現代日本の「保守」がなぜ「エセ保守」なのか。
それは彼らのルーツが西洋の左翼思想によって勇気づけられた「アジア的・権威主義的大衆運動」でしかないからだ。
ここで誤解されると困るので、一つ重要なことを伝えておく。
今の「エセ保守」のルーツである70年代に敗北した左翼運動(正確に言えば左翼的気分)は、建前上は「反権威主義」を掲げているが、本音は「権威主義」を基盤としている。
たとえば全共闘運動は、ヨーロッパの「68年革命」を国際﹅﹅的﹅権威として「輸入」し、日本で展開したものだ。
西洋の先進国を後ろ盾とした国際的権威で、ドメスティックな権威に闘争を挑むというのが、日本の左派や左翼のやり口なのだ。
最近の事例を挙げれば、反イスラエルの左派運動がこのパターンで、パレスチナ問題は最近起こった問題でもないのに、
反ユダヤに腰の重いヨーロッパで反対運動が大規模化した途端に、日本の左派的大衆が騒ぎ出す始末だ。

戦後民主主義を分析する上で、このような「権威主義の二重性」がはたらいていることには注意が必要だ。
わかりやすく言えば、口では「反権威主義」を唱えながら「別の権威主義」に従って生きるのが日本の左翼運動(左翼的気分)なのだ。
この二重性が理解できないと、「日本ポストモダン」の真の姿も、なぜ左翼的だった人がネット右翼的な国粋運動に変節するのかも理解できないだろう。

要するに、日本人の「自分語り」のほとんどは嘘だということだ。
彼らが口にするものは「建前」でしかなく、それは「本音」を隠す目的で語られたものでしかない。
言っていることとやっていることが違う人間が多いのも、こう考えれば容易に理解できる。
弱者擁護の顔をしている人が、時の政権やマスメディアの支配的言説に取り入ることを目的していたり、
政治権力の横暴に反対するデモで、消費文化のお祭り道具などを振ってしまったりするのも、
日本の左翼的建前の裏に、権威主義という本音が隠れているからにほかならない。
むしろ、その使い分けをしない(擬似一神教的な)人間を彼らは強く恐れている。

その点、自分たちと同じように建前と本音を使い分ける人間に対しては強気でいられる。
日本の「エセ保守」が中国を仮想敵にする理由がそれだ。
「ネトウヨ」に代表される「エセ保守」の特徴に、インテリなどのエリートを嫌悪する反知性主義ポピュリズムがある。
「反エリート意識」がもともとは左翼的欲望であることはすでに語ったが、その事実を隠蔽しなければならない日本の「エセ保守」にとって、
自分と正反対の存在である「エリート主義的な左翼」──つまりは中国共産党──を批判的に叩くことがいかに「自分のルーツ隠し」に都合が良いかわかるだろう。
要するに彼らは「転向左翼」という自分の「本質(本音)」を隠すために中国を利用する、「建前」としてのファッション保守(だからSNSがメインステージになる)なのだが、
仮想敵に依存している存在というのは、そのメカニズムがわかってしまえば惨め極まりないものでしかない。
僕は前々から日本の「保守」勢力が、味方としての在日米軍と敵としての中国共産党に依存している存在であることを指摘してきたが、それは「日本ポストモダン」の二重性によってもたらされていたのだ。
(「エセ保守」が大好きな戦前の図式で考えるならば、実際はどちらも敵でしかないにもかかわらず、だ)

さて、そろそろ冒頭の東浩紀の話に戻ってもいい頃だろう。
僕は東浩紀が「転向」をしているのに、支持者がその変節を責めないことについて指摘したのだった。
東浩紀の変節については冒頭のポストの内容だけでも検証できる。

東浩紀は「ポストモダン」の語の流行とともに登場したインフルエンサーであり、彼の主張する「ポストモダン」とは、「大きな物語」から「小さな物語」への移行にあった。
つまりは「国家」などという「大文字の主語」を解体するのが「ポストモダン」であり、その方法論が「データベース消費」だというのが彼の主張だった。
まあ、「データベース消費」という分析にインチキがあったことを僕はすでに書いているが、
そのような理論的な問題点より、東の「ゲンロン」での発言にあった「政治を『見ないふり』するフィルター」というものを、自分たち世代の特徴ではなく「日本」とか「大和心」とか国家を基準とした「大文字の文脈」に置く語り口が、
完全に彼が語っていた「ポストモダン」の逆をいくものであるのは明らかだ。
東浩紀は「大衆迎合」によって大衆の権威主義的性質に引っ張られ、「国家」というあからさまな「大文字の主語」に依存するだけの「エセ保守」に転落した。
やはり「オタク」が「自分の趣味」を基準とした「データベース消費」をしていたというのは真っ赤な嘘であり、
結局はオタク市場で「売れているもの」を権威として消費する「権威的消費」から出ていなかったのだ。

東浩紀が完全に真逆の価値へと突き進んでいるのに、当時「ポストモダン」のお仲間だった人たちから東の「転向」を責める声はちっとも聞こえてこない。
まあ、責める声がないから東の「転向」に気づく人が少なくて済んでいるのだろうが、それこそが「ポストモダン」のオタク的言説の全てが「建前」でしかなかったことを証明してはいないだろうか。
「ポストモダン思想」など日本では所詮は「権威主義」の流行形態でしかなかったのだ。
左翼気分を「建前」とする権威主義という「本音」。
これが戦後日本の左翼的大衆の正体なのだ。

思い返してみれば、全共闘の学生運動で最も語られる定番エピソードは東大全共闘の安田講堂の占拠だ。
日大紛争の方が凄惨を極めたにもかかわらず、人々が東大全共闘のエピソードを記憶に残しているのは、日本の左翼気分の根底に権威主義があったからだと僕は思っている。
「日本ポストモダン」の思想基盤となった〈フランス現代思想〉が東大を中心とする展開によって広まったことも、同じような現象ではないだろうか。
ここでも日本の若者の左翼的気分は権威主義としっかりと手を結んでいる。
東浩紀が東大大学院の出身でありながら、学者にならずに言論プラットフォームを作る経営者になったことを反エリート的行動と考える人もいるだろうが、
むしろ東大アカデミズムに認められた反エリートという肩書を持つ人物こそが、本音では市場を権威と頼む「東アジア的・権威主義的左翼気分」の擬似天皇としては最適解だったということを理解するべきだろう。

念のために言語化しておくが、東が言う「政治を『見ないふり』するフィルター」とは、「日本ポストモダン」のルーツにある政治的敗北のトラウマを隠す「建前」のことでしかない。
そもそも白居易を取り入れた平安和歌文化は、藤原氏に政治的敗北をした氏族たちに担われていたので、
政治にトラウマがある人たちの居場所となっていた点で、「日本ポストモダン」の状況に近接する。
また、本居宣長が商人の出であり、重商主義の田沼時代でモラトリアムを謳歌できる存在であったことを忘れてはいけない。
意図的に「日本ポストモダン」に近しい歴史的断片﹅﹅を持ってきて、
「日本」という「大文字の主語」を用いて全体化して語ってしまう東の態度は、
ヘーゲル的国家権力を脱構築する〈フランス現代思想〉(ポストモダン思想)の完全に真逆にある。
相変わらず東浩紀は歴史を非体系的にしか理解できていないのだが、そもそも「日本ポストモダン」は非歴史性の上に成立していたのだからそれも当然だろう。
そんな彼の「歴史回帰」は表層上の「建前」でしかないので、真剣に歴史を学ぶ気などあるわけがない。
東浩紀の本音はお客様のオタクたちと同じく、家族的・内輪的共同体を基盤とした「東アジア的権威主義」にある。
だから「本音」が歓迎される世の中になれば、いつでも「日本」という「大文字の主語」を権威とした排−外部主義に陥る。
その排除すべき「外部」には、「反権威」的なリベラルや彼を批判するアカデミックな知識人や僕のような反ポストモダン派が含まれるのは間違いない。
そもそも東が市場売上を「権威」として持論を構成する権威主義者だということは、『動物化するポストモダン』を詳細に読めばいくらでも確認できる。
裏で市場を権威としている人物を「左翼的」と考えていたこと自体、そもそも筋が通らないことにいいかげん疑問を持ったらどうなのか。
つまり、東は建前のレベルでは「転向」しているのだが、本音のレベルでは権威主義で一貫している。
これが東浩紀の変節を誰も「転向」として追求しない理由であり、
日本の「現代思想」関係の左翼的知識人が、本音と建前を都合よく使い分けることを問題とも考えていないことの証明でもある。

この国の人たちの沼のような無責任さは、本音と建前の二重構造によって支えられている。
本音と建前をその都度使い分ければ、過去の発言や行為も本心ではなかったということにできるし、そうなれば責任の所在などハッキリしなくなる。
後になって「いや、本音では日本は負けると思ってたんだけど、軍部のせいで言えなかった」とか言えばいいのだが、
東のように「本音」ベースの世の流れで自分の「本音」を露出してしまった人が、後になって「あれは建前だった」と言って済ませてもらえるのか、今から密かに楽しみにしている。

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東批判の決定版です

以前より日大闘争ではなく東大闘争に関心が持たれていることが大いに不満でした。わが国では右も左も権威主義ですね。

菅原潤さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
菅原さん、即時のコメントをありがとうございます。

今回の記事は東浩紀の「転向」という表現を用いましたが、
最大の問題は、自らが主張してきた思想と真逆の態度を示す「思想家」を、批判もせず自然に受け入れている日本の「現代思想」界隈の知的レベルの低さだと思います。
つまり、「現代思想」の界隈が「流行」だけを重視していて、思想やイデオロギーの「内実」をちっとも重視していない。
「現代思想」がマスメディアに強く依存しているために、何よりも「大衆迎合」が優先される。
その「俗物性」に呆れます。

東浩紀は明らかに市場の「売上」を「権威」と信じて疑わない俗物かつ権威主義者です。
消費市場への依存心は、東だけではなくアニメオタクの多くに共通している現象で、
消費購買力で秋葉原系オタクがチヤホヤされるようになった90年代からゼロ年代は、「個人」を基盤とした趣味市場を権威としていましたが、
10年代以降に日本の消費市場が縮小していくと、「クールジャパン」的な国家やマスメディアなどの「大文字の」消費戦略に依存するようになりました。
宇野常寛のAKBアゲとかが典型で、東浩紀や宇野常寛のような俗物が「大衆迎合」を背景に、
「大文字」的な資本への依存=政治的保守(宇野は表面上は生活的保守を気取っている)へと移行したのは、彼らが「カネの動き」を追いかけた結果でしかありません。
「カネ」を追いかけて保守化した「マスコミの寵児たち」が、「政治とカネ」の問題を批判するはずがありませんし、
社会状況の変化に左右されることのない一貫した「思想」など持ち合わせているはずもないのです。

僕は、団塊世代の消費的俗物モデルが村上春樹、団塊ジュニア世代の消費的俗物モデルが東浩紀だったと思っています。
つまり、東浩紀は村上春樹の後継者に位置づけられるべき保守的な俗物です。
「現代思想」や「現代文学」を扱う大手出版社は、文学的・思想的達成ではなく、ただ消費社会にとって有益な俗物を応援してきたのです。

このような日本の中身のない薄っぺらさ、流行を生み出す「大衆迎合」にしか価値を持たない俗物的な権威主義を、「スーパーフラット」などと言って持ち上げてきたのが「日本ポストモダン」です。
ここは「現代思想」や「現代文学」が俗物のものでしかない国なのです。

誰も彼もが「カネ」が関わらない本当の意味での「学び」をしなくなったのが、「俗物化するポストモダン」の原因ではないでしょうか。

  • 南井三鷹
  • 2026/08/27(Thu.)

無題

南井さんこんにちは。

東浩紀はデリダ論でデビューした「哲学者」ですよね。
私はデリダの本をきちんと読んだことはないのですが、井筒俊彦曰くデリダ哲学の根源には「彷徨」の精神があるそうです。

神との絶対的な距離を自覚しつつ、それでも彼方を目指して砂漠をさまよい続けるユダヤ的心性を井筒はデリダに見ていたようですが、言うまでもなくこれは権威主義とは真逆の態度です。

神を永遠に待ち望むために、神を現前させないために、「絶対」を「脱構築」する。これは一見神の否定に見えて、実は裏返された神への信頼だと私は思うのですが、残念ながら東氏を初めとする「日本ポストモダニスト」たちにこうした精神の緊張は感じられません。南井さんがさんざんご指摘なさっているように、彼らが信仰しているのは「金と数」だけなのでしょうね。これでは砂漠をさまよう孤独な哲学者の気持ちは一生理解できないでしょう。

ところで今回の論考で「疑似一神教」という言葉が出てきましたが、これはどういう意味なのでしょうか。
現世的価値とは別の絶対的価値をおのおの心に持て、という意味かと思いますが「疑似」の二字が少し気になりました。
というのは「疑似的な信仰」というのが語義矛盾に感じられるからです。
先の「砂漠をさまようユダヤ人」のイメージもそうですが、神を信じるということは一種の「賭け」のはずです。
神が常に現前していれば、われわれは神を信じる必要がなく、ただ存在する神を受け入れればいいだけです。しかしそれは「信仰」とは言いませんよね。目の前に明らかに存在するリンゴをことさら信じる必要がないのと同様に、現前する神というのは信仰の対象としては無意味です。

「疑似的な神」、つまり自分で自分の神を仮設してしまうと限りなく無意味な信仰に近づいてしまうのではないかと思ったのですが……差し支えなければこの「疑似一神教」にどんな思いを込めたのか教えていただけますでしょうか。

論考の主題と関係のないことばかり書いてしまってすみません。
ここ数年コメントができずにいたのですが、
南井さんのブログは欠かさず読んでいました。
南井さんの文章からはいつも知的活力をもらっています。

頑張って下さい。応援しています。


HOHさんへの返答

どうも、南井三鷹です。
HOHさん、コメントをありがとうございます。

HOHさんもご指摘のとおり、東浩紀がデリダを理解できていないことは明白です。
『存在論的、郵便的』が評価されたのは、単なる業界のマーケティング事情でしかありません。
日本の「現代思想」は思想の内実より、話題性を生み出すスターシステムで一儲けすることを優先していました。
それが千葉雅也というどうしようもない鈍才を担ぎ上げる結果になりました。

『存在論的、郵便的』で東が取り上げたデリダの「絵葉書」は、「差延」という時差のシステムを思想基盤にして成立したテキストです。
つまるところ同時性に対する脱構築であり、「現前批判」を旨とするデリダ思想は明確にインターネットに対してアンチです。
日本でデリダ研究をしている学者は、このことを明確に語りません。
なぜなら、日本の「現代思想」は高度情報メディア=インターネットに依存するものでしかないからです。
(千葉雅也の二番目の著書は『ツイッター哲学』ですからね)

「疑似一神教」と何の断りもなく書いたことは、けっこう問題でしたね。
ご指摘ありがとうございます。
HOHさんが疑念を持たれるのも当然ですが、僕はそこまで想像が至っていませんでした。
僕の意図はつまらないもので、要するに「キリスト教的なもの」のことを言っています。
僕はキリスト教を一神教だとは思っていないために、つい「疑似一神教」と書いてしまったのです。

いや、そこは「一神教」でいいじゃないか、と今振り返れば思いますが、
どうせ偶像崇拝が大好きな日本人には厳格な一神教など受け入れられるわけがない、という思いが先行し、
エセ一神教のキリスト教くらいが現実的だろうな、と考えた結果「疑似一神教」と書いてしまったのです。
つまり、疑似宗教、擬似的な信仰という意味ではありません。

現在、僕は井筒俊彦の『神秘哲学』を読んでいる途中です。
デリダと井筒とのやりとりは『意味の深みへ』にありましたかね。
神秘主義について書いていくときに、井筒俊彦を取り上げたいと思っています。


(8月31日追記)
結局、読み直した結果、前に「キリスト教的な」と書いてあるので「疑似一神教」の「疑似」は必要ないと思いました。
いたずらに誤解を生むだけだと判断して消去、修正しました。
ご指摘ありがとうございました。

  • 南井三鷹
  • 2026/08/31(Mon.)

しょーもない思いつき

論旨と関係の無い内容ですが、コメント失礼します。

お目汚しになりますが、SNSを見ていたら「女性は嫌いだけど女体は好き」とかいう投稿を見て、ふと「共同性は嫌いだけど共同体は好き」という言葉遊びを思いつきました。

平等な社会のため女性や性的少数者が声を上げる事は納得しますが、他の論考の中で示されたように、男性もいる社会でどう共に生きていくという「共同性」が棚上げされ自己主張と自己承認が前面にでてバラバラになり、それをまとめるため同質的であることを求めて、逆に性としての体に頼る「共同体」になってしまったと思っています。
(上記の投稿は「男が産めるのウンコだけ」というヘンテコな運動へのリプライにあったものです。)

南井様は共同体への依存を批判されていますが、共同性にはコモンというルビを振って明確に区別していたと記憶してます。
もし性別による差異が体に成り替わるとしたら、共同体は同性的(両性具有?)な存在になるのではと考えました。

女総理の上目遣いとかの謎媚外交に困惑していますが、オフィシャルな場で敢えてプライベート(性的)を装うことはトランプの自己中外交に通じるものがあります。(どちらもいい年したオジサンオバサンというとこも)
それが強引であっても社会の構築を促す父性的なものに対する母性的な(内輪的な)反抗なのでしょうか?
社会という止むに止まれぬ前提を放り出して、その強引さだけを父性の特権だとしてるのでしょうか?(大審問官の語る小学生の自由だと思います。)
彼らは公共の場で共同性を築けないから、自分の体を拡大して共同体を語っていると思います。

けれど、共同体は母胎のように自らの体ではありません。異質なものを排泄しそれを代便してくれる存在です。
胎内の子が母親の体を見る事ができないならその体のイメージは自分の鏡像になります。
そして性的な発達のない幼児にあっては女性であっても母が女性であると実感できないでしょう。
だからそれは無性あるいは両性具有となります。
言ってしまえば、どちらでも遊べる人形のようなもので、おままごとの度に役割を取っ替えているのでしょう。
それで遊ぶ自分という中心を手放さずに。

けれど誰もがその人形を同じものだとは考えません。ケンカになる。それでは一緒に遊べない。だから人形に名前を家を家族を価値を与え
てブランディングしなくてはならないのです。

南井様は、天皇は元帥としての男性と象徴としての女性二つを併せ持つと記しました。
なんかバカに天皇が男性である事に拘っていますが、家父長制としての建前を母性への甘えに上書きるするために野郎に女形をさせているのなら、女総理はその逆で母性への甘えという本音を家父長制によって上書きされた女体で表現しているということでしょうか?
(前時代的な建前を持ち出す事でしか男性として主張できないのは野郎として悲しくなります。)

建前として通用していただけの観念ではなくて、甘えるだけの誤魔化しでもなくて、その時代に生きている人間としてどうやっても生きてやるという意思。そして自分が周りに生かされていた事、どうやって周りが生きてきたかを知る事。

共同性とは誰かと共に生きるために託すものであり、託されたものを無碍にされたくないという自負と信頼の構築によってできるものだと私は思います。
あのピカチュウのぬいぐるみは遠い国ではピカチュウでは無くその人の大事なぬいぐるみなのです。こんな偶像崇拝ですが、それでも手放したくないし、手放さないために人々がどうしてきたかそれを知るべきでしょう。

とっ散らかってしまいましたが以上です。
コメント失礼いたしました。

往来市井人さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
往来市井人さん、示唆に富むコメントをありがとうございます。

往来市井人さんの言いたいことはなんとなくわかるのですが、
なにぶん問題が複雑で整理するのが難しいところに入り込んでいるので、返答の方も簡単に語ることはできそうにありません。

まずは古代天皇制からの日本社会が、父権的なのか母権的なのかという問題があります。
柄谷行人などは既存の学説を踏まえて、「両性的」だと捉えていたと記憶しています。
僕自身は「父権的な超母性的共同体」であったと考えています。
この世の「外部」にある死者の魂の慰安を包括するような超母性が、「外部」に対峙し防衛する父権を支えている様なイメージです。
(ちなみに本居宣長は10歳くらいで父を亡くして、母やその実家に助けられた存在だったはずです)

「共同性は嫌いだけど共同体が好き」という言葉ですが、僕のイメージでは日本人は「公共性は嫌いだけど共同性が好き」という感じに見えます。
つまり、共同性には公共性を対置するのが適切な問題系だと考えます。
その二つを分けるものは、当然ながら「責任の有無」になります。
責任を負うのは嫌だが、責任のない共同性は好きだ、という話になりますが、「日本ポストモダン」のオタク的願望のほとんどはこれで言い表せると思います。
東浩紀が政治からの逃避に執着するのも、趣味的もしくは二次創作的な無責任な共同性を居場所にしていたいからでしかないわけです。

日本史上初の女性総理大臣は、このようなポモ的文脈の中で登場しただけです。
アメリカという父権の支配下でぬくぬくと母性的共同体を実現していたオタクたち(日本人)でしたが、
外圧の高まりとアメリカの弱体化によって、自分たちだけで「父権的な超母性的共同体」を作り上げる必要に直面しました。
そこで父権を演じてくれる女性に希望と期待を託していったと僕は分析しています。

しかしそこには大きな誤算がありました。
担ぎ上げる人材を大きく間違えてしまったのです。
高市は生物学的には女性ではありますが、「母性」を体現しているわけではありません。
性別だけで母権的と「勘違い」をされているだけの、父権的政治家(のモノマネ)です。
高市が政治的振る舞いに女性であることを利用しているので誤解している人が多いようですが、あれは「父権制に依存した女性」の振る舞いでしかありません。
だからリベラルな人たちは高市の女性的仕草が気に食わないのです。

つまり、高市が女性であろうと、母性による父性社会への攻撃という図式にはなりません。
実際は高市が「母性」を体現しているかのように人々に「勘違い」をさせることで、より旧態依然とした父権制社会を立て直そうとしているだけのことです。
ただ、所詮は詐欺なので、いつかはバレてしまいます。
だから自民党としては適当な時期に「使い捨て」たいわけですが、高市は自分勝手な女性なので「組織のために犠牲になる」という男性的倫理が通用しません。
そのため、裏にいる父権的な方々も手を焼いているというのが現状です。
(そうなると、高市に早期退陣してもらわない方が自民党にとっては都合が悪いということになりますね)

今の日本に「反抗」などという、「既存の流れ」に抵抗するエネルギーなど存在しません。
誰もが安直で誰もが困難から逃げるばかりの「タイパ的省エネ」社会でしかないのです。
すべては現実を直視できないことからくる「勘違い」で成立しています。
だから往来市井人さんが書いてくれたように「母性への甘えという本音を家父長制によって上書きされた女体で表現している」という分析は結果的に当たっています。

まともな文芸評論を一つとして書いているように見えない「文芸評論家」のあの女性のように、
肩書きだけは立派でも中身は安直な現状肯定しかない、単なる「業界の広告塔」でしかない「消費保守」的存在の元祖が村上春樹であり、その後継者が東浩紀です。
単なる「共同性」などは、大谷翔平やワールドカップサッカーの話題を共有していれば成立するものです。
つまり、共同性は共同体を成立させなくても「話題性」だけで存在しうるのです。
真に考えるべきは「公共性」だと思います。
「公共性」を考えていくならば、建前のための前置きである「責任ある」などという言葉はハナから必要なくなります。

いつまでも「天皇の子供」で居続けることはできない、ということを、
この国の人たちは真剣に考えることができるのでしょうか。
数の論理を重宝している限り、不可能だと僕は思っています。

  • 南井三鷹
  • 2026/08/31(Mon.)

プロフィール

名前:
南井三鷹
活動:
批評家
関心領域:
文学・思想・メディア論
自己紹介:
     批評を書きます。
     SNS代わりの気軽なブログを目指して、失敗したブログです。

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