南井三鷹の竹林独言

汚濁の世など真っ平御免の竹林LIFE

意味から逃走する「回転寿司」文学

ポストモダン文学は「回転寿司」

80年代バブル経済以降に流行したポップ文学を「ポストモダン文学」というパラダイムで考えれば、その嚆矢は村上春樹や俵万智になるだろう。
たしかに彼らの作品は社会現象と呼べるほどのセールスを記録したが、それが「灯滅せんとして光を増す」でしかなかったことは、長く暗黒の中にある文学の現状を見れば明らかだ。
高尚だった文学の通俗ポップへの転落──権威ある王をギロチン送りにするような擬似革命──は、その瞬間のエネルギーが頂点なので、権威が消えたあとは底辺への志向を繰り返し模倣するだけとなる。
こうして80年代以降の文学は、最安値をめざして同じ場所をぐるぐるループするだけの「回転寿司」になった。

最近は回転寿司チェーン店もタブレット注文のオンデマンド方式が増えたが、ポストモダン全盛期にはフードロスも何のそのでレーンの上を寿司が回っていた。
それはさながらミニチュア遊園地のようであり、回っている寿司は食べ物以上の何かであった。
「憧れ」の高級グルメである寿司を、手の届くところに運んでくれる回転寿司──。
それは巨大ファッションイベントの東京ガールズコレクションで、有名モデルが身にまとう「憧れ」の服(リアルクローズ)に似ている。
観客の少女たちは、服をスマホで購入してイベントに参加するわけだが、
回転寿司も同じで、回っている寿司を手に取ることでミニチュア遊園地のイベントに参加できる。
ならばレーン上の寿司は、客の「視線を集める=アテンションを獲得する」ためのファッション(スペクタクル)として、ランウェイを颯爽と回っていることになる。
客の手元に引き寄せられて初めて、それは食べ物と化す。

ポストモダン文学が目指していたものは回転寿司でしかない。
書店の棚が回転寿司のレーンであるならば、そこに並ぶことで書籍は「商品」となる。
しかし数ある寿司の中から選ばれるためには、レーンの上で客の視線を奪わなければならない。
物価も賃金も金利も上がらないデフレの経済状況で、回転寿司は低価格とエンタメ性で支持を広げたが、
再版制度で定価を維持するしかない書籍は、ファッション性を高めて内容を通俗的ポップにすることでデフレ消費へと対応していった。
こうして文学の旗手たちは、「低価格﹅﹅﹅ファッション的な欲望」に突き動かされることになる。
いかに自分の作品がお手軽なファッション性に優れているか、「今」の話題性に富んでいるか、
それを示すために、進んで自らの作品を深淵な文学よりも親しみやすいファッションやサブカルへと近づける。
客へのアピールのために、本の装丁や帯文などが必要以上に重視されることも少なくない。
何万部という本の売り上げはレジに運ばれた時点の評価でしかなく、その本を読み終わった後の評価ではない──これが全ての元凶だ。
とにかく手に取ってもらい、レジに運んでもらわないことには書物﹅﹅にはなれないのだ。

ファッションは「時代」と強く結びついている。
「今」に乗り遅れたくない、という強迫観念で、消費を促進するのが流行モードの役割だ。
文化が消費資本主義の中に組み込まれてしまうと、作り手の動機がこれしかなくなる。
こうして「業界」が用意したレーンの上をぐるぐる回転する文学商品は、流行のファッションをめざして「モード化」し「サブカル化」していった。

ミシュランなき文学業界

「回転寿司」文学によって言語芸術としての文学は場所を奪われてしまった。
なぜなら、わざわざ高額で敷居の高い寿司屋に行かなくても、身近にある回転寿司で「価格に見合った満足」が十分に得られるからだ。
これについては、安い値段でも「そこそこ」の質のものが買えるデフレ経済の影響が大きい。

それ以上に、個人が多様な商品の中から、自分の好みで自由に選択できる利便性が好まれているように見える。
ポストモダン文化によって、「選択の幅」を「自由」と履き違える人が増えた。
その結果、アイドルグループひとつに40人ものメンバーを必要とするようになった。
書籍の販売不振の中で、新書の新刊販売点数がやたらと増えていったのも同様の現象だ。
とにかく回転するレーンの上には多様な選択肢が並んでいるのだが、
それがいかに多様に見えようと、「制服」を模した画一的な衣装を着るアイドルたちのように、皿の上に乗る「同一規格の寿司」しかそこに存在することは許されない。
日本ポストモダンにおける多様性とは、あくまで同一性を基盤とした「商品の選択肢」でしかなかったのだ。

ラーメンなどのB級グルメも、「デフレ消費文化」を象徴している。
本格的な高級グルメは敷居が高いし、世界が奥深いので適当に自分の「好み」で付き合うだけでは済まない。
コストをかけず努力もせず、「そこそこ」の味を自由に楽しんで、「そこそこ」の暮らしに満足する──失われゆく「一億総中流」のノスタルジーが回転寿司なのだ。
いかにも資本主義の「消費する家畜」となった世代の「速い安い」文化という感じだが、
それが国家規模の「大文字」の経済的要請によって成立したことは、もっと広く認識されるべきだろう。
日本経済の長期停滞による「速い安い」デフレ消費を、オタクが主役の「小さな物語(データベース消費)」と錯覚させたのが日本ポストモダン思想だった。

誰にでも実感できることだが、高級な「食」には高い値段がつく。
基本的に500円のハンバーガーと1500円のハンバーガーが、同じクオリティとして通用することはありえない。
だから、グルメな舌を持たない「感性がニブい人」でも、値段を頼りにすれば「食」の良し悪しについてはある程度把握できる。
しかし、文学の価値というものは値段を頼りに測ることはできない。
歴史的に評価されている作品と、どこの馬の骨ともわからない新人作家の作品が同じ価格で並んでいるからだ。
だから、ブランド品のような高付加価値の商品を「もののわかる愛好家」に買ってもらうという商売が成立しない。
これがいつまで経っても、「素養なきド素人」が好む回転寿司を多売する以外の商売モデルが成立しない要因の一つになっている。

「食」の世界というのは本能に直結しているから案外堕落しない。
たいてい騙されるのは脳だからだ。
その意味で、文学のサブカル化とは「脳の巨大化=身体性の喪失」と強く連動している。

「食」の美味い美味くないは、ある程度までは本能でわかるものだが、
高度なグルメの価値を判定するためには、「基礎的な素養」が必要になる。
たとえば高級ワインの良し悪しを判定できる人は多くない。
ワイン愛好家を自認する人でも高級ワインの判定に苦しむことが、「芸能人格付けチェック」を見ているとよくわかる。
しかし、GACKTではないが、それを的確に判定できる人はいるわけだ。
ワインにソムリエがいることはよく知られているが、ポストモダン時代の文学業界ではソムリエに相当する「目利き」の文芸批評家が居場所をなくしていった。
回転寿司しか用意できない業界で、味にうるさい人に発言権を持たせるわけにはいかないからだ。
そのため、素人向けの業界宣伝に協力的な凡人に「批評家」という肩書きを与えて、回転寿司やラーメンをグルメとして語る「広告塔」をやらせている。

食文化の中心地であるフランスには、ミシュランガイドという信頼できる「格付け」機関がある。
文学の世界では、その役割を果たすのが文芸誌や文芸批評家であったわけだが、
それが村上春樹以後のポストモダン文学では完全に崩壊してしまった。
村上春樹の批判をする人は文芸誌で仕事をもらえないし、業界批判をしただけで訴訟沙汰になる場合もある。
結局、日本の文学業界は文学の質を守るよりも、安物作品が稼ぎ出す売上高を守ることの方を重視した。
つまり、「日本ポストモダン」とはデフレ消費の世界であり、すべての文化が二次創作シミュラークルレベルの「安物」になる現象だった。

消費による承認を求める「サブカル文学」

「日本ポストモダン」時代の文学作品は、文化の継承より消費の促進を重視した。
なぜなら、「売れる」以外の価値基準が失われてしまったからだ。
大量消費が価値だと疑われなくなると、消費以外の社会的関係に乏しい「消費する家畜」が大きな顔をするようになった。
彼らは主に消費行為によって社会との関係を築いているので、社会から自己の承認を求める時も必然的に消費行為をあてにするようになる。
そのため、「自分」や「自分の創作物」が消費されることを求めて、メディア上のクリエイターやインフルエンサーになりたがる人が増えた。
今や「一億総中流」は「一億総発信者」へと変わるような勢いだ。

デフレ経済下で消費を促進するなら、「そこそこ」のクオリティがある「速い安い」商品が効率的なのは言うまでもない。
じっくりと高度な技術を育てたり、様々な経験を重ねて人間性を磨く時間をかけたりするのは、非効率でバカバカしい。
だから、クリエイターになりたい人が、たいした修行もせずにインスタントに作品を作り、それが瞬時に評価される環境を用意しなければならない。
こうして、高度な文学を理解するのに必要な「基礎教養」や「人間的成熟」は衰退し、「幼稚で素養なきド素人」に媚びたファストフード的な「回転寿司」文学(サビ抜き)がレーン上にあるばかりになった。

たとえばポストモダン以前であれば、自分の好みに関わらず、文学をやるなら最低限このくらいの作品は読んでおくべきだ、という「基礎教養」が存在した。
実際、僕はそのような読書をしてきたし、おかげで好きでもない作品を読み通す「根気」が身についた。
しかし、大学の同級生たちは全く違う読書をしていた。
どいつもこいつも村上春樹、村上龍、島田雅彦などの回転寿司クオリティしか読んでおらず、文学の深みに挑むよりも「今」を消費することだけに夢中になっていた。

要するに、ポストモダン世代には人間の業や社会のあり方に対する問題意識がなかった。
なんとなく社会には満足し、自分のことくらいにしか関心がなかった。
そんな彼らの悩みの多くは「他人に理解されない自分」に関することであった。
誰も自分の気持ちをわかってくれない。
誰かに自分の気持ちを本当に理解してほしい。
そういう果てなき「お気持ち」承認の欲望があるばかりだ。
要するに「ママ、私を見て」の延長でしかないのだ。

「私を見て」の飽くなき自己承認の欲望が、作品というより「商品」に投影されることで、
レーンの上で「私を見て、手に取ってみて」と訴えかける「回転寿司」文学を生み出す原動力になっている。
「素養なきド素人」へと媚びるうちに、文学(や哲学)はどんどんサブカル化していった。

つまり、「回転寿司」文学の本質は、消費されることで「商品を生み出した」作者に社会的承認を与えることにある。
客が寿司を消費しないことにはレーンを回す意味がない。
その意味で、消費される寿司を作ることは、レーンの回転を支える行為であり、果ては回転寿司の親会社を安泰にすることを意味する。
「会社員になんかなりたくない!」とか言って作家になっても、出版業界のレーンを回す歯車に成り果てるだけなのだから、サブカル文学の「作家」になっても実質は会社員と大して変わるところがない。
知らぬが仏とはこのことだ。



脳内から出られない自意識短歌

比較的最近になって「回転寿司」文学に参入したのが、短歌や俳句という定型短詩だ。
とりわけ最近の短歌界はひどく滑稽な状態になっている。
僕は最近の短歌にそれほど詳しいわけではないのだが、書店で歌集が並んでいる棚くらいは目にするので、比較的若い世代の寿司で賑わっているのは知っている。
しかし、回転している寿司もとい歌集を手に取ってペラペラ見てみると、こんなものに金を出す人の気が知れないという感想しか浮かばなかった。

日常のちょっとした疎外感を、やたら拡大してみたり、ちょっとズラしたり、比喩などで上手いこと言ってみせたりして、
「私はこんなふうに思ったり感じたりしている」という「お気持ち」や「お考え」を57577に封じ込めているばかりだ。
つまるところ、作者の脳内をちょっと覗き見る気分になるだけだった。

相変わらず「あなた(きみ)」という二人称が頻発していたが、これは愛する恋人を指しているというより、漠然とした「母性」の投影でしかないように感じることが多かった。
自らを受け止めてくれる母なるものとしての「あなた」。
だから、恋愛の歌にも到達しない幼稚さだけが行き場もなく漂っている。
「ママ、私を見て」のレベルなのだ。

このような歌集を売ることに、どんな意味があるのだろう。
業界の「回転」を持続させ作者に社会的承認を与える役割以上のものがあるようには思えないのだ。
業界や作者に奉仕するばかりの歌を、純粋に金を出してまで読みたがる読者がどれだけいるのだろうか。
短歌や俳句は「作り手たちの共同体」のイメージが強いが、純粋読者に金を払わせるだけの力を持つ作品がどこにどれだけあるのか、僕には疑問しかない。
いや、「内輪業界」の外を目指している歌人がどれだけ存在しているのかすら疑問だ。
自分の自意識の殻の中にとどまりながら、「短歌業界」という母なるものに抱かれて安心したい、
そういう欲望ばかりが前に押し出されて、肝心の言葉は滝のように秒で流れ落ちてページの奥に沈んで消えてしまう。

わかりやすいことを言えば、どの歌にも「身体性」が欠如している。
作者の脳内が開示されていくばかりで、その外に言葉が出ていかない。
言うまでもないことだが、「身体性」は単に感覚器官としての身体を描くことによっては生じない。
つまり、指で髪に触れる、とか、鼻をつまむ、とか、雨が目に入る、とか書けばいいわけではない。
そうではなく、現実の一部を身体によって占める、奪い取る、傷つける、という「既存の存在に対する抵抗」によって生じる。
外界に対する「抵抗」や「反抗」がなければ、歌に「身体性」は宿らないのだ。
世の中にすでにあるもの、起こったことに対して、ただ「自分の気持ちや考え」を遠回しで作為的な言葉にしてみせたからといって、そんなものは何にもならない。
「消費する家畜」として社会的に去勢された何者かが、人間の脳を持て余している虚しさがあるばかりだ。
はたして脳だけの人間に、「歌う」ことなどできるものだろうか。

短歌はポップ化、サブカル化の果てに、自己の承認を求める「脳内短歌」となった。

「無意味」を価値とする愚かな「現在」弁護

業界と作者自身にとってしか意味がない現代短歌や現代俳句は、業界外部の読者にとってほとんど価値を持たない。
それを自覚しているのか、むしろ「意味がない作品」こそが素晴らしいのだ、という論法で価値を疑う外部の声をシャットアウトしようとする。
ポストモダン文化の本質は同じことを繰り返す「タイムループ」にあるのだが、
「意味がない作品」を何やらハイセンスなものとして売り出そうとする「身内批評」が、定期的に出現しては消えていくのはそのためだ。

ちょっと前にポストモダンにかぶれた若手俳人たちが、言語遊戯的な「意味のない俳句」を新しいと強弁する愚かな騒ぎがあり、このような「身内批評」を僕は外部から積極的に批判したのだが、
最近では短歌の世界で「テクスチャ(テクスチャー)」という言葉を利用して、同様の「無意味な言語遊戯」を弁護するムーブが起こっている。
「テクスチャ」とは、物体の表面的な「手触り」「質感」を表す言葉で、建築素材やCGアート、化粧品や音楽業界が先行して用いていたものだ。
立体感はあっても表面性を特徴とするので、触覚と言いながら視覚にも強く結びついている。
言葉の起源がラテン語の「織物」にあり、化粧品の使用実感にも用いることから、ファッションに関連する言葉であることは無視できない。
定型短詩の世界はいつだってモードに「駆け込み乗車」をしたがるのだが、最近になって短歌の業界でこの言葉を導入して批評的に用いるのが流行っている。
それがわかりやすく確認できるのが、瀬口真司による9月11日の講談社現代ビジネスの記事だ。

短歌業界に疎い僕は瀬口という歌人のことは不幸にして存じ上げないが、短歌賞の受賞歴がある歌人みたいなので業界の「身内批評」であることに間違いない。
正直言って、牽強付会が多すぎて読むのが苦痛だったので、適当に目についたところだけを「つまみ読み」させてもらった。
実は瀬口の記事は原稿をここまで書いたところで「発見」したのだが、最初からガムとかグミとかドーナツとか「廉価グルメ」から話が始まっていた符合には笑わせてもらった。
(もしかしたら、回転寿司という表現でも今や高級すぎるのか?)

「言語化」がブームだとは知らなかったが、瀬口は伝達言語を〈透明なツール〉だと決めつけ、それに対抗するものとして「意味に還元できない余剰」を「言語の身体性」などと言い出している。
こういう意味を「仮想敵」とする主張そのものが、ポストモダンのタイムループの中で何度も繰り返されてきたもので、「また始まった」という感想しか出てこない。

実はポストモダン文学には、社会と対峙できないモラトリアムの「非リア充」人生を肯定するという「巨大な使命」がある。
身体的体験で獲得された人生の厚みや強度で勝負できない人たちが、脳内で言語をこねくり回して作ったのが「脳内短歌」になるが、
「速い安い」が価値であるポストモダンにおいては当然ながらこれも肯定されなければならない。
そのために「社会的な意味に到達しない言葉」で「モラトリアムな自分」をキラキラに見せようというファッション的動機を、作品に「意味がない」とすることで過剰に価値づけしようとしているのだ。
いやはや、こんなことをいつまで続けるのだろうか。
たしかにファッションは自分のコンプレックスを隠すことにも役立てられるが、都合の悪いことを隠すために空疎な言葉を弄するなら、詩を書くより政治家にでもなった方がよっぽど向いている。

「テクスチャ」云々で語られる短歌の正体は、ポストモダンで繰り返されている「意味から逃走する」短歌でしかない。
その果てにあるのは、自分自身からの逃走だろう。
瀬口の記事に「テクスチャ」に関連する短歌の実例があったので、それを引き受けて具体的に作品を解釈することにする。

小さいシャツに大きなバッジ まぎれたりしないと誓うその曇天に/我妻俊樹『カメラは光ることをやめて触った』(書肆侃侃房、2023年)


この歌は本当に「意味に還元できない余剰」の表現になっているのだろうか。
「曇天」というはっきりしない空模様にまぎれないように、小と大の組み合わせでメリハリをつけていこう、という伝達的意味が普通に読み取れるように思うのだが。
歌集のタイトル以外のどこに「テクスチャ」を感じればいいのかもわからない。

ターコイズ・ブルーのコード、チャイニーズ・ピンクのコード、時間はないよ/山本仮名「TOKYO」(角川「短歌」2025年8月号)


ウェブで用いられる色のコードは16進法で表される。
ターコイズ・ブルーは#00afcc、最初の0+0は0で0時を示し、
チャイニーズ・ピンクは#f9c1cfなので、最初のfは10進法なら15なのでf+9=24で24時となる。
0時=24時だから「時間はないよ」ということなのだろう。
僕にはこの歌から「意味に還元できない余剰」をどう感じればいいのかわからないし、そもそもウェブ上の記号に「質感」などあるものだろうか。

きみから羽を取り外すとき四肢につく従順でエアリーな水着焼け/由良鴻波「インターチェンジ」(角川「短歌」2026年6月号)  


羽と四肢を持つ生物など考えても思いつかないので、「意味に還元できない余剰」なのではなく、ハナから「現実に着地しない」だけのことでしかないのではないか。
四肢に水着焼けがあるなら、四肢に水着をつけていたわけだが、こういう言語遊戯こそが「身体性の欠如」によって成り立っていることを批評するべきではないのか。

ああわたしは手描きの☆だ台所の流しに立って桃を啜れば/平岡直子「紙の星」(「短歌研究」2026年9+10月号)


「台所の流しに立って桃を啜る」という仕草には、林檎を皮のままかじるようなワイルドさがある。
女性である作者を男性的な身体へとズラした上で、そんな自分を「手描きの☆」へと置き換える。
しかし、「わたし」が「ああ」という感動詞つきで明示されているため、ジェンダー的なズラしよりも作者自身のアイデンティティに対する私的感慨に着地する。
(桃を台所で啜る描写も、ジェンダーの揺らぎよりファストフード的な「速い安い」を本質としている)
このような「自己完結性」は「意味に還元されない余剰」ではなく、安易な共感性からの疎外を描いた安っぽい孤独感の表現でしかない。
共感を求めないスタイルを提示して共感を求めるというやり方が、ハッキリ言ってめんどくさい。

もはや説明しないと理解できないのかもしれないので、きちんと説明するが、
「意味に還元されない余剰」とは、意味に還元しようと努めたとしても、しきることができない余剰分のことだ。
つまりは「言語化」や「意味化」をしたとしても、それでも汲み尽くすことができないものがなければ、そう表現するのは適切ではない。
だから、そもそも「意味から逃れようとしている」言語表現に、「意味に還元できない余剰」などあるわけがないのだ。
要するに「言語化」すると安っぽく恥ずかしい回転寿司でしかないことが見え見えになるので、
言語上の作為を用いて、意味が簡単にわからないようにして逃げているだけなのだ。
「♪〜ありのままなんてー、愛させたげなーい」という感じだろうか。
(このような言語遊戯が、ポストモダン思想の「言語論的転回」によってもたらされたことは、すでに別の記事で書いた)
瀬口の記事のような「ごまかし言説」が、ポストモダンの「回転寿司」文学を支えている。
回転しすぎて今が何周目かもわからないので、正直うんざりしている。

「テクスチャ」という言葉の濫用について、メディア論の見地からひとつ言っておく。
3DのCG画像で用いられることでも明らかなように、「テクスチャ」の語が持つ「質感」とは視覚﹅﹅優位﹅﹅の﹅表面性の範囲に留まっている。
これこそがパソコンやスマホ的な身体だと思うのだ。
クリックやフリックやスワイプなどスマホに接触する身体はほとんどが指先﹅﹅であり、そこでの身体性は二次元に触れる「手触り」に縮減されている。
「テクスチャ」への身体性の縮減は、ハッキリ言えばコンピュータ端末としか付き合いのない貧しい身体(二次元に萌えるオタク的身体)のリアルを語っているだけのことでしかない。
歌人が詠む「あなた」がペラペラで薄っぺらい存在でしかないのも、紙や画面の表面性に言葉が封じ込められているからではないのか。

ポストモダンの時代にさんざんやり尽くされた「意味から逃走する文学」とは、若い世代を「消費する家畜」にするための「国策」をアシストする役割のようなものだった。
意味が理解できる人しか評価しない商品より、理解を問わず魅力的に見える商品の方が大量のセールスが期待できることは言うまでもない。
また、文学が意味のないファッションであるかぎり、政治も社会も痛烈な批判にさらされることはない。
結局、ポストモダン文学には、ループする「永遠の今」をひたすら肯定する(弁護する)目的があるばかりだ。
このようなものに騙された世代が「失われた30年」でもう中年になったのに、未だ「権力者の敷いたレール」の正体も見抜くことができず、後輩世代にも同じ道をたどらせている。
まだまだ金のあった年配世代は「消費する家畜」として、ある程度充実した消費生活を楽しんだかもしれないが、
今の若い世代は残念ながら「消費する家畜」になっても、せいぜいスマホを通して金を吸い上げられるくらいの貧しい生活しか待っていない。

いいかげんポストモダン文化で成り上がった連中を引きずり下ろし、彼らがデフレ消費に踊って文学を回転寿司にしてしまった「戦犯」だということを認識させるべきだろう。

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三枚おろし

コメント失礼します。

これもまた、頭の中の言葉遊びに過ぎないのですが、魚って食べる為に捌かないといけないわけで、そのために技術を要します。
三枚おろしにする度に、その骨に沿った方法に感心するとともに自分の下手くそさに唖然とします。
当たり前ですが、魚を捌くとは可食部にならない骨とどう向き合うかということです。
(魚の骨もあら汁にするとおいしいですよね。)

お米は可食部にならない藁が本体で、精米の途中で出る糠も大事に利用してきました。
巨大な藁人形を御神体とする信仰も日本には存在します。

回転寿司はしゃりの上のネタを入れ替えるばかりで、魚を捌くような食材と向き合う調理の技術が欠けてるように思います。
骨も皮もないブロック肉のきれを冷凍ハンバーグと入れ替えるだけなら私や子供たちの方が柔軟でしょう。
(私ならやっぱりホモソーセージですね!)

食べるとは自分の身体を介して自分の命を繋ぐ基本的な行動であり、その為に周りの身体を害する行為でもあります。
解体する為に鎌や包丁といった刃物を手にして、肉を切り取り上記のように皮や骨を利用し無駄にする事なく生活に役立ててきました。

ですが今のご時世、刃物は非効率だし生産は動力による機械によって担われています。
(後銃とか)

この社会の生産を維持しているのは確かに機械のおかげでしょう。ですがその前には技術があり生活がありその歴史があったはずです。

ものと向き合うことを機械に全て委ねることは人間の身体で自然と向き合わざるを得なかった歴史の否定であり、中心を身体から動力へと明け渡すことになります。

動力を動かす上でエネルギーに変換できないものは邪魔でかつ破損の脅威でしかないので、そんなものは排除するか混ぜ合わせて均質化して廉価品として使うとよいでしょう。

結局、頭の中の言葉遊びでしかありませんが、その言葉遊び自体が無駄でしかないということであり無駄なものがあることがまだ許されているということです。
(家畜の肉を太らせる為に最適化された骨格があるように)

自分が家畜でないとでも言いたいのならまずは解体する技術を身につけて自分を解体してみる必要がありそうです。
自分がアンパンマンみたいな薄皮と餡子だけのおいしい部分でできていたら迷わずただ他人に与えればいいんですからね。
(ガムおじさんでもグミ子さんでもOKです!)

そうでないと気付いたなら、その技術をもって自分が生きていく為にどう刃物を扱い身体に切り込んでいくか磨いていくべきだと思います。
私の下手くそな三枚おろしじゃまだまだですけどね。(笑)

駄文失礼しました。

往来市井人さんへのコメント

どうも、南井三鷹です。
往来市井人さん、機知に富んだコメントをありがとうございます。

文学の「回転寿司」化という僕の思いつきに、哲学的な肉付けをしていただきました。
食事は「生きる」ことに直に触れる行為だったはずなのに、それを「技術」や「動力」に任せてしまった。
ポストモダン世代が廉価な家畜となってしまった原因を僕は考察していませんが、
往来市井人さんの考えは非常に示唆に富んでいます。

家畜化してしまった人間は、「自分を解体してみる」べきだという提案も面白いですね。
18世紀の江戸時代に蘭学が芽生えた頃、人体解体の書である「解体新書」の翻訳プロジェクトが大いなる衝撃を与えたことを思い出します。
日本において、「自分を解体する」ことは「外部の視点を受け入れる」ことと等しかったのではないでしょうか。

その意味で、ポストモダン文学は海外文学の勉強を怠けた時代の産物だったという視点があるべきでした。
海外文学の「翻訳」から始まった日本近代文学では、いつだって海外文学や海外文化を追いかける視点がありました。
村上春樹だって外国文学の翻訳文体をもとにしているわけで、春樹自身は(趣味が偏っていますが)海外文学の読書量はそれなりにあると思います。
しかし、バブル経済で「ジャパンアズナンバーワン」と言われた日本人は、「もう西洋に学ぶものはない」と調子に乗って勉強をサボりました。
近年に海外留学に行く若者が減った最大の原因は、このような「驕り」にあると思います。

もちろんポストモダン文学にも堀江敏幸とか小野正嗣とか、海外文学に通じた書き手はいるわけですが、
そういう人にも挑戦的な作品があるようには見えず、マイナー路線になって大学に逃げ込む「守られた家畜作家」になるばかりでした。
日本の女性作家がイギリスでウケているとか耳にしますが、そんなものはサブカルとしてウケているだけで、ヨーロッパの文化的堕落を象徴しているだけのことです。
もはや世界文学全体が「内向きの自己満足」に犯されています。
それがディズニーランド的な「囲われた遊園地」に暮らす「家畜」のための文学ばかりになった一因ではないでしょうか。
(だから僕はこれからの文学は、文学以外の「外部」へと挑戦するほかないと思っています)

とりわけ短歌や俳句のような定型短詩になると、海外文学の勉強がほとんど必要ありません。
その狭い世界の中では、江戸時代以前の作品や戦前・戦後付近の作品がかろうじて「外部」に近くなるわけですが、
ポップ化した短歌においては、そういう歴史性を脱ぎ捨てた「身軽さを自由と勘違いしたTシャツファッション」があるばかりで、内向き志向を強めるだけにしかなっていません。
むしろ内向き志向の受け皿として、短歌や俳句という「定型」が選ばれているような感すらありますね。

  • 南井三鷹
  • 2026/09/22(Tue.)

無題

南井さんこんにちは。

今回の論考も興味深く拝読しましたが、特に身体性に関する箇所に目が止まりました。

身体性の大切さについては他の論考でもたびたび言及されていたと思いますが、今回その定義を「既存の存在に対する抵抗」とされていたところにハッとしました。
思うのですが「現実の一部を体によって占める、奪い取る、傷つける」ことが身体性の本質とするならば、ここには他者性(公共性)の問題が現れて来ざるを得ないのではないでしょうか。
すぐ隣に存在している押しても引いてもビクともしない他者という存在に抵抗してゆくことで立ち上がるのが「身体」であり「公共」であり「現実」だとするならば、むしろ身体性の欠如とは対他意識の欠如(ナルシシズム)の現われの一様態に思えます。
最近巷にあふれている「~させていただきます」構文が私は気になって仕方がないのですが、既存の存在に早々に白旗を上げている点で、あれも一種の身体性の欠如なのかもしれませんね。

以前別のブログのコメントで現代への対抗原理として「神秘主義=本質主義」を出していきたい、という趣旨のことを仰っていましたが、これも身体性の回復とつながる話かと思いました。
私は俳句をやっているので我田引水になってしまうのですが、一句のモチーフに没頭していると目の前の「もの」と自分との関係が分かる時があるのですよね。
自分がその「もの」について取るべき態度が分かるのです。
その時に感じる確かさ、リアリティが身体性の源であり、もっと言えばロゴスの源でもあるのではないか……そんなことを考えてました。

毎回南井さんの論考からはたくさんの示唆をいただいています。
これからも応援しています。


HOHさんへの返答

どうも、南井三鷹です。
HOHさん、「身体性」についてコメントをありがとうございます。

「身体性」や「他者性」という言葉そのものは陳腐に映ります。
だから、その中身をどう考えていくかが重要だと思うのですが、
僕が文学や詩を通して感じている「身体性」は、HOHさんが明晰に指摘している通り、「もの」を含む「他者」との物質的な関係性を意味します。
キリスト教は魂の永遠性を重視するため、肉体を動物的で汚れたものとしがちです。
「日本ポストモダン」の坊ちゃん嬢ちゃんのオタク文化は、「速い安い亜流キリスト教」的なサブカルチャーに侵されているので、
他者との葛藤から逃げる「隠キャ」的な引きこもりとなって、身体性を縮小し、「永遠の今」というナルシシズムの疑似永遠性の中に居続けています。
このナルシシズムの疑似永遠性というモラトリアム的タイムループは、キリスト教的な自由ではなく「家畜」としての自由しか得られません。
(僕はこの現象も、西洋帝国主義による東アジア侵略の成果だと考えています)

日本人の多くはキリスト教に対抗できる神を持っていません。
国家に管理された仏教や神道はありますが、現世利益を動力とする宗教は、現世をリセットする魂の救済という力を持つキリスト教やイスラム教クラスの世界宗教には余裕で敗北します。
日本が西洋文化を模倣摂取しながら、キリスト教を徹底排除したのはそのためです。
大日本帝国はキリスト教に対抗するために、キリスト教を模倣した現人神による皇紀天皇制を作りましたが、
「死を恐れない」身体性の軽視によって、魂の永遠救済(靖国で会おう)を実現しようという「逆向き」のキリスト教へと至るだけでした。
三島由紀夫のやったことも、所詮はキリスト教の日本的パロディの域を出ないのです。
この宗教の弱さが、そのまま日本の弱さなのです。

天皇制に基づく疑似宗教の弱さについては、いずれ記事にしようと思うのですが、
先取りして言えば、「現実と戦えない」ことに尽きると思います。
既成事実化した現実をただ承認することしかできないのです。
「回転寿司」文学の根本もここにあり、現実の事象に振り回されつつ承認するか、現実化しないファンタジー的世界を設定して現実問題と戦っているフリをするかしかありません。

だから日本ではガチで世界宗教の信者になる以外は、個人レベルでキリスト教と張り合うほかありません。
僕が自分の思索によってめざしている神秘主義的な本質主義は、そのためのものです。

HOHさんが言う「もの」との関係によって自分をつかむというやり方は、僕が考えるような「イカれた宗教的方法」ではなく、もっと日常的実践に近い堅実な方法だと思います。
そのやり方は日本の伝統の中にしっかり存在していたものです。
今はだいぶ忘れられてしまっているので、それを探求するのは非常に重要な試みだと思います。
それこそ「手触り」のある俳句によって示されてもいます。
(当然ながら、「意味がない」のではなく、それは意味化してもし尽くせない表現になっているはずです)

僕が文学作品の実作にとどまることができなかったのは、おそらく「道」と表現されるような個人レベルの日常的実践に満足できないからなのでしょう。
欲が深いのか、敵が巨大すぎるのか、共同体レベルでの救済を捨てられないのです。
HOHさんがご自分の「俳句道」を極めていくことを、僕も心から願っています。

  • 南井三鷹
  • 2026/09/25(Fri.)

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