最近は回転寿司チェーン店もタブレット注文のオンデマンド方式が増えたが、ポストモダン全盛期にはフードロスも何のそのでレーンの上を寿司が回っていた。
それはさながらミニチュア遊園地のようであり、回っている寿司は食べ物以上の何かであった。
「憧れ」の高級グルメである寿司を、手の届くところに運んでくれる回転寿司──。

それは巨大ファッションイベントの
東京ガールズコレクションで、有名モデルが身にまとう「憧れ」の服(
リアルクローズ)に似ている。
観客の少女たちは、服をスマホで購入してイベントに参加するわけだが、
回転寿司も同じで、回っている寿司を手に取ることでミニチュア遊園地のイベントに参加できる。
ならばレーン上の寿司は、客の「視線を集める=アテンションを獲得する」ためのファッション(
スペクタクル)として、ランウェイを颯爽と回っていることになる。
客の手元に引き寄せられて初めて、それは食べ物と化す。
ポストモダン文学が目指していたものは回転寿司でしかない。

書店の棚が回転寿司のレーンであるならば、そこに並ぶことで書籍は「商品」となる。
しかし数ある寿司の中から選ばれるためには、レーンの上で客の視線を奪わなければならない。
物価も賃金も金利も上がらないデフレの経済状況で、回転寿司は低価格とエンタメ性で支持を広げたが、
再版制度で定価を維持するしかない書籍は、ファッション性を高めて内容を
通俗的にすることでデフレ消費へと対応していった。
こうして文学の旗手たちは、「
低価格ファッション的な欲望」に突き動かされることになる。
いかに自分の作品がお手軽なファッション性に優れているか、「今」の話題性に富んでいるか、
それを示すために、進んで自らの作品を深淵な文学よりも親しみやすいファッションやサブカルへと近づける。
客へのアピールのために、本の装丁や帯文などが必要以上に重視されることも少なくない。
何万部という本の売り上げはレジに運ばれた時点の評価でしかなく、その本を読み終わった後の評価ではない──これが全ての元凶だ。
とにかく手に取ってもらい、レジに運んでもらわないことには
書物にはなれないのだ。
ファッションは「時代」と強く結びついている。
「今」に乗り遅れたくない、という強迫観念で、消費を促進するのが
流行の役割だ。
文化が消費資本主義の中に組み込まれてしまうと、作り手の動機がこれしかなくなる。
こうして「業界」が用意したレーンの上をぐるぐる回転する文学商品は、流行のファッションをめざして「モード化」し「サブカル化」していった。
ミシュランなき文学業界
「回転寿司」文学によって言語芸術としての文学は場所を奪われてしまった。
なぜなら、わざわざ高額で敷居の高い寿司屋に行かなくても、身近にある回転寿司で「価格に見合った満足」が十分に得られるからだ。
これについては、安い値段でも「そこそこ」の質のものが買えるデフレ経済の影響が大きい。
それ以上に、個人が多様な商品の中から、自分の好みで自由に選択できる利便性が好まれているように見える。
ポストモダン文化によって、「選択の幅」を「自由」と履き違える人が増えた。
その結果、アイドルグループひとつに40人ものメンバーを必要とするようになった。
書籍の販売不振の中で、新書の新刊販売点数がやたらと増えていったのも同様の現象だ。
とにかく回転するレーンの上には多様な選択肢が並んでいるのだが、
それがいかに多様に見えようと、「制服」を模した画一的な衣装を着るアイドルたちのように、皿の上に乗る「同一規格の寿司」しかそこに存在することは許されない。
日本ポストモダンにおける多様性とは、あくまで同一性を基盤とした「商品の選択肢」でしかなかったのだ。

ラーメンなどのB級グルメも、「デフレ消費文化」を象徴している。
本格的な高級グルメは敷居が高いし、世界が奥深いので適当に自分の「好み」で付き合うだけでは済まない。
コストをかけず努力もせず、「そこそこ」の味を自由に楽しんで、「そこそこ」の暮らしに満足する──失われゆく「一億総中流」のノスタルジーが回転寿司なのだ。
いかにも資本主義の「消費する家畜」となった世代の「速い安い」文化という感じだが、
それが国家規模の「大文字」の経済的要請によって成立したことは、もっと広く認識されるべきだろう。
日本経済の長期停滞による「速い安い」デフレ消費を、オタクが主役の「小さな物語(データベース消費)」と錯覚させたのが日本ポストモダン思想だった。
誰にでも実感できることだが、高級な「食」には高い値段がつく。
基本的に500円のハンバーガーと1500円のハンバーガーが、同じクオリティとして通用することはありえない。
だから、グルメな舌を持たない「感性がニブい人」でも、値段を頼りにすれば「食」の良し悪しについてはある程度把握できる。
しかし、文学の価値というものは値段を頼りに測ることはできない。
歴史的に評価されている作品と、どこの馬の骨ともわからない新人作家の作品が同じ価格で並んでいるからだ。
だから、ブランド品のような高付加価値の商品を「もののわかる愛好家」に買ってもらうという商売が成立しない。
これがいつまで経っても、「素養なきド素人」が好む回転寿司を多売する以外の商売モデルが成立しない要因の一つになっている。
「食」の世界というのは本能に直結しているから案外堕落しない。
たいてい騙されるのは脳だからだ。
その意味で、文学のサブカル化とは「脳の巨大化=身体性の喪失」と強く連動している。

「食」の美味い美味くないは、ある程度までは本能でわかるものだが、
高度なグルメの価値を判定するためには、「基礎的な素養」が必要になる。
たとえば高級ワインの良し悪しを判定できる人は多くない。
ワイン愛好家を自認する人でも高級ワインの判定に苦しむことが、「
芸能人格付けチェック」を見ているとよくわかる。
しかし、GACKTではないが、それを的確に判定できる人はいるわけだ。
ワインにソムリエがいることはよく知られているが、ポストモダン時代の文学業界ではソムリエに相当する「目利き」の文芸批評家が居場所をなくしていった。
回転寿司しか用意できない業界で、味にうるさい人に発言権を持たせるわけにはいかないからだ。
そのため、素人向けの業界宣伝に協力的な凡人に「批評家」という肩書きを与えて、回転寿司やラーメンをグルメとして語る「広告塔」をやらせている。
食文化の中心地であるフランスには、
ミシュランガイドという信頼できる「格付け」機関がある。
文学の世界では、その役割を果たすのが文芸誌や文芸批評家であったわけだが、
それが村上春樹以後のポストモダン文学では完全に崩壊してしまった。
村上春樹の批判をする人は文芸誌で仕事をもらえないし、業界批判をしただけで訴訟沙汰になる場合もある。
結局、日本の文学業界は文学の質を守るよりも、安物作品が稼ぎ出す売上高を守ることの方を重視した。
つまり、「日本ポストモダン」とはデフレ消費の世界であり、すべての文化が
二次創作レベルの「安物」になる現象だった。
消費による承認を求める「サブカル文学」

「日本ポストモダン」時代の文学作品は、文化の継承より消費の促進を重視した。
なぜなら、「売れる」以外の価値基準が失われてしまったからだ。
大量消費が価値だと疑われなくなると、消費以外の社会的関係に乏しい「消費する家畜」が大きな顔をするようになった。
彼らは主に消費行為によって社会との関係を築いているので、社会から自己の承認を求める時も必然的に消費行為をあてにするようになる。
そのため、「自分」や「自分の創作物」が消費されることを求めて、メディア上のクリエイターやインフルエンサーになりたがる人が増えた。
今や「一億総中流」は「一億総発信者」へと変わるような勢いだ。
デフレ経済下で消費を促進するなら、「そこそこ」のクオリティがある「速い安い」商品が効率的なのは言うまでもない。
じっくりと高度な技術を育てたり、様々な経験を重ねて人間性を磨く時間をかけたりするのは、非効率でバカバカしい。
だから、クリエイターになりたい人が、たいした修行もせずにインスタントに作品を作り、それが瞬時に評価される環境を用意しなければならない。
こうして、高度な文学を理解するのに必要な「基礎教養」や「人間的成熟」は衰退し、「幼稚で素養なきド素人」に媚びたファストフード的な「回転寿司」文学(サビ抜き)がレーン上にあるばかりになった。
たとえばポストモダン以前であれば、自分の好みに関わらず、文学をやるなら最低限このくらいの作品は読んでおくべきだ、という「基礎教養」が存在した。
実際、僕はそのような読書をしてきたし、おかげで好きでもない作品を読み通す「根気」が身についた。
しかし、大学の同級生たちは全く違う読書をしていた。
どいつもこいつも村上春樹、村上龍、島田雅彦などの回転寿司クオリティしか読んでおらず、文学の深みに挑むよりも「今」を消費することだけに夢中になっていた。
要するに、ポストモダン世代には人間の業や社会のあり方に対する問題意識がなかった。
なんとなく社会には満足し、自分のことくらいにしか関心がなかった。
そんな彼らの悩みの多くは「他人に理解されない自分」に関することであった。
誰も自分の気持ちをわかってくれない。
誰かに自分の気持ちを本当に理解してほしい。
そういう果てなき「お気持ち」承認の欲望があるばかりだ。
要するに「ママ、私を見て」の延長でしかないのだ。
「私を見て」の飽くなき自己承認の欲望が、作品というより「商品」に投影されることで、
レーンの上で「私を見て、手に取ってみて」と訴えかける「回転寿司」文学を生み出す原動力になっている。
「素養なきド素人」へと媚びるうちに、文学(や哲学)はどんどんサブカル化していった。
つまり、「回転寿司」文学の本質は、消費されることで「商品を生み出した」作者に社会的承認を与えることにある。
客が寿司を消費しないことにはレーンを回す意味がない。
その意味で、消費される寿司を作ることは、レーンの回転を支える行為であり、果ては回転寿司の親会社を安泰にすることを意味する。
「会社員になんかなりたくない!」とか言って作家になっても、出版業界のレーンを回す歯車に成り果てるだけなのだから、サブカル文学の「作家」になっても実質は会社員と大して変わるところがない。
知らぬが仏とはこのことだ。
脳内から出られない自意識短歌
比較的最近になって「回転寿司」文学に参入したのが、短歌や俳句という定型短詩だ。
とりわけ最近の短歌界はひどく滑稽な状態になっている。
僕は最近の短歌にそれほど詳しいわけではないのだが、書店で歌集が並んでいる棚くらいは目にするので、比較的若い世代の寿司で賑わっているのは知っている。
しかし、回転している寿司もとい歌集を手に取ってペラペラ見てみると、こんなものに金を出す人の気が知れないという感想しか浮かばなかった。
日常のちょっとした疎外感を、やたら拡大してみたり、ちょっとズラしたり、比喩などで上手いこと言ってみせたりして、
「私はこんなふうに思ったり感じたりしている」という「お気持ち」や「お考え」を57577に封じ込めているばかりだ。
つまるところ、作者の脳内をちょっと覗き見る気分になるだけだった。
相変わらず「あなた(きみ)」という二人称が頻発していたが、これは愛する恋人を指しているというより、漠然とした「母性」の投影でしかないように感じることが多かった。
自らを受け止めてくれる母なるものとしての「あなた」。
だから、恋愛の歌にも到達しない幼稚さだけが行き場もなく漂っている。
「ママ、私を見て」のレベルなのだ。
このような歌集を売ることに、どんな意味があるのだろう。
業界の「回転」を持続させ作者に社会的承認を与える役割以上のものがあるようには思えないのだ。
業界や作者に奉仕するばかりの歌を、純粋に金を出してまで読みたがる読者がどれだけいるのだろうか。
短歌や俳句は「作り手たちの共同体」のイメージが強いが、純粋読者に金を払わせるだけの力を持つ作品がどこにどれだけあるのか、僕には疑問しかない。
いや、「内輪業界」の外を目指している歌人がどれだけ存在しているのかすら疑問だ。
自分の自意識の殻の中にとどまりながら、「短歌業界」という母なるものに抱かれて安心したい、
そういう欲望ばかりが前に押し出されて、肝心の言葉は滝のように秒で流れ落ちてページの奥に沈んで消えてしまう。

わかりやすいことを言えば、どの歌にも「身体性」が欠如している。
作者の脳内が開示されていくばかりで、その外に言葉が出ていかない。
言うまでもないことだが、「身体性」は単に感覚器官としての身体を描くことによっては生じない。
つまり、指で髪に触れる、とか、鼻をつまむ、とか、雨が目に入る、とか書けばいいわけではない。
そうではなく、現実の一部を身体によって占める、奪い取る、傷つける、という「既存の存在に対する抵抗」によって生じる。
外界に対する「抵抗」や「反抗」がなければ、歌に「身体性」は宿らないのだ。
世の中にすでにあるもの、起こったことに対して、ただ「自分の気持ちや考え」を遠回しで作為的な言葉にしてみせたからといって、そんなものは何にもならない。
「消費する家畜」として社会的に去勢された何者かが、人間の脳を持て余している虚しさがあるばかりだ。
はたして脳だけの人間に、「歌う」ことなどできるものだろうか。
短歌はポップ化、サブカル化の果てに、自己の承認を求める「脳内短歌」となった。
「無意味」を価値とする愚かな「現在」弁護
業界と作者自身にとってしか意味がない現代短歌や現代俳句は、業界外部の読者にとってほとんど価値を持たない。
それを自覚しているのか、むしろ「意味がない作品」こそが素晴らしいのだ、という論法で価値を疑う外部の声をシャットアウトしようとする。
ポストモダン文化の本質は同じことを繰り返す「タイムループ」にあるのだが、
「意味がない作品」を何やらハイセンスなものとして売り出そうとする「身内批評」が、定期的に出現しては消えていくのはそのためだ。
ちょっと前にポストモダンにかぶれた若手俳人たちが、言語遊戯的な「意味のない俳句」を新しいと強弁する愚かな騒ぎがあり、このような「身内批評」を僕は外部から積極的に批判したのだが、
最近では短歌の世界で「
テクスチャ(テクスチャー)」という言葉を利用して、同様の「無意味な言語遊戯」を弁護するムーブが起こっている。

「テクスチャ」とは、物体の表面的な「手触り」「質感」を表す言葉で、建築素材やCGアート、化粧品や音楽業界が先行して用いていたものだ。
立体感はあっても表面性を特徴とするので、触覚と言いながら視覚にも強く結びついている。
言葉の起源がラテン語の「織物」にあり、
化粧品の使用実感にも用いることから、ファッションに関連する言葉であることは無視できない。
定型短詩の世界はいつだってモードに「駆け込み乗車」をしたがるのだが、最近になって短歌の業界でこの言葉を導入して批評的に用いるのが流行っている。
それがわかりやすく確認できるのが、
瀬口真司による9月11日の講談社現代ビジネスの記事だ。
短歌業界に疎い僕は瀬口という歌人のことは不幸にして存じ上げないが、短歌賞の受賞歴がある歌人みたいなので業界の「身内批評」であることに間違いない。
正直言って、牽強付会が多すぎて読むのが苦痛だったので、適当に目についたところだけを「つまみ読み」させてもらった。
実は瀬口の記事は原稿をここまで書いたところで「発見」したのだが、最初からガムとかグミとかドーナツとか「廉価グルメ」から話が始まっていた符合には笑わせてもらった。
(もしかしたら、回転寿司という表現でも今や高級すぎるのか?)
「言語化」がブームだとは知らなかったが、瀬口は伝達言語を〈透明なツール〉だと決めつけ、それに対抗するものとして「意味に還元できない余剰」を「言語の身体性」などと言い出している。
こういう意味を「仮想敵」とする主張そのものが、ポストモダンのタイムループの中で何度も繰り返されてきたもので、「また始まった」という感想しか出てこない。
実はポストモダン文学には、社会と対峙できないモラトリアムの「非リア充」人生を肯定するという「巨大な使命」がある。
身体的体験で獲得された人生の厚みや強度で勝負できない人たちが、脳内で言語をこねくり回して作ったのが「脳内短歌」になるが、
「速い安い」が価値であるポストモダンにおいては当然ながらこれも肯定されなければならない。

そのために「社会的な意味に到達しない言葉」で「モラトリアムな自分」をキラキラに見せようというファッション的動機を、作品に「意味がない」とすることで過剰に価値づけしようとしているのだ。
いやはや、こんなことをいつまで続けるのだろうか。
たしかにファッションは自分のコンプレックスを隠すことにも役立てられるが、都合の悪いことを隠すために空疎な言葉を弄するなら、詩を書くより政治家にでもなった方がよっぽど向いている。
「テクスチャ」云々で語られる短歌の正体は、ポストモダンで繰り返されている「意味から逃走する」短歌でしかない。
その果てにあるのは、自分自身からの逃走だろう。
瀬口の記事に「テクスチャ」に関連する短歌の実例があったので、それを引き受けて具体的に作品を解釈することにする。
小さいシャツに大きなバッジ まぎれたりしないと誓うその曇天に/我妻俊樹『カメラは光ることをやめて触った』(書肆侃侃房、2023年)
この歌は本当に「意味に還元できない余剰」の表現になっているのだろうか。
「曇天」というはっきりしない空模様にまぎれないように、小と大の組み合わせでメリハリをつけていこう、という伝達的意味が普通に読み取れるように思うのだが。
歌集のタイトル以外のどこに「テクスチャ」を感じればいいのかもわからない。
ターコイズ・ブルーのコード、チャイニーズ・ピンクのコード、時間はないよ/山本仮名「TOKYO」(角川「短歌」2025年8月号)
ウェブで用いられる色のコードは16進法で表される。
ターコイズ・ブルーは#00afcc、最初の0+0は0で0時を示し、
チャイニーズ・ピンクは#f9c1cfなので、最初のfは10進法なら15なのでf+9=24で24時となる。
0時=24時だから「時間はないよ」ということなのだろう。
僕にはこの歌から「意味に還元できない余剰」をどう感じればいいのかわからないし、そもそもウェブ上の記号に「質感」などあるものだろうか。
きみから羽を取り外すとき四肢につく従順でエアリーな水着焼け/由良鴻波「インターチェンジ」(角川「短歌」2026年6月号)
羽と四肢を持つ生物など考えても思いつかないので、「意味に還元できない余剰」なのではなく、ハナから「現実に着地しない」だけのことでしかないのではないか。
四肢に水着焼けがあるなら、四肢に水着をつけていたわけだが、こういう言語遊戯こそが「身体性の欠如」によって成り立っていることを批評するべきではないのか。
ああわたしは手描きの☆だ台所の流しに立って桃を啜れば/平岡直子「紙の星」(「短歌研究」2026年9+10月号)
「台所の流しに立って桃を啜る」という仕草には、林檎を皮のままかじるようなワイルドさがある。
女性である作者を男性的な身体へとズラした上で、そんな自分を「手描きの☆」へと置き換える。
しかし、「わたし」が「ああ」という感動詞つきで明示されているため、ジェンダー的なズラしよりも作者自身のアイデンティティに対する私的感慨に着地する。
(桃を台所で啜る描写も、ジェンダーの揺らぎよりファストフード的な「速い安い」を本質としている)
このような「自己完結性」は「意味に還元されない余剰」ではなく、安易な共感性からの疎外を描いた安っぽい孤独感の表現でしかない。
共感を求めないスタイルを提示して共感を求めるというやり方が、ハッキリ言ってめんどくさい。
もはや説明しないと理解できないのかもしれないので、きちんと説明するが、
「意味に還元されない余剰」とは、意味に還元しようと努めたとしても、しきることができない余剰分のことだ。
つまりは「言語化」や「意味化」をしたとしても、それでも汲み尽くすことができないものがなければ、そう表現するのは適切ではない。
だから、そもそも「意味から逃れようとしている」言語表現に、「意味に還元できない余剰」などあるわけがないのだ。

要するに「言語化」すると安っぽく恥ずかしい回転寿司でしかないことが見え見えになるので、
言語上の作為を用いて、意味が簡単にわからないようにして逃げているだけなのだ。
「♪〜ありのままなんてー、愛させたげなーい」という感じだろうか。
(このような言語遊戯が、ポストモダン思想の「言語論的転回」によってもたらされたことは、すでに別の記事で書いた)
瀬口の記事のような「ごまかし言説」が、ポストモダンの「回転寿司」文学を支えている。
回転しすぎて今が何周目かもわからないので、正直うんざりしている。
「テクスチャ」という言葉の濫用について、メディア論の見地からひとつ言っておく。
3DのCG画像で用いられることでも明らかなように、「テクスチャ」の語が持つ「質感」とは
視覚優位の表面性の範囲に留まっている。
これこそがパソコンやスマホ的な身体だと思うのだ。
クリックやフリックやスワイプなどスマホに接触する身体はほとんどが
指先であり、そこでの身体性は二次元に触れる「手触り」に縮減されている。
「テクスチャ」への身体性の縮減は、ハッキリ言えばコンピュータ端末としか付き合いのない貧しい身体(二次元に萌えるオタク的身体)のリアルを語っているだけのことでしかない。
歌人が詠む「あなた」がペラペラで薄っぺらい存在でしかないのも、紙や画面の表面性に言葉が封じ込められているからではないのか。
ポストモダンの時代にさんざんやり尽くされた「意味から逃走する文学」とは、若い世代を「消費する家畜」にするための「国策」をアシストする役割のようなものだった。
意味が理解できる人しか評価しない商品より、理解を問わず魅力的に見える商品の方が大量のセールスが期待できることは言うまでもない。
また、文学が意味のないファッションであるかぎり、政治も社会も痛烈な批判にさらされることはない。
結局、ポストモダン文学には、ループする「永遠の今」をひたすら肯定する(弁護する)目的があるばかりだ。
このようなものに騙された世代が「失われた30年」でもう中年になったのに、未だ「権力者の敷いたレール」の正体も見抜くことができず、後輩世代にも同じ道をたどらせている。
まだまだ金のあった年配世代は「消費する家畜」として、ある程度充実した消費生活を楽しんだかもしれないが、
今の若い世代は残念ながら「消費する家畜」になっても、せいぜいスマホを通して金を吸い上げられるくらいの貧しい生活しか待っていない。
いいかげんポストモダン文化で成り上がった連中を引きずり下ろし、彼らがデフレ消費に踊って文学を回転寿司にしてしまった「戦犯」だということを認識させるべきだろう。