南井三鷹の竹林独言

汚濁の世など真っ平御免の竹林LIFE

オタクと保守の共鳴メカニズム

現在、「ガンダム」の新作映画が公開されているらしい。
これから始まるテレビ放送に先行した宣伝映画であることは、SNSに流れてくる情報でいつの間にか知っていた。
僕は富野由悠季監督作品以外のガンダムシリーズに興味がないので、「水星の魔女」と同じように無視するつもりなのだが、
その「ジークアクス」という新作に庵野秀明が関わっていると知って、一言書かずにいられなくなった。

僕は庵野作品について特に評価もしないが、嫌いということもない。
『トップをねらえ!』は高校の友人から貸してもらったし、『ふしぎの海のナディア』『新世紀エヴァンゲリオン』もリアタイで1話から観ているので、むしろ初期の頃から親しんでいたような気もするが、
『エヴァ』後のブームに関しては違和感しか持てず、『エヴァ』のリメイク劇場版についてはテレビ放映ですら観ていない。
実写映画『キューティーハニー』はたぶん観た)
僕は漠然と庵野本人よりも、庵野を評価したがる人たちの方に問題があるように感じてきた。

最近の庵野の映画といえば、『シン・◯◯◯』というリメイク作品ばかり目につく。
庵野は特撮オタクだった青春時代をループ体験するかのように、戦後を代表する特撮モノの「ゴジラ」「ウルトラマン」「仮面ライダー」のアップデート版(=シン)を制作した。
テレビ放映で『シン・ゴジラ』だけは観たが、評判ほど面白くもなかったし、描き方や展開にやはりアニメの影がちらついた。
それで「老舗ブランドとのコラボ商売」という「同じ手」を繰り返している話題性ばかりの人、というイメージになった。
なんやかんや趣味における「消費的な権威ブランド」を好むのがオタクだが、
庵野をブランドの保護者と考えるか、ブランドの腰巾着と考えるかで彼の評価は分かれるだろう。

問題なのは『ガンダム』というブランドに執着する人たちだ。
僕は富野由悠季の作品を、アニメという「枠」を超える力を持つものと評価しているので、
彼の作品の中で『ガンダム』だけが消費ブランド化して、大河内一楼や庵野秀明のような「既成の大枠」をあてにしている人の草刈場﹅﹅﹅になっていくことが寂しくも哀しい。

オタクというものを一概に定義するのは難しいが、僕のイメージで語らせてもらえれば、
「〈メディアが生成する大枠〉の中で、趣味嗜好に限定したつながりを持ちたい人たち」だと思っている。
彼らは社会的つながりの中心を趣味嗜好による消費行動に置いているため、 社会の公共性やそれを支える政治や経済に対する関心が低く、個人的な損得と好き嫌いを主な価値としている。
そのため、一見して個人主義的だが、実際は〈メディアが生成する大枠〉に依存する匿名的で集団的な存在だ。

社会システムや共同体も生活を支える「大枠」とは言えるので、「大枠」依存というだけで批判はできないのだが、
僕がオタクに批判的なのは、彼らが依存する「大枠」が〈メディアが生成する大枠〉でしかないからだ。
〈メディアが生成する大枠〉の具体例には、政治的イデオロギーからマスメディアの生み出す社会風潮、フィクションにおける作品世界やキャラの「設定」まで、大小さまざまなものがあり、
現実を知る手助けにもなれば、「都合の悪い現実」を遠ざける枠としても機能する。
ただ、オタクにとっては、その「大枠」が趣味的なものに限られるため、現実逃避の手段として利用されている。
オタクが「学園」という枠を好んだり(ガンダムの学園モノという堕落!)、「ゲーム世界」という枠内で「異世界転生モノ」という大喜利のような作品を量産したがるのもそのためだ。
彼らは現実に存在する他者との対面的葛藤を恐れているため、メディアが用意した共通の枠=プラットフォームにみん﹅﹅なで﹅﹅接続﹅﹅する﹅﹅現象を頼るところがある。

ゼロ年代あたりだと、「秋葉原」を聖地プラットフォームとしてオタクが集団接続していたわけだが、
「AKB48」を思い浮かべてもらえばわかりやすいが、〈メディアが生成する大枠〉には必ずメディアを動かして金儲けをする「文化産業」が存在する。
オタクがそのような「文化産業」に、作品=商品を媒体メディアとして間接的に﹅﹅﹅﹅従属し依存している存在だということを、忘れてはいけない。
だから、彼らは「文化産業」に仕える秋元康のようなオタク的なクリエイター(というよりコーディネーター)にも強く依存している。
庵野秀明もそういう「オタクと支配メディアに支えられたコーディネーター」と考える方がしっくりくる。



ここで日本の消費者がオタク化した社会背景を振り返ろう。
90年代以降にバブル経済が行き詰まると、貯蓄への志向が高まり個人消費は縮小した。
そこで当時の経済体制とマスメディアは、ポストモダンを個人消費拡大の思想として権威化し、生活費を負担しない未成年の消費オタク化を進めていった。
(この過程で持ち上げられた新世代ポストモダン思想家コーディネーターが東浩紀だった)
この趣味的オタク化が日本の「保守化」を招いた原因だ、と僕はずっと主張してきた。
ポストモダン化と政治的保守化は地続きの現象なのだ。
オタクと「保守」の共通点が、〈メディアが生成する大枠〉に対する依存だと整理すれば、オタクから「保守」への移行も理解しやすくなることだろう。

まずはオタクにとっての「大枠」が、現実に対する保護膜﹅﹅﹅になっていることを理解する必要がある。
前述したように〈メディアが生成する大枠〉にはいろいろあるが、受け手に共有された作品世界もその一つだ。
作品が生み出す「メディア空間」が閉鎖的な枠となって、現実との間に膜を作る。
(家庭や学校が、未成年を「社会の現実」から守る枠になるようなもの)
そこは現実から切り離された「お約束の趣味空間」であり、現実との関係を忘れさせてくれる「メディア空間」となる。
この「メディア空間」は作品を共有するファンが多ければ多いほど強固となり、
強固であるほど現実との矛盾や乖離に対して耐久力を持つ。

最近の「保守」を自称する人たちも、雑誌やネットなどの「メディア空間」の中で勢力を拡大してきた。
彼らは直接に現実と向き合うより、保守系メディアが生成する「大枠」を通して間接﹅﹅的に﹅﹅現実と向き合うことを好んでいる。
つまり、オタクも「保守」も〈メディアが生成する大枠〉に依存して、現実逃避をしているという点では似た者同士なのだ。
彼らは自分と「メディア空間」との関係にばかり気を払っていて、現実とその「メディア空間」との乖離には注意を払わない。
だから、自分が属する「メディア空間」の見解と一致さえしていれば、どんなに現実離れした意見を発信しようと気にならないのだ。
SNSで移民排斥や女性蔑視の言説を発信しまくっている人が、現実生活でそのような言説を軽々しく口にしているかというと、おそらくそうではなかろう。
結局、特定の〈メディアが生成する大枠〉に守られた中で、イデオロギーではなく趣味嗜好(好き嫌い)として「保守的な言説」を発信しているだけなのだ。
あくまで現実から乖離した「消費的で趣味的な保守」という点で、やはりオタクに似ている。
(もちろん「リベラルな言説」を発信していても、〈メディアが生成する大枠〉から出ようとしない人は「保守」と何ら変わりのないオタク的メンタルだと判断すべきだ)

オタクが「保守」と共鳴するのは、消費社会という「大枠」を改変することに後ろ向きなところだ。
(だから、「大枠」が維持され消費拡大が期待できる消費税減税という政策が支持されやすい)
「保守」は政治的に見え、オタクはあくまで非政治的に見えるので、似ていることに気づかれにくいが、
本質的にはどちらも〈メディアが生成する大枠(=メディア空間)〉に支えられたネタ的コミュニケーションに依存・従属している非政治的存在だ。

そうなると、オタクにしても「保守」にしても、現実を知らずに「大枠」となる「子宮」の中で自分の欲望を満たしている未生児みたいなものに思えてくる。
だとすれば、まだ生まれてもない生物が、果たして死を恐れるものだろうか。
むしろ、ネットのアバターのように、本体の死など「彼らの現実」には存在しないのではないか。
それなら戦争についても無責任に強気なことが言えるはずだ。
しかし、本体の方が死んでしまって、ネットのアバターの方が生き残るなんてことは、実際は珍しいことでもないのだ。



もう一つ。
オタクと「保守」の〈メディアが生成する大枠〉信仰は、アメリカと日本では社会主義陣営に対する勝利へと向かう70〜80年代を「もう一度アゲイン」たどり直す権力者の懐古主義と結びつきやすい。
冷戦構造以上の「大枠」というものはないわけで、とりわけ勝利者側(西側)に属していた人たちは、その勝利者という「大枠」を強い心の支えにしている。
オタクが好む日本の現代思想が「フランス発の78年の思想」と同義であるのも、バブルに向かう時代へのループ願望があるからだ。
ガンダムシリーズの元祖『機動戦士ガンダム』が1979年に放送開始だったことは偶然と言えるだろうか。
庵野秀明がアップデートした作品も同時期に頂点を迎えたものばかりで、1960年生まれの彼にとっては自身がティーンエイジャーだった青春期と重なっている。

冷戦構造のような二項対立の「大枠」を前提にしたオタクメンタルは、本来ならフランス現代思想にとって批判されるべきものでしかないが、
日本では80年代以降に東大の大学院という「アカデミックな権威」に支えられたフランス現代思想が、「文化産業」たる大手出版社と結びついて〈メディアが生成する大枠〉として機能した。
この〈メディアが生成する大枠〉に依拠した東浩紀や千葉雅也のようなオタク気質が、日本ではなぜか「大きな物語」を批判するポストモダン批評家のように思われているのは皮肉だが、
もはやそれが皮肉であることも理解できない人が多数派になっている。
オタク的な知が一人前の知として扱われるようになった時に、アイロニーは死を迎えたと言えるだろう。

集団に溶け込まず一人で本を読むことを好んだというイーロン・マスクもオタク的な人に見える。
南アフリカの白人という出自も興味深いところで、地方に住む白人の非インテリ層に支持されているトランプと結びつく必然はあったのかもしれない。
しかし、アパルトヘイトという南アフリカの現実から「隔離」されていたマスクが、現実から自分を守る「中間的な大枠」を暗に求めていても不思議はない。
彼の経済的成功は既存の枠を破ったことに起因すると評価する向きもあろうが、実際は高度テクノロジーに依存した「先端性という大枠」にいち早く乗った商売にしか見えない。
最初の成功がオンライン決算サービスの構築であったことでも、単なる「効率の追求」でしかないと考えることもできる。
(そういえば今のマスクはトランプからDOGE(政府効率化省)を主導する地位を与えられている)

トランプ的な覇権への懐古主義的「保守」と〈メディアが生成する大枠〉を愛するオタクは共鳴する。
庵野秀明に効率化という発想はなさそうだが、現実と向き合わないために「母なる大枠」へとループする欲望がないと言えるだろうか。
彼が臍の緒エントリープラグという「母とのつながり」から自由になれないのは、「坊やだからさ」と言っておこう。

自分が見たくないものを信じる

Men willingly believe what they wish.

「人は喜んで自分の望むものを信じる」という古代ローマのユリウス・カエサルの言葉は、「人は見たいものしか見ない」という「確証バイアス」の説明に用いられたりする。
「確証バイアス」という言葉は認知心理学の用語らしいが、実を言うと僕は心理学というものをかなり信用していない。
心理学は当たり前の現象にもっともらしい名前を与えてカテゴライズに勤しんでいることが多く、
それが心理学を正当化する「確証バイアス」を産んでいるという皮肉がある。
一応説明すれば、「確証バイアス」とは、自分が考えていることを「正しい」と思いたいあまりに、
それを肯定する自己都合の情報ばかりに注目して、偏った「思い込み」を絶対化する心理のことのようだ。

トランプという「退屈」

今月20日にドナルド・トランプが再びアメリカ大統領に就任する。
昨年末からマスコミでは、2025年はトランプが大統領に再任することで、世界に大きな影響があるかのように語られているが、
鬼が笑うような話になることを承知で言うと、僕はそれほどの影響力を彼が発揮できるとは思っていない。
僕にとって、トランプという人物については「退屈」という感想があるだけだ。

昨今の「政治化」現象について

近年、日本の経済衰退が誰の目にも明らかになっている。
80年代以降に確立した消費資本主義では、個人単位の欲望充足を燃料にして経済活動を加速させた。
90年代後半以降のインターネットの爆発的普及によって、送受信メディアが端末化して完全に個人所有される事態になり、企業の消費促進のアプローチも個人端末スマートフォンをめがけてなされるようになった。
もはや「個人」とは内的葛藤や差異で形成されるものではない。
資本主義の動力となる消費者の単位でしかなくなったのだ。
YouTubeやSNSなど個人端末によるインターネット発信も一般化したため、
消費の単位と社会的発信の単位が一体化し、人々は消費をするように発信し、発信をするように消費するようになった。

選挙を支配する「被害の物語」

11月の兵庫県知事選挙の結果が全国的な話題になっている。
パワハラ疑惑が浮上し、議会の不信任決議で退職した斎藤元彦知事が、
その後任を決める知事選挙に再び出馬し、当選を果たしたのだ。
民意は議会の決定に反して斎藤を支持したわけだが、「斎藤は利権勢力にハメられた」という陰謀論を語るSNSやネットのインフルエンサーが、選挙結果に影響を及ぼす事態になった、と大手マスコミは総括している。

斎藤が「ハメられた」のが真実かどうかはわからないが、
今の日本の選挙システムで、知事選に当選する人に別の利権勢力がついていないとは考えにくい。
結局は利権と利権の争いなので、「利権と戦うヒーロー」という斎藤像はフィクションだろう。
では、なぜそんな架空の「物語」が現実的な力となったのだろうか。
それは「利権と戦う中で倒れた誠実な人」というエンタメ作品にしか存在しないような人物を、消費文化に慣れきった大衆たちが現実化しようとしたからではないか。

政治と封建的イデオロギー

衆議院選挙の投票日が夜逃げでもするかのようにあっという間に決まり、
人々の心の準備ができないうちに選挙が終わりそうな感じだが、僕はその結果に興味はない。
それより政治に対する違和感が強くのしかかるばかりだ。
その違和感とは、日本が経済先進国でありながら、経済合理性のない封建的イデオロギーを守り続けていることにある。
いつまで日本人は「世襲」などの封建的価値観を社会の柱にする気なのだろうか。

人類の落日

近頃の世界の状況を見ていると、人類の地上支配もピークを過ぎたと感じる。
自分自身が老境に近づいているからそう思えるのかもしれないが、
おそらく若い人であっても未来が暗いと感じる人は少なくないだろう。
あえて目につく原因を挙げれば、大量消費による社会劣化、気候変動による自然災害、地域紛争の拡大になるわけだが、
見通しが暗く思えるのは、それらの問題を本気で解決しようという意欲が、我々人類に見られないことにある。

なぜ「リベラル」と「保守」は似てしまうのか

英語の「リベラル liberal」という呼称が、日本の勢力として認知されるようになったのは、いつ頃だろうか。
僕の体感では、1990年代からよく見るようになり、安倍長期政権で保守派が力を強めた時期に定着した気がする。
「保守」に対する反対勢力として、「リベラル」という立場が形成されたのは間違いない。
中公新書を参考にすれば、宇野重規『保守主義とは何か』の出版が2016年なのに対し、
田中拓道『リベラルとは何か』は2020年で、やはり保守に対する後発という感がある。

植草一秀 白井聡『沈む日本 4つの大罪』②

前回に引き続き『沈む日本 4つの大罪』の話をする。
書名には「4つの大罪」とあるが、実はその4つの罪が何なのかよくわからない。
「経済」「政治」「外交」「メディア」の4部構成になっているので、
「4つ」はこれらに対応するのかもしれない。
今更だが、題名のセンスとしてはあまり感心しない。

植草の専門は「経済」なので、やはりこの分野での話が濃い。
安倍政権の経済政策「アベノミクス」の弊害が、最近はっきり出てきたところでもあるので、
今こそ冷静な評価ができるはずだが、大手マスメディアではその手の話がなかなか出てこない。
否定的な評価をしないように官邸から圧力があるのかもしれないが、
物足りなく感じていたので、植草のアベノミクスに対する分析は非常に興味深かった。
せっかくなので、ここでその内容について触れておきたい。

植草一秀 白井聡『沈む日本 4つの大罪』①

本屋に行くと、ハウツー本やノウハウ本、自己啓発書やナントカ入門書の群れが必ず目に入る。
これらのジャンルにニーズがあるのはわかるが、この先の売れ行きはどうなるのだろうか。
というのは、ハウツー系はYouTubeが得意とする分野に思えるからだ。

そのせいなのか、YouTubeやネットで活躍する人に、出版社がハウツー本や入門書を書かせる「悪手」も目立つ。
勢いのあるライバル産業と戦うより、寄りかかって頼ろうとする発想は、いかにも日本的な平和﹅﹅主義﹅﹅だ。
トップダウンの権威的命令には服従するが、ボトムからのゲリラ抵抗戦を嫌う人たちにとって、
混迷の時代を乗り切るノウハウも、海外や新興勢力から与えられるものだと信じているのだろう。
本当は、そのメンタルこそが「啓発」されるべきものなのだが。

プロフィール

名前:
南井三鷹
活動:
批評家
関心領域:
文学・思想・メディア論
自己紹介:
     批評を書きます。
     SNS代わりのブログです。

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