南井三鷹の竹林独言

汚濁の世など真っ平御免の竹林LIFE

政治なき「政治の季節」

日本は今や深刻な景気低迷期にある。
数年前のニュースでは、不況の原因は「コロナ禍」だと言っていたものだが、
さすがにその「ごまかし」も通用しなくなり、円安による物価高が直撃した今、経済停滞が国の構造的問題だということが誰の目にも明らかになっている。
そのため、「政治をどうにかしないといけない」という危機感が高まり、「政治の季節」が再到来するような機運がある。
しかし、人々の関心は本当に政治﹅﹅にあるのだろうか。

音声に脅かされる人々

先日、夜のテレビニュースをつけたら「電話恐怖症」が話題になっていた。
オフィスで電話対応をする時など、主に公的な場で見られるようだが、
程度の問題はあるにしても、電話をすることに不安や恐怖を感じること自体は、わりと普通の感性なのではないか。
若い世代ほど電話に対する苦手意識が高い、というアンケートも紹介されていたが、
これも年配者が電話応対の経験──「訓練」──を積んでいるために、苦手意識を持たなくなった結果と考えられる。
つまり、誰だって時に電話は怖いものであるし、「訓練」の賜物でそう感じなくなるだけのことに思えるのだ。

その意味で、「電話が怖い」という感覚自体は理解できるものの、それを「電話恐怖症」という言葉で表現したり、それをマスコミが広めていくことには違和感しかない。
そのニュースとしては、「苦しんでいる人」=「弱者」に寄り添っているつもりなのだろうが、
しかし、本当にその人が「弱者」と言えるのか冷静に判断する必要がある。
たしかに「電話恐怖症」の原因となるカスタマーハラスメント同然の迷惑電話を社会問題化することには価値があると思うが、
電話が怖いという心理﹅﹅だけ﹅﹅を過剰に正当なものとして扱うことには、大いに問題があると言わざるをえない。

「スラップ訴訟」について考える

どれだけ久々だろう、何年ぶりかに「現代思想」という雑誌を購入した。
僕がこの雑誌をつい買ってしまったのは、2025年5月号「特集「表現の自由」を考える」に「スラップ訴訟」を取り上げた論考があったからだ。

個人的なことになるが、僕は去る2023年に俳人の西川火尖から名誉毀損訴訟を起こされた。
そもそもSNS訴訟などくだらないので、いまさら詳しい事実を書こうとは思わないが、
目を疑ったのは、発信者情報の開示請求の書類に、西川が自分の悪事を隠蔽するデタラメの経緯を書いてきたことだった。
要は「でっちあげ」だったのだが、嘘を書いたのはどういう理由なのかと示談交渉時に質問したところ、相手弁護士は返事もよこさずに裁判の訴状を送ってきた。
(この弁護士──おそらく情報開示専門の「パカ弁」──は訴状に僕の名前を書き間違えて、裁判官に叱責された驚愕のナマクラだった)

「排除の政治」と老化する世界

グローバル資本主義が行き詰まった今の世界状況で、その処方箋であるかのように台頭しているのが、
競合する敵を力で取り除くことを解決と考える「排除の思考」だ。
あらゆる境界を「横断」して、遊牧民のように流動すること(ノマディズム)に価値を持たせるフランス現代思想は、移民肯定の思想としてグローバル資本主義(=アメリカ型消費資本主義)を支えてきた。
しかし、ゼロ年代以降に日本の「現代思想(ポストモダン思想)」が、思想や哲学としての実質を失い、インターネットやマスメディアに依存した商売に成り下がると、
その担い手たちもフィルターバブル的な同質性を前提とするようになり、異質なものの「排除」へと向かっていった。
(その典型が、東大系フランス現代思想研究者たちのマルクス・ガブリエルに対する醜悪なネガティブ・キャンペーンだった)

オタクと保守の共鳴メカニズム

現在、「ガンダム」の新作映画が公開されているらしい。
これから始まるテレビ放送に先行した宣伝映画であることは、SNSに流れてくる情報でいつの間にか知っていた。
僕は富野由悠季監督作品以外のガンダムシリーズに興味がないので、「水星の魔女」と同じように無視するつもりなのだが、
その「ジークアクス」という新作に庵野秀明が関わっていると知って、一言書かずにいられなくなった。

自分が見たくないものを信じる

Men willingly believe what they wish.

「人は喜んで自分の望むものを信じる」という古代ローマのユリウス・カエサルの言葉は、「人は見たいものしか見ない」という「確証バイアス」の説明に用いられたりする。
「確証バイアス」という言葉は認知心理学の用語らしいが、実を言うと僕は心理学というものをかなり信用していない。
心理学は当たり前の現象にもっともらしい名前を与えてカテゴライズに勤しんでいることが多く、
それが心理学を正当化する「確証バイアス」を産んでいるという皮肉がある。
一応説明すれば、「確証バイアス」とは、自分が考えていることを「正しい」と思いたいあまりに、
それを肯定する自己都合の情報ばかりに注目して、偏った「思い込み」を絶対化する心理のことのようだ。

トランプという「退屈」

今月20日にドナルド・トランプが再びアメリカ大統領に就任する。
昨年末からマスコミでは、2025年はトランプが大統領に再任することで、世界に大きな影響があるかのように語られているが、
鬼が笑うような話になることを承知で言うと、僕はそれほどの影響力を彼が発揮できるとは思っていない。
僕にとって、トランプという人物については「退屈」という感想があるだけだ。

昨今の「政治化」現象について

近年、日本の経済衰退が誰の目にも明らかになっている。
80年代以降に確立した消費資本主義では、個人単位の欲望充足を燃料にして経済活動を加速させた。
90年代後半以降のインターネットの爆発的普及によって、送受信メディアが端末化して完全に個人所有される事態になり、企業の消費促進のアプローチも個人端末スマートフォンをめがけてなされるようになった。
もはや「個人」とは内的葛藤や差異で形成されるものではない。
資本主義の動力となる消費者の単位でしかなくなったのだ。
YouTubeやSNSなど個人端末によるインターネット発信も一般化したため、
消費の単位と社会的発信の単位が一体化し、人々は消費をするように発信し、発信をするように消費するようになった。

選挙を支配する「被害の物語」

11月の兵庫県知事選挙の結果が全国的な話題になっている。
パワハラ疑惑が浮上し、議会の不信任決議で退職した斎藤元彦知事が、
その後任を決める知事選挙に再び出馬し、当選を果たしたのだ。
民意は議会の決定に反して斎藤を支持したわけだが、「斎藤は利権勢力にハメられた」という陰謀論を語るSNSやネットのインフルエンサーが、選挙結果に影響を及ぼす事態になった、と大手マスコミは総括している。

斎藤が「ハメられた」のが真実かどうかはわからないが、
今の日本の選挙システムで、知事選に当選する人に別の利権勢力がついていないとは考えにくい。
結局は利権と利権の争いなので、「利権と戦うヒーロー」という斎藤像はフィクションだろう。
では、なぜそんな架空の「物語」が現実的な力となったのだろうか。
それは「利権と戦う中で倒れた誠実な人」というエンタメ作品にしか存在しないような人物を、消費文化に慣れきった大衆たちが現実化しようとしたからではないか。

政治と封建的イデオロギー

衆議院選挙の投票日が夜逃げでもするかのようにあっという間に決まり、
人々の心の準備ができないうちに選挙が終わりそうな感じだが、僕はその結果に興味はない。
それより政治に対する違和感が強くのしかかるばかりだ。
その違和感とは、日本が経済先進国でありながら、経済合理性のない封建的イデオロギーを守り続けていることにある。
いつまで日本人は「世襲」などの封建的価値観を社会の柱にする気なのだろうか。

プロフィール

名前:
南井三鷹
活動:
批評家
関心領域:
文学・思想・メディア論
自己紹介:
     批評を書きます。
     SNS代わりのブログです。

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