
グローバル資本主義が行き詰まった今の世界状況で、その処方箋であるかのように台頭しているのが、
競合する敵を力で取り除くことを解決と考える「排除の思考」だ。
あらゆる境界を「横断」して、遊牧民のように流動すること(ノマディズム)に価値を持たせるフランス現代思想は、移民肯定の思想としてグローバル資本主義(=アメリカ型消費資本主義)を支えてきた。
しかし、ゼロ年代以降に日本の「現代思想(ポストモダン思想)」が、思想や哲学としての実質を失い、インターネットやマスメディアに依存した商売に成り下がると、
その担い手たちも
フィルターバブル的な同質性を前提とするようになり、異質なものの「排除」へと向かっていった。
(その典型が、東大系フランス現代思想研究者たちのマルクス・ガブリエルに対する醜悪なネガティブ・キャンペーンだった)
簡単に言えば、文化的左派は
精神ではなく
技術や
資本に依存しすぎたために、政治的右派に敗北したのだ。
「現代思想」を扱う大手マスコミは、抵抗の精神を育てることには関心がなく、
自分に対する学術的な批判すら、力で「排除」せずにはいられない大学教授をスターとして担ぎ上げた。
しかし、いまだ「現代思想」の崇拝者たちは、そういう「排除の思考」へと
転向した商業的なフランス現代思想を批判することができない。
(それどころか、こういう「排除」を是とする人物の本を、東大京大で最も読まれているとか宣伝している)
このように「排除の思考」は、右派の専売特許ではなく、左派的と目されるマスコミ御用達の売文知識人にも共有されている。
もはや社会において全体化していると言えるだろう。
人々は自分の利益が増大する未来を思い描く時には、新興勢力や流動性をポジティブに受け入れられるのだが、
将来に自分の利益が減少するのが確実視されるようになると、現状を維持したいという「保守」的な感情にとらわれるようになり、
新興勢力や流動性を「排除」することに執着するようになる。
資本主義から成長力が失われると「排除の思考」が支配的になるのには、このような大衆心理上の必然がある。
そう、「排除の思考」を支えているのは、
現状維持の欲望なのだ。
「リベラル」は人間に理想を求める現実離れした人たちだが、「保守」は理性や理想を信じない現実的な人たちだ、という定義を以前よく目にした。
この定義は「保守」寄りの杜撰なもので、実態とはかなり違っている。
理想に照らして現状変更を求めるのが「リベラル」であり、主に社会的「立場」の現状維持を求めているのが「保守」だというのが僕の理解だ。
「立場」という言い方がわかりにくければ「力関係」と言い換えてもいい。
要するに、今言われている「保守」とは、社会的な力関係の現状維持(その延長に身分制社会がある)を求める人たちのことだ。
現状が理想に対して常に現実であるのは当たり前なのであって、「保守」の考え方が現実的だということにはならない。
ロシアの侵攻や中国の圧力に対し、「力による現状変更は認めない」という大義名分がよく持ち出される。
現状維持を旨とする「保守」勢力にとって「現状変更」が許せないのは当然だが、
もはや一般向けのテレビニュースでもこのような「保守」的な言説が大義名分として流通している。
この言説の裏を返せば、「力による現状変更」は認められないが、「力による現状維持」は正義だという解釈が可能になる。
ここに「保守」の正体が端的に現れている。
「保守」勢力は英米中心のアングロ・サクソンによる世界支配という「現状」を、歴史の流れを押し留めてでも維持したい人たちなのだ。
彼らは見ようによっては歴史の流れに「抵抗」しているので、そこだけを見れば文化左派的な抵抗精神と共鳴してもおかしくはない。
僕は今の「保守」はポストモダン左派から生じたと確信している。
そのわかりやすい例を語ろう。

トランプ大統領とその支持者は「保守」の代表だと僕は思っているが、そのトランプは就任100日の閣議で「アメリカ湾(Gulf of America)」という赤いキャップを見せびらかしていた。
僕の記憶では「メキシコ湾」の名称を「アメリカ湾」へと変更する大統領令は、就任初日に出されたものだったはずだ。
初日に行った変更を100日目になって成果として誇っているならば、いかにも惨めでしかないが、
それ以上に、名称変更などは実際の自然そのものには何の影響も与えない、「認識上の操作」でしかないことに注目するべきだ。
思い浮かべてほしいのは、もともと「認識上の操作」が大得意なのは、ポストモダン的な文化構築論者だったということだ。
その手の文化構築主義者の主な標的は、ジェンダーやLGBTQなどの性をめぐる認識であり、
ポモ化したジェンダー系の運動の多くが、社会は男性中心に構築されてきたという「認識上の操作」においてなされている。
だから、男性社会を悪しざまに語る言説が繰り返されるのだが、SNSになると、そのレベルを越えて悪である男性を「排除」しようとする意見が多く垂れ流されていたりする。
男性の立場を下げれば女性の立場が上がるわけではないのだが、実際はそこにとどまっている。
女性自身の立場を社会的に向上させるために、連帯して男性権力者と戦うとか、そういう革命的もしくは実践的な面がちっとも見えてこない。
そのため、アンチ・フェミ系の連中も同様に、女性を悪く言う言説を大声で主張して「社会的力関係」の「現状変更」に対抗するようになる。
結果、両者が異性に対するネガティブ・キャンペーンを繰り返すだけでしかなくなっている。

トランプ大統領の政治姿勢も、多様性を求めるポモ的「リベラル」も、マスメディアを通じて大衆の支持を得ようとすると「排除の思考」へと行き着いていく。
自分が敵と見なす相手に対して、ネガティブ・キャンペーンをするばかりだ。
ネガティブ・キャンペーンは「排除の思考」を背後にはらんでいる。
移民が悪い、中国が悪い、貿易赤字が悪い、多様性が悪い、借金を増やす利上げが悪い。
「保守」と「リベラル」の違いは、悪しき敵と見なすものが違っているというだけ。
どちらも政治姿勢は似たようなもので、大量のネガティブ・キャンペーンの果てに敵を「排除」することしかない。
もはや政治や文化における右側か左側かの違いは、手袋の右手用と左手用、競馬場の右回りと左回り程度の違いになっている。
そのため、社会や世界は「分断」されていると声高に言われるわりに、
実態としては、ますます価値観が一元化された
全体主義に突入している。
現状に対する不満を自分以外の誰かのせいにして、それを攻撃して「排除」するという方法論に対する疑いがなくなっていく。
財務省が悪い、JAが悪い、消費税が悪い、外国人が悪い、マスゴミが悪い、権力批判をする奴が悪い。
右も左も「排除」すべきものが何かを声高に叫ぶばかりだ。
まるで誰かを排除する側に回れば、自分は排除されないと確信しているかのようだ。
こうした「排除の政治」の背後にあるのは、「向上心の無さ」もしくは「未来の不在」だと言える。
現状維持を求めているのだから、自分自身に努力を課して向上する必要はなく、現状の自分のままで社会的に肯定されるべきだ、という甘えがある。
つまり、努力することなく衰退社会で自己利益を守る方法が、敵の「排除」しかないということなのだ。
そこには未来の居場所はなく、過去へのノスタルジーしか存在しない。
Great Againに代表されるような、again... again... again... again...という過去への無限ループ。
人々が向上心を捨てた未来なき社会にこそ、「排除の政治」が台頭する。
今や「世界」がすっかり老いている。