南井三鷹の竹林独言

汚濁の世など真っ平御免の竹林LIFE

昨今の「政治化」現象について

近年、日本の経済衰退が誰の目にも明らかになっている。
80年代以降に確立した消費資本主義では、個人単位の欲望充足を燃料にして経済活動を加速させた。
90年代後半以降のインターネットの爆発的普及によって、送受信メディアが端末化して完全に個人所有される事態になり、企業の消費促進のアプローチも個人端末スマートフォンをめがけてなされるようになった。
もはや「個人」とは内的葛藤や差異で形成されるものではない。
資本主義の動力となる消費者の単位でしかなくなったのだ。
YouTubeやSNSなど個人端末によるインターネット発信も一般化したため、
消費の単位と社会的発信の単位が一体化し、人々は消費をするように発信し、発信をするように消費するようになった。

選挙を支配する「被害の物語」

11月の兵庫県知事選挙の結果が全国的な話題になっている。
パワハラ疑惑が浮上し、議会の不信任決議で退職した斎藤元彦知事が、
その後任を決める知事選挙に再び出馬し、当選を果たしたのだ。
民意は議会の決定に反して斎藤を支持したわけだが、「斎藤は利権勢力にハメられた」という陰謀論を語るSNSやネットのインフルエンサーが、選挙結果に影響を及ぼす事態になった、と大手マスコミは総括している。

斎藤が「ハメられた」のが真実かどうかはわからないが、
今の日本の選挙システムで、知事選に当選する人に別の利権勢力がついていないとは考えにくい。
結局は利権と利権の争いなので、「利権と戦うヒーロー」という斎藤像はフィクションだろう。
では、なぜそんな架空の「物語」が現実的な力となったのだろうか。
それは「利権と戦う中で倒れた誠実な人」というエンタメ作品にしか存在しないような人物を、消費文化に慣れきった大衆たちが現実化しようとしたからではないか。

政治と封建的イデオロギー

衆議院選挙の投票日が夜逃げでもするかのようにあっという間に決まり、
人々の心の準備ができないうちに選挙が終わりそうな感じだが、僕はその結果に興味はない。
それより政治に対する違和感が強くのしかかるばかりだ。
その違和感とは、日本が経済先進国でありながら、経済合理性のない封建的イデオロギーを守り続けていることにある。
いつまで日本人は「世襲」などの封建的価値観を社会の柱にする気なのだろうか。

人類の落日

近頃の世界の状況を見ていると、人類の地上支配もピークを過ぎたと感じる。
自分自身が老境に近づいているからそう思えるのかもしれないが、
おそらく若い人であっても未来が暗いと感じる人は少なくないだろう。
あえて目につく原因を挙げれば、大量消費による社会劣化、気候変動による自然災害、地域紛争の拡大になるわけだが、
見通しが暗く思えるのは、それらの問題を本気で解決しようという意欲が、我々人類に見られないことにある。

なぜ「リベラル」と「保守」は似てしまうのか

英語の「リベラル liberal」という呼称が、日本の勢力として認知されるようになったのは、いつ頃だろうか。
僕の体感では、1990年代からよく見るようになり、安倍長期政権で保守派が力を強めた時期に定着した気がする。
「保守」に対する反対勢力として、「リベラル」という立場が形成されたのは間違いない。
中公新書を参考にすれば、宇野重規『保守主義とは何か』の出版が2016年なのに対し、
田中拓道『リベラルとは何か』は2020年で、やはり保守に対する後発という感がある。

アメリカ左派のコピー活動

右と左の政治的対立の図式がいまだに重宝されているが、
日本でこの対立をもとに物事を考えていくと、なにやら居心地の悪さがつきまとう。

まず右派とされる人々だが、彼らは愛国を口にしながら、日本をアメリカの衛星国へと貶める売国政治家を支持している。
とことん自立心がないのに、口だけは「誇り」とか言って恥じらう様子もない。
理性が欠けていないと彼らに共感するのは難しい。

大量生産に従事させられる人々

山梨県富士河口湖町のローソン越しに富士山を撮影することが、外国人観光客に人気らしい。
中国人がSNSにその富士山写真をアップしたところ、多くの人が真似をして写真を撮りにくるようになったとのことだ。
訪れる観光客があまりに多く、身勝手な道路横断や施設侵入が見られたため、
自治体がやむなくそのスポットで富士山撮影ができないように、黒い幕を張る処置をしたというニュースがやっていた。

「言葉は、誰かを傷つけるためにあるのではない」という欺瞞表現

最近、空疎な商業主義による文学の去勢が勢いを増している。
その現象の一つとして挙げたいのが、「言葉は、誰かを傷つけるためにあるのではない」という欺瞞に満ちた表現だ。
要は「言葉で誰かを傷つけてはいけない」と言いたいのだろうが、
そう表現することを避ける理由は思い当たる。
本当の目的は言葉の使用を、特定の方向に「統制(誘導)」するところにあるからだ。
実際は「言論統制」を意図しているが、それを深層心理で出版人が支持しているとわかってしまうとまずいことになる。
だから美辞麗句に見える広告言語で曖昧化しているのだ。

もはや広告ポストモダンの言葉が文学ヒューマンの言葉より上位に位置して久しいとはいえ、
詩歌や純文学の書き手が、「言論統制」の欲望を隠した欺瞞表現に違和感すら感じないのだから笑うしかない。

内輪性と党派性ばかりの日本の商業文学空間

現在の日本の文学空間は、文芸雑誌の出版社によって支配されている。
そのため、文芸の創作者は驚くほどのマスコミ崇拝者ばかりだ。
マスコミや出版社が稼いでくれる作家を批判することはタブーになっていて、他の作家も粛々とその支配に従って文筆活動をしている。
そうやって商業的に管理されていることに疑問も不満も起こらない空間なので、
防音に配慮された商業的な個室で、他人の迷惑にならずにカラオケを楽しむ人たちの集まりになっている。
カラオケだから、誰もが自分の順番で歌う曲のことばかり考えている。
他人が歌う曲は葛藤なく拍手ができるレベルであれば問題ない。
もし偉い人が同席したら、人一倍大きな拍手をする。

自己愛メディアの時代

インターネットの普及は、個人単位のメディア発信を手軽にした。
本来、SNSなどの民主的なソーシャルメディアは、権威的な既存マスメディアとぶつかり合う面がある。
たとえばトランプ大統領は、既存マスメディアとやり合うために、Twitterを意図的に利用した。

そのようなトランプのやり方が良かったか悪かったかは別として、
日本ではソーシャルメディアが、既存マスメディアの十分な対抗軸として発展することはなかった。
テレビなどのマスメディアは、嬉々としてソーシャルメディアでバズった話題を取り上げたり、
テレビに協力的なYouTuberなども好んで出演させたりして、気持ち悪いくらいに両者の「一元化」へと向かっていったからだ。
出版業界でもネットで話題になった作品の商品化に力を入れていたし、
結局はネットで成功した人が、既存メディアでも成功者として扱われることになり、あっけなくネットの優位性が確立してしまったように見える。

プロフィール

名前:
南井三鷹
活動:
批評家
関心領域:
文学・思想・メディア論
自己紹介:
     批評を書きます。
     SNS代わりの気軽なブログを目指して、失敗したブログです。

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