南井三鷹の竹林独言

汚濁の世など真っ平御免の竹林LIFE

人類の落日

近頃の世界の状況を見ていると、人類の地上支配もピークを過ぎたと感じる。
自分自身が老境に近づいているからそう思えるのかもしれないが、
おそらく若い人であっても未来が暗いと感じる人は少なくないだろう。
あえて目につく原因を挙げれば、大量消費による社会劣化、気候変動による自然災害、地域紛争の拡大になるわけだが、
見通しが暗く思えるのは、それらの問題を本気で解決しようという意欲が、我々人類に見られないことにある。

なぜ「リベラル」と「保守」は似てしまうのか

英語の「リベラル liberal」という呼称が、日本の勢力として認知されるようになったのは、いつ頃だろうか。
僕の体感では、1990年代からよく見るようになり、安倍長期政権で保守派が力を強めた時期に定着した気がする。
「保守」に対する反対勢力として、「リベラル」という立場が形成されたのは間違いない。
中公新書を参考にすれば、宇野重規『保守主義とは何か』の出版が2016年なのに対し、
田中拓道『リベラルとは何か』は2020年で、やはり保守に対する後発という感がある。

植草一秀 白井聡『沈む日本 4つの大罪』②

前回に引き続き『沈む日本 4つの大罪』の話をする。
書名には「4つの大罪」とあるが、実はその4つの罪が何なのかよくわからない。
「経済」「政治」「外交」「メディア」の4部構成になっているので、
「4つ」はこれらに対応するのかもしれない。
今更だが、題名のセンスとしてはあまり感心しない。

植草の専門は「経済」なので、やはりこの分野での話が濃い。
安倍政権の経済政策「アベノミクス」の弊害が、最近はっきり出てきたところでもあるので、
今こそ冷静な評価ができるはずだが、大手マスメディアではその手の話がなかなか出てこない。
否定的な評価をしないように官邸から圧力があるのかもしれないが、
物足りなく感じていたので、植草のアベノミクスに対する分析は非常に興味深かった。
せっかくなので、ここでその内容について触れておきたい。

植草一秀 白井聡『沈む日本 4つの大罪』①

本屋に行くと、ハウツー本やノウハウ本、自己啓発書やナントカ入門書の群れが必ず目に入る。
これらのジャンルにニーズがあるのはわかるが、この先の売れ行きはどうなるのだろうか。
というのは、ハウツー系はYouTubeが得意とする分野に思えるからだ。

そのせいなのか、YouTubeやネットで活躍する人に、出版社がハウツー本や入門書を書かせる「悪手」も目立つ。
勢いのあるライバル産業と戦うより、寄りかかって頼ろうとする発想は、いかにも日本的な平和﹅﹅主義﹅﹅だ。
トップダウンの権威的命令には服従するが、ボトムからのゲリラ抵抗戦を嫌う人たちにとって、
混迷の時代を乗り切るノウハウも、海外や新興勢力から与えられるものだと信じているのだろう。
本当は、そのメンタルこそが「啓発」されるべきものなのだが。

西山松之助『芸』

明治維新以後を日本の「近代」として、江戸と明治で歴史を二分する考え方には、大きな落とし穴がある。
僕がそれを認識したのは、ようやく最近になってからだ。
日本人の多くは、近代化した明治以後と土着的な江戸以前とを分けて考える。
実際、学校教育では、江戸以前のものは「古典」に分類され、明治以後が「現代文」とされてきた。
江戸と明治の間で「認識論的切断」を行なっていると言ってもいいが、
それは確実に間違っている。
日本独特の問題を考えた時に、その原因が江戸時代に確立したシステムにある場合が案外多いからだ。
西山松之助の『芸』を読むと、そのことが確認できる。
江戸時代の「芸道」の姿は、現代の日本社会にも引き継がれている。

アメリカ左派のコピー活動

右と左の政治的対立の図式がいまだに重宝されているが、
日本でこの対立をもとに物事を考えていくと、なにやら居心地の悪さがつきまとう。

まず右派とされる人々だが、彼らは愛国を口にしながら、日本をアメリカの衛星国へと貶める売国政治家を支持している。
とことん自立心がないのに、口だけは「誇り」とか言って恥じらう様子もない。
理性が欠けていないと彼らに共感するのは難しい。

大量生産に従事させられる人々

山梨県富士河口湖町のローソン越しに富士山を撮影することが、外国人観光客に人気らしい。
中国人がSNSにその富士山写真をアップしたところ、多くの人が真似をして写真を撮りにくるようになったとのことだ。
訪れる観光客があまりに多く、身勝手な道路横断や施設侵入が見られたため、
自治体がやむなくそのスポットで富士山撮影ができないように、黒い幕を張る処置をしたというニュースがやっていた。

「言葉は、誰かを傷つけるためにあるのではない」という欺瞞表現

最近、空疎な商業主義による文学の去勢が勢いを増している。
その現象の一つとして挙げたいのが、「言葉は、誰かを傷つけるためにあるのではない」という欺瞞に満ちた表現だ。
要は「言葉で誰かを傷つけてはいけない」と言いたいのだろうが、
そう表現することを避ける理由は思い当たる。
本当の目的は言葉の使用を、特定の方向に「統制(誘導)」するところにあるからだ。
実際は「言論統制」を意図しているが、それを深層心理で出版人が支持しているとわかってしまうとまずいことになる。
だから美辞麗句に見える広告言語で曖昧化しているのだ。

もはや広告ポストモダンの言葉が文学ヒューマンの言葉より上位に位置して久しいとはいえ、
詩歌や純文学の書き手が、「言論統制」の欲望を隠した欺瞞表現に違和感すら感じないのだから笑うしかない。

客観的記述という倫理

林逋「小園小梅」の漢詩記事のところで、世捨て人を記録した『後漢書』の「逸民伝」に触れたが、
范曄はんようがそんな雑伝を書いたのには、司馬しばせん『史記』の影響がある。
『史記』にはすでに「游俠伝」(任侠を貫いた人の伝記)「滑稽伝」(巧みな弁舌で主君を諌めた人の伝記)「貨殖伝」(商人として成功した人の伝記)などの風変わりな列伝があったからだ。
范曄が司馬遷のスタイルを引き継いだことから、「逸民伝」が生まれたと言ってもいい。

その司馬遷の歴史意識に、時の皇帝権力さえ相対化できる、より上位の倫理意識があったことはよく知られている。
司馬遷は匈奴に投降した李陵を擁護する発言をして武帝の怒りを買い、宮刑を処されて男性のシンボルを失った。
おそらく獄中で司馬遷は考えたに違いない。
遠い西域で敵に降伏した将軍の真意を、都にいる皇帝がどのくらい理解できるものだろうか。
たとえ皇帝であっても、人間の主観的な判断はある「閉鎖性」の中にあるものだ。
主観による閉鎖的な判断は、歴史というもっと客観的かつオープンな場で相対化される必要がある。
おそらく、このような考えが『史記』の歴史的偉業につながっている。

北野圭介『情報哲学入門』

ここ数年は、新刊をあまり買っていない。
新書もほとんど買わないし、海外文学はわりと買うが日本の小説は全く読まない。
(日本人の手によるフィクションは漫画しか読んでいない)
例外は歴史研究に関する本で、明確に過去からの積み重ねがあるジャンルだけに信頼がおけるのだが、それ以外の新刊はあまりに「ハズレ」が多い。
新刊を買う場合は、翻訳ものか復刊した日本の本ばかりになっている。

講談社メチエの思想系の本も大概は「ハズレ」で間違いない。
あとがきを見ると大抵は編集者に感謝が述べられているので、岩波書店で「思想」の編集をしていた互盛央が切り盛りしていることがわかるのだが、
ソシュールで博論を書いたポストモダン系の人であるのに、岩波で時流を追いかけた思想本を作れなかった後悔があるのか、
大学デビューよろしく、ポストモダン衰退期になって講談社で流行思想に花を咲かせているようにも見える。

プロフィール

名前:
南井三鷹
活動:
批評家
関心領域:
文学・思想・メディア論
自己紹介:
     批評を書きます。
     SNS代わりのブログです。

ブログ内検索

最新コメント

[06/29 ややや]
[06/07 菅原潤]
[05/24 往来市井人]
[05/24 菅原潤]
[05/24 もちづきけんいち]

カレンダー

06 2025/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31