南井三鷹の竹林独言

汚濁の世など真っ平御免の竹林LIFE

西山松之助『芸』

明治維新以後を日本の「近代」として、江戸と明治で歴史を二分する考え方には、大きな落とし穴がある。
僕がそれを認識したのは、ようやく最近になってからだ。
日本人の多くは、近代化した明治以後と土着的な江戸以前とを分けて考える。
実際、学校教育では、江戸以前のものは「古典」に分類され、明治以後が「現代文」とされてきた。
江戸と明治の間で「認識論的切断」を行なっていると言ってもいいが、
それは確実に間違っている。
日本独特の問題を考えた時に、その原因が江戸時代に確立したシステムにある場合が案外多いからだ。
西山松之助の『芸』を読むと、そのことが確認できる。
江戸時代の「芸道」の姿は、現代の日本社会にも引き継がれている。

アメリカ左派のコピー活動

右と左の政治的対立の図式がいまだに重宝されているが、
日本でこの対立をもとに物事を考えていくと、なにやら居心地の悪さがつきまとう。

まず右派とされる人々だが、彼らは愛国を口にしながら、日本をアメリカの衛星国へと貶める売国政治家を支持している。
とことん自立心がないのに、口だけは「誇り」とか言って恥じらう様子もない。
理性が欠けていないと彼らに共感するのは難しい。

大量生産に従事させられる人々

山梨県富士河口湖町のローソン越しに富士山を撮影することが、外国人観光客に人気らしい。
中国人がSNSにその富士山写真をアップしたところ、多くの人が真似をして写真を撮りにくるようになったとのことだ。
訪れる観光客があまりに多く、身勝手な道路横断や施設侵入が見られたため、
自治体がやむなくそのスポットで富士山撮影ができないように、黒い幕を張る処置をしたというニュースがやっていた。

「言葉は、誰かを傷つけるためにあるのではない」という欺瞞表現

最近、空疎な商業主義による文学の去勢が勢いを増している。
その現象の一つとして挙げたいのが、「言葉は、誰かを傷つけるためにあるのではない」という欺瞞に満ちた表現だ。
要は「言葉で誰かを傷つけてはいけない」と言いたいのだろうが、
そう表現することを避ける理由は思い当たる。
本当の目的は言葉の使用を、特定の方向に「統制(誘導)」するところにあるからだ。
実際は「言論統制」を意図しているが、それを深層心理で出版人が支持しているとわかってしまうとまずいことになる。
だから美辞麗句に見える広告言語で曖昧化しているのだ。

もはや広告ポストモダンの言葉が文学ヒューマンの言葉より上位に位置して久しいとはいえ、
詩歌や純文学の書き手が、「言論統制」の欲望を隠した欺瞞表現に違和感すら感じないのだから笑うしかない。

客観的記述という倫理

林逋「小園小梅」の漢詩記事のところで、世捨て人を記録した『後漢書』の「逸民伝」に触れたが、
范曄はんようがそんな雑伝を書いたのには、司馬しばせん『史記』の影響がある。
『史記』にはすでに「游俠伝」(任侠を貫いた人の伝記)「滑稽伝」(巧みな弁舌で主君を諌めた人の伝記)「貨殖伝」(商人として成功した人の伝記)などの風変わりな列伝があったからだ。
范曄が司馬遷のスタイルを引き継いだことから、「逸民伝」が生まれたと言ってもいい。

その司馬遷の歴史意識に、時の皇帝権力さえ相対化できる、より上位の倫理意識があったことはよく知られている。
司馬遷は匈奴に投降した李陵を擁護する発言をして武帝の怒りを買い、宮刑を処されて男性のシンボルを失った。
おそらく獄中で司馬遷は考えたに違いない。
遠い西域で敵に降伏した将軍の真意を、都にいる皇帝がどのくらい理解できるものだろうか。
たとえ皇帝であっても、人間の主観的な判断はある「閉鎖性」の中にあるものだ。
主観による閉鎖的な判断は、歴史というもっと客観的かつオープンな場で相対化される必要がある。
おそらく、このような考えが『史記』の歴史的偉業につながっている。

北野圭介『情報哲学入門』

ここ数年は、新刊をあまり買っていない。
新書もほとんど買わないし、海外文学はわりと買うが日本の小説は全く読まない。
(日本人の手によるフィクションは漫画しか読んでいない)
例外は歴史研究に関する本で、明確に過去からの積み重ねがあるジャンルだけに信頼がおけるのだが、それ以外の新刊はあまりに「ハズレ」が多い。
新刊を買う場合は、翻訳ものか復刊した日本の本ばかりになっている。

講談社メチエの思想系の本も大概は「ハズレ」で間違いない。
あとがきを見ると大抵は編集者に感謝が述べられているので、岩波書店で「思想」の編集をしていた互盛央が切り盛りしていることがわかるのだが、
ソシュールで博論を書いたポストモダン系の人であるのに、岩波で時流を追いかけた思想本を作れなかった後悔があるのか、
大学デビューよろしく、ポストモダン衰退期になって講談社で流行思想に花を咲かせているようにも見える。

林逋「山園小梅」

佐藤保『詳講 漢詩入門』では、中国詩の重要なテーマとして「隠棲」が挙げられている。
中国には科挙という官吏登用試験があったが、
それを突破するには、漢詩を作る能力が必須だった。
つまり、文学は政治参加への直接的な手段になっていた。
(戦後日本でもある時期の東大の入試問題には、決まって漢詩が出題されていた)
簡単に言えば、社会的地位を得るために、詩の能力が評価基準になっていた。

詩の能力が出世を保証するようになると、おもしろい逆説が成立するようになる。
優秀な詩を書ける人であれば、たとえ出世しなくてもそれだけの能力がある人だと証明されるのだ。
それならば、官職を得て出世することがなかった人でも、素晴らしい詩さえ残せれば、自分の実務能力を示すことが可能になる。
だから、時の体制に背を向けて隠者となっても、卓越した詩を残すことでその能力を証明することができた。
中国の詩が「隠棲」する人たちの支えになれたのは、そのような力学のためだと僕は思っている。

内輪性と党派性ばかりの日本の商業文学空間

現在の日本の文学空間は、文芸雑誌の出版社によって支配されている。
そのため、文芸の創作者は驚くほどのマスコミ崇拝者ばかりだ。
マスコミや出版社が稼いでくれる作家を批判することはタブーになっていて、他の作家も粛々とその支配に従って文筆活動をしている。
そうやって商業的に管理されていることに疑問も不満も起こらない空間なので、
防音に配慮された商業的な個室で、他人の迷惑にならずにカラオケを楽しむ人たちの集まりになっている。
カラオケだから、誰もが自分の順番で歌う曲のことばかり考えている。
他人が歌う曲は葛藤なく拍手ができるレベルであれば問題ない。
もし偉い人が同席したら、人一倍大きな拍手をする。

現実空間の居心地良さ

僕にとっては、ネット空間より現実空間の方が断然居心地がいい。
最近、そういうことを確信するようになった。
その理由は、僕がどうしても「対面的コミュニケーション」を前提としている人間だからだと思う。

僕は顔が見えないネット空間でも、顔を合わせた時と同じようにコミュニケーションができる人としか付き合いたくない。
簡単に言えば、「ネット人格」みたいなものと関わりたくない。
裁判で顔を合わせたら弁護士ともども一言も反論できない幼稚な人間が、SNS上ではやたら偉そうな発言をしていたりするのは醜悪極まりないものだ。
面と向かって何も言えないならば、ネットでも言わないでもらいたい。

自己愛メディアの時代

インターネットの普及は、個人単位のメディア発信を手軽にした。
本来、SNSなどの民主的なソーシャルメディアは、権威的な既存マスメディアとぶつかり合う面がある。
たとえばトランプ大統領は、既存マスメディアとやり合うために、Twitterを意図的に利用した。

そのようなトランプのやり方が良かったか悪かったかは別として、
日本ではソーシャルメディアが、既存マスメディアの十分な対抗軸として発展することはなかった。
テレビなどのマスメディアは、嬉々としてソーシャルメディアでバズった話題を取り上げたり、
テレビに協力的なYouTuberなども好んで出演させたりして、気持ち悪いくらいに両者の「一元化」へと向かっていったからだ。
出版業界でもネットで話題になった作品の商品化に力を入れていたし、
結局はネットで成功した人が、既存メディアでも成功者として扱われることになり、あっけなくネットの優位性が確立してしまったように見える。

プロフィール

名前:
南井三鷹
活動:
批評家
関心領域:
文学・思想・メディア論
自己紹介:
     批評を書きます。
     SNS代わりのブログです。

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